2016年4月3日「気落ちした者への慰め」Uコリント7:1〜7
序−私たちの日常生活で問題になるものの一つが人間関係です。使徒パウロも人間関係に悩み、苦しみました。私たちも、しばしばそうなります。イエス様を信じた者は、どのように悩み、どう向き合って、どう対処するのでしょうか。御言葉から学び、私たち自身に適用させましょう。
T−気落ちしたパウロ−1,5
パウロは、大変「気落ちして」いました。5節。少しの安らぎもなく、様々な苦しみに会って、内憂外患の心情でした。私たちは、どんなことで気落ちしたでしょうか。パウロがコリントを去った後、エルサレムからやって来た教師たちが、パウロの批判をするようになり、パウロを誤解する人々が出て来ました。パウロが書き送った手紙から、自分たちを責めているように受け取り、気を悪くした人々もいました。3節。
人間関係については、パウロも随分心痛め、悩みました。Uコリント11:28〜29。預言者エリヤは、バールの預言者450人と戦って勝利した後、燃え尽きて、不安と恐れに陥り、うつ状態になりました。U列王19:3〜5。敵のアッシリヤを助けることをさせられたヨナも、使命を果たした後、自暴自棄になってしまいました。ヨナ4:1〜3。そんなエリヤもヨナも、その後神様の御言葉に慰められ、思いを変えられ、安息を与えられました。
パウロはどうでしょう。まず、自分は何者かというアイデンティーを思い出しています。1節。何かに悩み、苦しむ時、問題や人のことばかり考えるのですが、私たちは、まず自分が何者であるか、自分はどういう者とされているのかを振り返ることが大事だと言うことです。ただ罪を犯さないようにしようとか、御言葉に従って生きようと言っても、中々そうできないし、そうしようと思わないのです。ところが、自分は、イエス様を信じて救われた者だ、新しい命に生まれ変わった者だと強く意識すると、次第に御言葉に従って生きよう、神様に喜ばれるようにしたいと思うようになり、実際にそのようになって行くのです。Uコリント5:17。
イエス様を信じて救われた者には、神の御霊がともにいてくださり、神様の子どもとされているという約束が与えられています。6:17〜18,ヨハネ1:12, 14:16〜17。神の御子イエス様が自分の代わりに十字架に苦しみ死なれた、自分はそれゆえに救われている尊い存在なのだと知るならば、霊的に変えられて来ます。Uコリント5:14〜15。
自分は、新しく生まれ変わり、イエス様の尊い犠牲と愛によって救われ、神の子とされ、神の御霊が心に住んでいてくださる存在なのだと知ると、見るものが違って見えて来ます。物事を新たに知るようになります。Uコリント5:16〜17。自分が新しくなるならば、人を見る目が変わり、人の受け止め方も変わらざるを得なくなります。私たちの生き方に変化が起こって来ます。世間の価値観というものは、やっかいなものであり、あてにならないものを含んでいます。人の評価を受けなければ、頑張らなければ、人と同じようにしなければ等々の価値観にさいなまれて、自分を追い込み、痛め、悩み苦しむことになるでしょう。イエス様に救われた者の価値観は、「人間的な標準で人を知ろうとしない」ということです。
たとえば、世間は自分のプライドや人の評価を求めますが、自分は救われて赦された罪人に過ぎないということで、謙虚に人に仕える者に変わります。マルコ10:43〜45。現代は、人の弱さや失敗を面白がってはやしたてる時代であり、噂話を楽しみますが、信仰は人の弱さを受け入れ、愛は人の罪をおおい、つぶやかないでもてなします。Tペテロ4:8〜9。ですから、私たちは、噂話をさけ、言葉を慎むという奉仕、人の言葉に耳を傾けて聞くという奉仕をします。語るということは、聞くということより何と容易なことでしょうか。多くを聞き、少なく語ることも大切です。
U−心を開いてください−2〜4, 6:11〜13
パウロの後コリントに来た指導者たちは、パウロを悪く言うことで自分たちの株をあげようとしたのでしょう。そこに、パウロから責められていると誤解した人々が加わり、パウロは、かっこうの噂話の対象になったのです。パウロは、誤解され、悪く言われていることを伝え聞いて、悲しみ嘆き、悩み苦しみました。Uコリント2:4。
コリントの人たちとの人間関係に悩み、苦しんでいたパウロは、どのようにしていたのでしょうか。2〜4節。人間的な標準で人を知ろうとするならば、どうして私を悪く言うのだ、あいつらは酷いと怒るでしょう。私は頑張って来たのに、私のやって来たことは無駄だったとがっかりし、空しくなるでしょう。心傷つき、病んでしまいます。パウロは、だれにも不正をしたことがなく、損なったことがなく、利を貪ったことがないと言うだけです。御言葉の基準によって、神の御旨に沿うならば、そう言うだけです。ここには、責めや怒りはありません。弁明する時に怒りや攻撃が出て来るならば、争いに進んでしまいます。
人は、怒りや不満をぶつけることで溜飲を下げようとするのですが、ますますふくらんで詰まってしまいます。エペソ4:26〜27。人のことを言っている言葉でも、悪い言葉をはくならば、それを聞いた自分の脳はダメージを受けるからです。悪口や否定の言葉を言うと、あたかも自分が言われているように聞くのです。人を呪わば穴二つなのです。人の悪口や噂話をするくせをなくすように意識したいですね。
責めるためにこう言うのではない、と気づかっています。パウロの弁明を聞いて、逆に自分たちが責められていると感じるかもしれないからです。人は互いに、そんなふうに誤解し、悪く受け取り、溝が出来、傷つくのです。コリントの人々は、パウロのことを誤解し、悪く受け取っていました。しかし、パウロはそうしないのです。反対に、パウロの態度は、ポジティブです。「ともに生きるために」と言っています。人も自分も、共にイエス様に愛され、救われる存在だからです。
