2016年3月20日「イエス様のくびきを一緒に」Uコリント6:11〜18
序−恵みをむだに受けないで、と言われても、コリントの聖徒たちは、どれだけ感じていたのでしょうか。そのために、パウロは、彼らがあまりピンと来ていない、誤解されてしまう微妙な課題について取り上げています。私たちも、誤解しているかもしれません。ピンと来るように学びましょう。
T−心を広くして−11〜13
そのために、使徒パウロは、まずこんなふうに語り出しています。11,13節。「コリントの人たち」と、愛情のこもった親しみを込めた呼びかけをしています。これから言うことは、コリントの聖徒たちをしかったり、責めたりするのではないことを示しています。それこそ、あなたがたに対して「心を広く開いて、包み隠すことなく話します」と、親愛の表現で語りかけています。イエス様によって救われ、罪赦されたパウロは、自分のためにイエス様が苦しみ、死なれたほど自分が愛された存在であることが分かり、人々に愛をもって仕えていました。
このように語りかけられたら、安心して聞くことができますね。パウロは、コリントの人たちから誤解され、悪く言われることもありました。酷く批判する者もいたようです。それなのに、パウロは、「自分の子どもに対するように」心を開いています。反抗し悪態をつく子だとしても、親が子にやさしく語りかけるときのようにしています。私たちは、他の人に対して、大事な話しをする時、このような心で語りかけているでしょうか。心を開いて接しているでしょうか。心が開かれていなければ、責められているように聞こえるでしょう。
受ける立場だって、心開いて聞きたいものです。そうすれば、要らぬ躓きや誤解は生じません。私たちが御言葉に対しても、同じことが言えます。神様に対して心が開かれていれば、御言葉から主の恵みと愛をあふれるように受けられますが、心が開かれていないと、御言葉に責められているように窮屈に感じることもあるのではないでしょうか。
パウロは、なぜそこまで気を遣っているのでしょうか。コリントの聖徒たちの状態は、どうだったのですか。12節。彼ら自身が、「自分の心で自分を窮屈にして」いたのです。こうしなければならないとか、こうするほかないのだと窮屈にしていたようです。それも、パウロから制約を受けているかのように誤解していたのです。微妙な問題に関しては、このようなことがよく起こるものです。かれらの方でも、心開いてくれる必要がありました。心開いて、人のことを聞いていますか。
U−つり合わぬくびき−14〜16a
それでは、どんな問題だったのでしょうか。それは、世の人々との関係です。この箇所は、あまりにも誤解されています。不信者と付き合うな、世の人々と交わるなと言っていると思い、そんなことできないと躓いたり、パリサイ人のように自分を世と分離する人々が出て来ます。世の人々と関係しないなんて、社会で生きているかぎり無理なことです。心を開いて、神様の愛と配慮のこもった御言葉だと聞けば、そんな受け取り方はしないのですが、律法的な心で読んで、誤解してしまうのです。
イエス様はどうでしたか。積極的に人々の中に出て行き、福音を語り、人々を助け、愛しました。罪人や収税人という人々から嫌われていた人々とも会い、受け止めました。前の章でも、イエス様の十字架は「すべての人のために死なれた」ことであり、クリスチャンは人々の救いのために世に遣わされたキリストの使節、大使だということも学びました。Uコリント5:14,20。もし、私たちと交わり、私たちに福音を証ししてくれたクリスチャンがいなかったら、私たちはどうなっていたことでしょう。
世の人々と関係するなとはまったく言っていません。ただ、コリントの聖徒たちが、偶像にとらわれ、肉と欲の思いに翻弄され、争いや妬みの中にあったからです。それは、世の罪の価値観や偶像崇拝の影響をもろに受けていたためです。パウロにとって、悲しい残念な姿です。神の恵みを無駄にしているような姿でした。救われて新しい命に生きる者は、それに迎合してはならないし、それに染まってもなりません。しかし、世に出て行き、世の人々に証しし、人々を愛し、助け、人に仕えるために、世に遣わされています。世の人と関係しないのかするのか分からなくなります。
そこで、ずばりこう勧めています。14a節。「つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」という大原則です。譬えで言っているところに大きな意味があります。くびき(軛)とは、畑を耕す時、牛などの家畜を二頭組みで首のところで一緒に木でくくり、鋤を引かせたものです。一くびきの牛は、同じ方向に進んで、しっかり鋤を引き、畑を耕すことになります。ところが、ロバと牛を一つのくびきにつけたら、速さや方向もばらばらで、鋤を引かせることはできません。申命記22:10。これが、「つり合わぬくびき」ということになります。
