2016年3月13日「今は恵みの時、今は救いの日」Uコリント6:1〜10

序−私たちは、日ごろの生活において、信仰はどのように影響しているでしょうか。一応クリスチャンだけど、日曜日は教会に行っているし、という感じでしょうか。それとも、救われた恵み、御言葉の生活への適用を実感して過ごされているでしょうか。使徒パウロの切実な証しを通して学びたいと思います。

T−今は恵みの時、今は救いの日−1〜2
 混沌としていたコリント教会には、パウロから伝えられた福音に堅く立っている人もいたし、偽教師の影響で信仰が曲がってしまった人もいたし、救いを求める求道者もいました。ここに、彼らに対して、重大な質問が投げかけられています。1節。5章の終わりのところで、神様は、あなたがたの救いのために御子イエス様に罪を負わせたのだから、神様の和解の懇願を受け入れてくださいと伝えていました。Uコリント5:20〜21。使徒パウロは、その救いの恵みを無駄に受けないでくださいと懇願しているのです。
 無駄になるというのはどういうことなのでしょうか。罪にほんろうされて、滅んでしまうような私たちをあわれんでくださった神様は、私たちを罪と滅びから救うために、御子イエス様を世に遣わしてくださいました。救い主イエス様は、私たちの代わりに十字架にかけられました。私たちは、家族や親しい者が自分のために労苦し、つらい目に会ったら、申し訳なく思い、心打たれるでしょう。神の御子が自分の罪の身代わりに罰を受け、滅びから救い、天国へ続く新しい命を与えてくださったのです。どんなに素晴らしいことでしょうか。どんなに感謝なことでしょうか。
 しかし、偽教師や形式的な信仰の者の影響のために、素晴らしい福音の恵みを聞き流してしまう者もいたようです。ですから、2節では、「恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」と言っています。どうしてこんなことを言っているのでしょう。福音を聞いた時が救いにつながる機会です。人生が変わる時になるからです。イザヤ55:6には、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」と言われています。強調されているのは、「今」という時、主にお会いできる、呼び求めることが機会です。一期一会のようです。
 ローマ総督ペリクスは妻とともに、捕らえられたパウロから福音を聞く機会を得ました。しかし、正義と節制とやがて来る審判を聞くと、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言いました。使徒24:24~25。やがて左遷されてしまい、それっきり福音を聞く機会を失ってしまいました。パウロ自身、ダマスコ途上で光の中で「なぜわたしを迫害するのか」というイエス様の声を聞き、その恵みの機会に答えて、回心しました。使徒9:3〜5。もし、この恵みの機会を逸してしまったなら、残虐な迫害者として悲惨な人生に終わったことでしょう。
 福音を聞き、心動かされる機会がまたあるかなど誰にも分からないからです。パウロは自分自身が体験しているからこそ、「神の恵みをむだに受けないように」と懇願しているのです。

U−恵みをむだに受けないように−1〜2
 しかし、福音の恵みを無駄にするのは、すでに信じて救われたクリスチャンにもありうることです。1〜2節の「神の恵みをむだに受けないように」というのは、救いを受けても、取り消され、無効になるというのでしょうか。私たちは今まで、聖書から、一度救われた者は何があろうと見捨てられることはないという聖徒の堅忍の教理を学んでいます。ただ、私たちの中には、罪の残滓があり、肉の弱さもあります。完全にされているのではなく、霊的造り変えの過程にあるに過ぎません。
 コリント教会の中には、信じていながらも、偽教師などの影響で、肉の思いになり、パウロを悪く言い、党派争いに陥っていた人々がいました。その姿は、まさに「神の恵みをむだに」していたのです。教会に通い、品良く振舞い、奉仕をし、形式的な信仰生活をすることはできます。しかし、イエス様を信じた者も、肉の思いで反応し、うわさ話をして生活していたら、恵みをむだにしているのです。御言葉に感動して感謝したり、悔い改めて聞き従うことがないなら、福音の恵みをむだにしているのです。
 Uコリント5:16〜17で学んだように、イエス様の十字架を信じて救われたなら、私たちは新しく造られた者であり、価値観も生き方も新しくされたのです。価値観が変わり、人を見る目が変わり、生き方が変わって来ます。頭で信じたに留まって、救いの恵みを享受することがないなんて、もったいなさ過ぎます。神の恵みをむだに受けないでください。こうして礼拝を通し、御言葉を通して神様の御声を聞く機会が、私たちにとって「今は恵みの時、今は救いの日」なのです。
 神様の御声を聞いておられますか。使徒パウロが、クリスチャンを捕まえに行く途中で、「なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いた時、それを聞き流していたら、イエス様の声だと知ることもなかったでしょう。パウロは、世の価値観と肉の評価によって人を迫害していたのであり、神の救い主を迫害しているなどとは思いませんでしたが、「私は何をやって来たのだ。こんなことはやめて、変わるのだ」と悔い改めたのです。
 色々な機会を通して、神様は私たちに語りかけてくださいます。まじめに形式的な信仰生活をしていても、「いつまで、そんな生活をしているのか」と、心に主の御声が響いて来る時もあるでしょう。小さな声でも、しっかり聞いて、答えたいのです。パウロが、「主よ。あなたはどなたですか」と答えたからこそ、回心に繋がって行きました。

