2016年4月17日「恵みのわざにあずかりたい」Uコリント8:1〜8

序−日本では、地震や台風などの災害がしばしば起こりますが、初代教会時代の地中海地域でも、災害がしばしば起こり、教会ではその地のクリスチャンを助ける働きをしていたことが記されています。どのような人々が、なぜ支援していたのでしょうか。そこには、信仰の姿があります。

T−試練と貧しさの中の人々が−1〜2,5
 あなたは、今どんな状況にありますか。苦難の中にありますか。悩みや不安をかかえていますか。生活の苦しさを覚えていますか。使徒パウロは、「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう」と言っています。1節。そんないい話早く聞きたいです。どんな恵みですか。2節。それは、マケドニヤの諸教会が、飢饉や迫害で経済的危機に陥っていたエルサレム教会を支援していたという話です。
 マケドニヤとは、ギリシャの北部地方にあったローマ帝国のマケドニヤ州のことです。その地方にある教会とは、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの教会のことです。これらの教会は、その始まりから、様々な迫害や困難の中にありました。Tテサロニケ1:6, 2:14,ピリピ1:28〜29。暴動に巻き込まれたり、迫害を受けたり、苦しい状況に置かれたりしました。
 エルサレム教会を支援していたマケドニヤの諸教会が、「激しい試練」と「極度の貧しさ」の中にあったと強調されています。2節。迫害を受け、困難な状況のなかで生きていた彼らは、当然貧しい生活を余儀なくされてしまいました。どうしてそのような人々が、「惜しみなく施す」ことができたのか、なぜそのような苦しみと貧しさのどん底にある人々が、「満ちあふれる喜び」を持って生活していたのでしょうか。不思議ですね。
 まず、なぜマケドニヤの聖徒たちは、「満ちあふれる喜び」を持って生活していたのでしょうか。今私たちが住む社会は、混乱しており、貧しくなっています。私たちの自分を取り巻く環境が大きく変化しています。仕事や職場の環境、家族や家庭経済の状況、心や体の健康状態などが変化に揺れ動き、様々な事件や問題で苦しみ、悩みます。ですから、苦しみと貧しさの中にある彼らが、なぜ「満ちあふれる喜び」を持って生活していたのか、理由を知りたいのです。
 彼らは、はじめから苦難の中におり、クリスチャンになったことで、さらに苦しみを受け、貧しくなりました。それでも、彼らの心は平安があり、充実感がありました。イエス様を信じて救われるというのは、それまでとは価値観が違って来るのです。5:16。豊かさとか貧しさという価値観が違って来ます。ピリピ4:11〜12。誰しも、お金持ちで豊かな生活をしたいと願いますが、必ずしもそうなりたい、ならなければという思いがなくなります。そういう価値観で生きていたことで空しさや挫折感を味わっていますから、このキリスト教の価値観が新鮮であり、確かだと知るのです。
 業績、評価、物質、人など何でも自分をとらえている、自分が依存しているものから解放されます。5節に「神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ」と言われていますが、イエス様が自分の救い主となることは、イエス様が自分の主人となります。神の栄光をあらわして生きようという価値観で生きるようになります。たとえ、苦難があり、貧しかろうと、イエス様が共にいてくださる思いがあるそこには、喜びがあります。
 貧しいからこそ、苦難があるからこそ、神様から離れないで、イエス様の十字架を信じた、その信仰に拠り頼みます。他に頼むものがあると、私たちの心は神様から離れます。神様以外に頼るそのものが、自分の偶像になりかねません。マケドニヤの聖徒たちは、迫害や貧しさの中でイエス様を信じきって、懸命に拠り頼んで、希望を見出し、生かされていました。私たちも、自分ではどうしようもなくて、もうイエス様を信じるしかない、ただ神様に拠り頼み、祈りながら、御言葉に従って行って、困難から救い出されるという経験をしています。
 リーマンショック後のアメリカで、見直され注目されたのが、クリスチャンシンプルライフでした。多くの収入を得て、あれもこれも手にしてあれもこれもしていた時より、神様に愛され守られていることを感謝して、神様から与えられている物で暮らすことの方が、満足できることを体験するようになりました。

