2016年4月10日「二つの悲しみ」Uコリント7:8〜16
序−人の悲しみには、様々な悲しみがあるようです。どんな悲しみをされたでしょうか。悲しみにはしなくてもいい悲しみがあり、するべき悲しみもあります。コリントの聖徒たちとパウロの悲しみが、私たちに大切な悲しみを教えています。
T−クリスチャンの悲しみ−8〜9
「あの手紙によってあなたがたを悲しませた」と言っています。8節。以前パウロは、悲しんで涙ながらにコリントに対して手紙を書きました。Uコリント2:4。何かコリント教会で問題が起こり、そのことでパウロは心痛められ、悲しみのあまり、涙を流しながら手紙を書いたというのです。まずパウロが悲しんだというのです。その悲しみは、混乱している状況を聞いて憂えている悲しみです。コリントの聖徒たちに対する愛を持っているから悲しんだのです。
私たちも、何かの問題によって、心痛め、悲しむことがあるでしょう。どう反応しますか。パウロの手紙は、受け取り方によっては、その問題に対する彼らの反応や取り組みへの叱責とも取れるものだったようです。どうしてそんな対応をしたのか、そのような言動は間違いではないかなどと書かれていたら、叱責や非難と受け取られるかもしれません。私たちは、ついその辺のことを考えないで、相手に伝えてしまう時があります。自分勝手な悲しみや怒り、受けた衝撃で伝えるならば、叱責や攻撃のようになるでしょう。そんな思いがなくても、そのように受け取られるでしょう。
パウロは、彼らを悲しませるためではなく、彼らに対する愛を知ってもらうために書いたと言っています。2:4。少なくとも、伝える側としては、このような思いが必要です。それでも、コリントの人たちを「悲しませて」しまいました。8節。そんなつもりはないのに、悲しませてしまったというのです。この配慮のかたまりのようなパウロでさえ、こうなのです。私たちが良かれと思って言ったことなど、責めているように受け取られてしまうこともありうるでしょう。
ただ、いくら配慮しても、相手が勝手に誤解し、肉の思いで受け取ることまでは、どうしようもありません。コリントの聖徒たちの悲しみは、しばらくの間だけでした。なぜなら、彼らが「悲しんで悔い改めた」からです。9節。パウロの手紙を読んで、ああ自分たちは浅はかだった、配慮が足りなかった、間違っていたということが分かり、悲しんだのです。もし、肉の思いのままで受け止めるならば、落胆し、悲嘆に明け暮れ、責められたと心傷付くでしょう。怒りや憎しみに変わるかもしれません。
彼らは、パウロの愛と配慮を知っています。一時期は、叱責のように感じて、悲しんだり、がっかりしたとしても、信仰的に受け止めて悔い改めたのです。しばらくは悲しんだのですが、悲嘆にくれることはありませんでした。こうして、パウロは、コリントの聖徒たちを悲しませてしまったことで悲しんだのですが、彼らが悔い改めたのを知って、感謝して喜びました。悔い改めた時、神の祝福が始まります。
U−「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」−9〜10
実際に人々の間に問題が起こっても、このように収まらないのはなぜでしょうか。どうして、問題から生じた悲しみが、悲嘆や落胆へ、あるいは怒りや憎しみへ進んでしまうのでしょうか。どうやら悲しみの種類というか、悲しむ人の心情が違うのではないでしょうか。パウロは、こう説明しています。9〜10節。
悔いと悔い改めとはまったく違います。悔い、後悔は、失敗した、残念だという思いがいっぱいになるだけです。コリントの人たちの悔い改めは、彼らが深い悲しみのうちに、何をして何をしなかったかを悟らせ、その結果彼らの態度を変えさせました。彼らの悲しみは、神のみこころに添ったもの、神様の願う姿だったからです。もし、ただの後悔、悔いであったなら、パウロへの反発や恨みを引き起こし、パウロの手紙が彼らに害を及ぼすことになってしまいます。
パウロの愛や配慮も必要でしたが、コリントの人たちの信仰による受け止め、悔い改めが重要でした。「悲しむ」だけでなく、「悲しんで悔い改める」ことが必要です。何かによって悲しむだけならば、落胆や意気消沈を引き起こし、心が病み、憤慨や恨みへ進むことにもなるでしょう。私たちが何かの事件や人の言動で悲しむ時、「神のみこころに添って悲しむ」ことが必要です。決して、肉の思いに添うことのないように願います。もし肉の反応をしてしまうならば、自分を傷つけるか、相手に害を及ぼすことになるでしょう。神のみこころに添って悲しむならば、適切な反応へ進み、必要に応じて悔い改めにも導かれるでしょう。
コリントの聖徒たちの信仰的な応答が、落胆や意気消沈、心の傷や病い、怒りや恨みというような害から彼らを守りました。パウロがどんなに配慮しても、聖徒たちの信仰による受け止めが重要でした。私たちも、いろいろな問題をどう受け止めるか、人の言動に肉の思いで応答するのか、霊的にそれを受け止めるか、その結果はまったく違って来ます。ひょっとしたら、その応答によっては、私たちが罪を犯すことにもなりかねません。
世の悲しみとは、何でしょうか。失敗してしまった悲しみ、叱責されたことの悲しみ、評価されなかった悲しみです。それは、本当の悲しみではなく、恨みです。失敗を指摘された恨み、罰せられたことへの怨念にすぎません。罪に対する悲しみでもなく、人に与えた痛みや悲嘆に対する悲しみでもありません。人が自分の期待や要求に沿わない悲しみは、相手を恨み、相手のせいにします。その関係は、壊れてしまいます。