誤解され、悪く言われたにもかかわらず、パウロは、そんな彼らを信頼し、誇りとしていたというのです。彼らの弱さや欠けを知っているからです。彼らに働く神様のあわれみと導きを知っているからです。イエス様を信じて救われるということは、神様に背を向けて欲と罪で生きていた私たちが、神様との和解をしたことになります。Uコリント5:20〜21。罪のために自分中心に生きていた者、悲惨な苦しみや悲しみの中で過ごし、滅ぶしかなかった者を、御子を十字架に渡されるほど愛してくださった。そういう救いの原点から人を見るならば、ああこの人も神様に愛された人、イエス様はこの人のためにも十字架にかかられたと知るのです。
このような信仰者としての態度、姿勢を象徴的に表現した言葉が「心を開く」ということです。2節。これは、6:11〜13でも繰り返し、強調されていた表現です。心を開くとは、相手を違うことも含めて理解して、受け入れることです。相手が自分を誤解しても、悪く言われても、受け止めるのです。自分の方では憎まない、反感を持たないのです。それはパウロの努力によるものではなく、信仰によって変えられ、主がそうさせるのです。「心を開いてください」は、「あなたがたの心に私たちのための場所を作ってください」とも訳されています。パウロは、「あなたがたは、共に生きるために、私の心のうちにある」と言っています。3節。私たちは、他の人のための部屋を心の中に持っているでしょうか。
V−慰められた−5〜7
このように心開いて受け入れ、愛し、信頼した結果は、どうなりましたか。6〜7節。パウロは、テトスをコリントに派遣し、マケドニヤでその報告を待っていました。気落ちしていたパウロにもたらされたテトスの報告は、彼らが悔い改めており、以前のようにパウロを慕っているということでした。テトスが行くことで急変したのではなく、パウロが心を開いて語りかける手紙を送ったことなどが積み重なって、最後にテトスが行って、彼らの心が開いたのでしょう。パウロが涙ながらに書いた悲しみの手紙によって、人々の心が変わり始めていたのです。
テトスの報告は、気落ちしていたパウロに大きな慰めと喜びを与えてくれました。それは、パウロの予想を超えていたようです。コリントの人々が神様の恵みを受けて、変えられていたのです。神様を信頼して、御言葉に従っていたパウロの思いと願いを越えて、神様は働かれたのです。エペソ3:20。この時、神様がパウロを慰めてくださいました。6節。
私たちも、問題に出会って悩み苦しむ時、弱さの中で神様の導きに気付かされるのです。私たちは、仕事や人間関係、経済や暮らし、病気や老化など様々な事で困難や弱さを覚え、気落ちしてしまいます。しかし、落ち込んで、弱さや不安の中で神様に心を向け、深く信頼することで、神様の慰めを知ることができます。私たちには、様々な出来事で悩み苦しみ、気落ちすることが多くあります。でも、それを通り抜けたところに神様の与えてくださる深い慰めがあります。
私たちが痛み、悲しみ、悩んだことも無駄ではありません。気落ちした者を慰めてくださるという神様のご性質を知ることができるからです。私たちの主は、気落ちした者を慰めてくださる神です。イザヤ49:13, 40:1〜2。様々な苦難や問題に労苦する私たちも、「あなたの労苦は終わります。あなたはキリストの十字架のゆえに贖われました。主の祝福と恵みを受けなさい」という慰めを聞くことができます。
Uコリント7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
7:2 私たちに対して心を開いてください。私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。
7:3 責めるためにこう言うのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。
7:4 私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。
7:5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。
7:7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
Uコリント11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
Uコリント5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
マルコ10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
Tペテロ4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
Uコリント2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
エペソ4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
Uコリント6:11 コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。
6:12 あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。
6:13 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。
ピリピ2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
イザヤ49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。
イザヤ40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
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