U−恵みのわざを−3〜8
 このような信仰による喜びを持ったマケドニヤの聖徒たちだからこそ、「施す」ことができました。世の価値観では、そんなこと自分たちの生活もままならないのに、自分たちのことを心配するべきだというでしょう。ここで「施す」と言っても、いわゆる慈善の施しではありません。信仰が彼らのささげ方、ささげる心に反映しています。3〜5節。
 彼らの献金には、いつかの特徴があります。「交わりの恵みにあずかりたいと熱心に願い、自ら進んで、期待以上に、自分の力以上にささげ」ました。その根底には、「自分自身を主にささげる」という献身の思いがありました。ここに、エルサレムの聖徒たちを助けようと献金するマケドニヤの聖徒たちの信仰があらわされています。これは、慈善献金ですが、献金の基本的な考え方と変わりありません。パウロは、彼らの義捐金をささげる姿を、献金をささげる模範としています。
 貧乏のどん底にいた人たちですから、額は多くはなかったでしょうが、彼らの力以上に、惜しみなくささげたというのです。レプタ銅貨二枚を献金したやもめと同じ姿です。ルカ21:2〜4。パウロや誰かに強要されたわけでなく、彼らが自発的にしたことです。むしろ、彼らの方から、「交わりの恵みにあずかりたいと熱心に願った」のです。見たこともない遠いエルサレム教会、会ったこともない聖徒たちと主にある交わりを切望してささげられた献金だということです。それは、物質的な物をもってする奉仕なのです。ローマ15:26〜27。
 パウロが驚いたのは、このような献金の奥にある彼らの献身です。5節。「神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ」るという献身の信仰があって、献金が行われました。献金とは、微妙な人の心情がともなうものであり、気をつけなければなりません。躓きや誤解を与えやすいものです。献金は、信仰をともなうのでなければ、いやいやながら仕方なくするとか、これだけしているという自己顕示など肉的な思いが入りやすいものです。

V−恵みのわざにも富むように−6〜8
 そうです。このことがコリント教会で起こっていたのです。すでにエルサレム教会を支援する活動が始められていました。Tコリント16:1〜3。この支援献金に対する誤解や躓きが生じて、その動きがしばらくストップしていたのです。6節。なぜでしょう。献金できなかったのでしょうか。不思議なことに、コリントの教会は、マケドニヤの聖徒たちに比べて、「信仰にも、ことばにも、知識にも、愛にも、すべてのことに富んでいる」と言われています。7節。信仰に富んでいると言っても、聖書の知識や勉強が多いということです。霊的造り変えが進んだ、御霊の信仰ということではありません。信仰の仮分数と言う言い方があります。頭は大きいのですが、心と足は貧弱だというのです。愛と言っても、愛、愛と口で言うだけであって、真実の愛ではなかったようです。8節。
 確かに、彼らには、争いや妬みが多く、論争して、混乱していました。そうして、残念なことに、エルサレムへの募金活動が中断していたというのです。パウロは、マケドニヤの諸教会に起きた神様の恵みの出来事を通して、コリント教会の人々に気付かせようとしていました。私たちもしっかり気づきたいのです。マケドニヤの聖徒たちが、エルサレム教会への献金する信仰を一言であらわした言葉が繰り返し出て来ます。それは「恵み」と訳されたカリスという言葉です。
 この箇所に、1節「神の恵み」4節「交わりの恵み」6節「恵みのわざ」7節「恵みのわざ」というように、恵み、カリスが繰り返し使われています。献金をささげること、他の人を助けることが「恵み」だということです。たいていは、いっぱい与えられていることを恵みと言いますが、ここでは、与えることを恵みと言っています。与えているのに、なぜ「神の恵み」というのでしょうか。
 「激しい試練」と「極度の貧しさ」の中にあったマケドニヤの聖徒たちが「神の恵み」を体験していたからです。私たちの父なる神が、イエス様を信じる私たちに救いの恵みを惜しみなく施してくださいました。ローマ5:6〜8, 8:31〜32, マタイ5:45,7:11。天地を通して恵みをくださり、すべて良いものを与えてくださり、救いのために御子を十字架に渡され、いつも味方となって恵んでくださるというのです。どんなに素晴らしい神様の恵みでしょうか。その救いの恵みで喜びが溢れていました。
 このような救いの恵み、神の恵みを体験したならば、自分も他の人に恵みと喜びを分けたいと思わずにはいられません。その溢れる恵みと喜びをしまっておくことができず、あらわしたかったのです。そして、分け与えることが喜びであり、恵みとなったのです。人々のためにささげ、兄弟姉妹を助けることが恵みとなったのです。聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと願います。使徒20:35。



Uコリント8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
8:2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
8:3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
8:6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。
8:7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。
8:8 こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。



Tテサロニケ1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。

使徒17:13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。

ピリピ1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。
1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。

ピリピ4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

ローマ5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

マタイ5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

使徒20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

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