パウロは、この「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」を対照的に描いています。10節。「神のみこころに添った悲しみ」は、悔い改めを引き出します。すなわち、心と思いと意思の変化を引き起こし、態度が変化します。それによって、罪の赦しと救いが与えられます。一方、「世の悲しみ」は、後悔を超えて進むことはなく、心や思いや意思は変わらず、神への信仰も伴いません。世の悲しみは、滅びをもたらします。
世の悲しみは、悲しみを強調しますが、神のみこころに添った悲しみは、むしろ心の変化が強調されます。神様が私をこんなにも愛し、この世に生み出してくださり、救いに選び、罪の滅びの身代わりに御子イエス様を十字架に渡されたということを知る時、人は、神の愛を知らずに背を向けていた自分の姿を悲しみ、悔い改め、回心し、イエス様を信じる者となります。私たちが自分の罪を悲しみ、自分の肉の姿に悲嘆するならば、悲しみに終わることなく、主の前に立ち返ります。自分の罪と滅びのために十字架にかかってくださったイエス様を信じて、告白するのです。
ダビデ王は、預言者に自分の罪を指摘された時、犯した罪を悲しんで、悔い改めました。Uサムエル12:13,詩篇51。使徒ペテロは、イエス様を三度否んだ後、悔い改めの涙を流しました。マルコ14:72。パウロ自身、ダマスコ途上でイエス様の声を聞いた時、自分の悲惨に気付き、回心しました。みな、神のみこころに添った悲しみが、悔い改めに導き、赦しと救いを得ました。
一杯の食物のために神様の祝福を受ける権利を売ってしまったエサウは、その後権利を失って悲しみ、騙されたと怒り、弟ヤコブを憎みました。創世記27:34〜35。イエス様を裏切ったユダは、イエス様が十字架に掛けられた後、己のしたことに嘆き、死に至りました。マタイ27:3〜5。いずれも、世の悲しみのもたらした結果です。
V−みなひとつとなるために−11〜12
パウロは、その対応いかんによっては、「神のみこころに添った悲しみ」になるのか、「世の悲しみ」になるのかのために、この時実際の事件を引用しています。11〜12節。あの問題とは、Uコリント2章に記されている事件のことです。2:5〜7。ある人が起こした問題が、コリント教会全体を悲しませ、そのことでパウロを悲しませたという事件です。
どのような内容か分かりませんが、それに対して世の悲しみをするなら、彼らはその問題を嘆き、その人を責め、赦さないということになるでしょう。パウロは、多数の人から受けたあの処罰で十分だと言っています。2:6。手紙を書いたのは、問題を起こした人のためでも、被害を受けた人のためでもないと言っています。12節。誰のためでしょう。問題を起こした人を責めたり、被害者を慰めるためではなく、コリントの聖徒たちの熱心が、神の御前に明らかにされるために書いたと言うのです。
どうやら罰を与えただけであったようです。ですから、以前の涙の手紙では、その人を赦し、慰めてあげなさいと勧めています。そうしないと、その人が深い世の悲しみに押しつぶされてしまうかもしれないからです。2:7。もし、その人が、誰からも赦してもらえず、愛されなかったら、パウロはとても悲しいというのです。パウロ自身、回心の時、イエス様は「なぜわたしを迫害するのか」と言われました。つまり、もし、世の悲しみのままだったら、彼らはイエス様を悲しませていたことになります。
しかし、彼らが「悲しんで悔い改めた」ので、みな慰めと喜びを受けました。13〜16節。自分もキリストの体、その人もキリストの体なのです。一部が苦しめば、皆が苦しみ、イエス様が苦しむのです。Tコリント12:25〜26。私たちは、どんなことで神のみこころに添って悲しんで、悔い改めますか。どんな悲しみもイエス様の十字架でとかされます。
Uコリント7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
7:11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。
7:12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行った人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。
7:13 こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。
7:14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。
7:15 彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い出して、あなたがたへの愛情をますます深めています。
7:16 私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。
Uコリント2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
2:5 もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度──というのは言い過ぎにならないためですが──あなたがた全部を悲しませたのです。
2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
Tコリント12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
| 戻る |