V−苦しみや患難の中でも、恵みと救いがある−3〜10
 使徒パウロは、「今は恵みの時、今は救いの日」と言っているけれども、そういうパウロ自身、苦難に会っていたのに、どうしてそんなことが言えるのかと思うでしょう。私たちクリスチャンも、苦しい出来事に出会い、問題も次々起こって来ます。それでも、今は恵みの時、今は救いの日と言えるのでしょうか。そんな思いが、私たちの信仰生活をゆさぶります。
 4〜5節には、パウロの様々な苦しみの具体的な患難が列挙されています。私たちも、「忍耐、悩み、苦しみ、嘆き」を経験しています。パウロの福音宣教のために懸命に働き、活躍する姿が妬みを受け、栄光は主に、恥辱は我にという価値観が理解されず、苦難を受けました。自分を誇り、自分を主張する世の人々の中で、謙遜に主の栄光をあらわし、福音のために人々に仕えるパウロの姿は、貧弱に見え、軽く見られたようです。
 でも、パウロは、それで福音が前進すれば、良かったのです。人が救われ、変えられて行くので、喜びました。患難多い宣教の働きの中でも、「今は恵みの時、今は救いの日」と言えたのです。2節の「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」というのは、イザヤ49:8の引用です。このメッセージは、捕らわれて苦しめられ、さげすまれ、悩みの中にある人々に対してでした。イザヤ49:7〜13。そのような中にあるイスラエルの民に対して、やがて救い主が来られて、救いと回復が与えられると約束されている箇所です。救い主イエス様の預言です。やがて救い主が来られるから、希望と勇気をもって耐えなさいと励ましているのです。
 すでにパウロの時代は、救い主が来られました。だから、「今は恵みの時、今は救いの日です」と言われているのです。パウロは、患難と苦しみの中でも、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛を追究して生きました。そして、真理の御言葉と神の祝福と守りの力が、義の武器、宣教の力となったと証ししています。7節。確かに、私たちも評価を与えられなかったり、さげすまれたり、辛い立場に追いやられたり、苦しめられるかもしれません。しかし、イエス様に救われて恵みの中にありますから、純粋に信仰に生きて、勝利を得て行けるのです。それを忘れて、失望し、苦しみ続けるならば、神の恵みをむだに受けていることになります。
 患難と苦しみの中でも、しっかり救いの恵みを受けて生きていたパウロは、どのようになりますか。8節前半。人の評価を受けなければと思うのですが、ほめられ、そしられどちらもいい、神のしもべとして信仰に生きていることが大切だというのです。人の低評価や批判で悩んだり、落胆したりするなということです。私たちは、どうですか。イエス様の救いの中にあるのですから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。
 その確信に立つ者は、どのようになりますか。8節後半〜10節。素晴らしい比較です。騙していると言われても、福音は真実です。無視され誤解されても、主はご存知です。頼りなく死にそうに見られても、信仰によって生かされています。罵られ倒されても、守られます。辛い中にあっても、信仰にあって喜びを与えられます。貧しい中でも、人を富ませることができます。何も持たないようでも、イエス様を宿しているならすべてのものを持っていることになります。私たちは、世の評価に対して、「〜ようでも、しかし」と言えるのです。これが大切です。
 もし、素晴らしい救いを受けながら、評価されていない、無視されている、苦しいだけだ、私には何もないなどと思うならば、それは、神の恵みをむだに受けているとなるでしょう。患難や苦しみの中にあっても、私たち救われた者は、神の恵みの中に生きています。救いの恵みの中に守られています。私たちが救いの恵みによって生きて、その恵みを証ししてこそ、神の恵みを無駄にしない生き方となります。Tコリント15:10。



Uコリント6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
6:3 私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、
6:4 あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、
6:5 また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、
6:6 また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、
6:7 真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、
6:8 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
6:9 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。



イザヤ55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

使徒24:24 数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
24:25 しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イザヤ49:8 【主】はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
49:9 わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。【主】がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。

Tコリント15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

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