ですから、「つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけない」という譬えは、世の人々と関係するなということではなく、偶像礼拝や自己中心など、世の生き方にしばられてはいけない、罪と欲の考え方や行動を共にしていたら御言葉に生きられるのか、と言うことです。コリント教会で人々を争いと党派心に引き込んでいた人々は、信仰をもっているようでも、違うくびきです。そういう人々とくびきを共にしてはいけない、と警告されているのです。それが、どれだけつり合わぬくびきなのか、五つの比較で表現されています。14b〜16a節。極端な表現ですが、まったく違う、ともにできないくびきなのだということが強調されています。
これは、不信者の方の問題ではなく、信じている方の問題だということになります。未信者は、イエス様がその人のためにも十字架に死んでくださった尊い救われるべきたましいです。けれども、その罪と肉の考え、価値観を共にすれば、私たちは御言葉に生きることはできません。妬み、争い、うわさ話をするなどつり合わぬくびきをいっしょにしたら、古い自分に戻り、悲惨な姿になってしまいます。それは、神の恵みを無駄にしていると言わざるをえません。残念な姿です。私たちは、どんなくびきを負っているのでしょうか。どんな世のことに縛られているのでしょうか。
V−私たちは生ける神の宮−16b〜18
では、つり合わぬくびきを共にしないためには、どうすればいいのでしょう。信じて救われた者は、どんな存在であるか教えています。16b〜18節。まず、信じて救われた者は、その姿がどうであれ、「生ける神の宮」なのだというのです。イエス様を信じて救われた私たちは、主の御霊が住んでおられるので、イエス様の十字架の犠牲という代価をもって買い取られた聖霊の宮なのです。神の栄光を現して生きる者とされているのです。Tコリント6:19〜20。私たちは、神の宮なのだから、だから、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけないのは当然だというのです。聖い神の宮に偶像を持ち込むことはしないはずです。
私たちが御言葉に従って生き、造り変えられて新しい人になるには、自分がどういう者とされているかをしっかり自覚することです。そこに救いの恵みと主の御力が注がれて、聖化の歩み、祝福された信仰生活をすることができるようになります。16〜18節の括弧の中は、引用された旧約聖書の引用の表現ですが、要するに、イエス様を信じて救われた者は、神の子どもとされているということです。神様に愛されて、守られて、導かれて、共に歩む神の子とされているのです。ヨハネ1:12。こんなすごい特権に気付けば、生き方が変わらざるを得ません。
問題は、「つり合わぬくびき」を一緒にしないというだけでは無理なのです。私の身代わりとしてイエス様の十字架を信じて、罪と滅びから解放されたということだけですと、肉と欲の奴隷に戻ってしまうのです。罪の奴隷から解放されたなら、イエス様のしもべとして生きることが大事です。ですから、「つり合わぬくびき」というなら、「つり合うくびき」があるはずです。イエス様とくびきをいっしょにすることです。マタイ11:29〜30。人は、誰とくびきを共にしているのか、どんなくびきに支配されているかで、生き方が変わって来ます。あなたがしている世のくびきは何ですか。どんなしがらみに縛られ、何に支配され、どこに向かっていますか。
イエス様とくびきをともにするのは、いつもイエス様を思い、イエス様に聞き、イエス様に喜ばれるように歩み、イエス様だったらどうするかと考えることです。クリスチャンとは、キリストに属する者、キリストのものという意味です。その生き方から、そう呼ばれるようになりました。使徒11:26。くびきが同じであれば、共に歩み、労し、同じ方向に歩みます。イエス様のくびきを負う、どんなにうるわしい、幸いな姿でしょうか。
人は、目に見えない多くの偶像に支配されています。人に認められたい、お金持ちになりたい、自分の思うようにしたい、業績を上げなければ、人よりよくできなければ、プライドを立てなければ、などの偶像です。それがくびきになっています。世のくびきは、確かに重荷であり、苦しく辛いものです。しかし、イエス様とともに負うくびきは重荷ではありません。信じた者を恵みで生かし、祝福と御力を注いで世で用い、主の栄光をあらわして生きるように導くくびきです。イエス様の十字架を信じて救われた者は、つり合わぬ世のくびきを外し、イエス様のくびきをつけて、イエス様と共に生きるのです。
Uコリント6:11 コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。
6:12 あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。
6:13 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。
6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
申命記22:10 牛とろばとを組にして耕してはならない。
Tコリント6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
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