2016年4月24日「受け渡す恵み」Uコリント8:9〜15

序−今日本の社会構造や経済構造が大きく変化しています。そのために、人々の心も、ぎすぎすしてゆとりのないようになり、家庭や社会でも混乱や崩壊が起こっているようです。そのような状況に置かれている私たちは、どのように生きるのか、改めて御言葉に生きることを大切にしたいのです。

T−貧しくなられたイエス様の愛と恵みを受けて−9
 私たちの行動や考えの元、動機となることは何でしょうか。聖書は、いつもそこに目を留めさせ、そこに立ち返らせています。それは、イエス様の姿です。エルサレム支援を中断していたコリント教会に対して、パウロは、イエス様の例に導いています。9節。私たちは、イエス様の恵みを知っています。私のためにイエス様の犠牲によって罪と滅びから解放された、という救いの恵みを感謝しています。ここでは、そのためにイエス様がどうなられたかに思い起こさせています。これを考えたことがありますか。
 「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」と表現されています。すべてを造られた神様が、そのすべてを所有しておられます。神の御子が、どれほどの豊かさであったのか、想像すらできません。ところが、そのイエス様が世に来られた時、家畜小屋の飼い葉桶でお生まれになりました。ルカ2:7。貧しい家で育ち、大工として労苦されました。マルコ6:3。ガリラヤでの宣教中、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われる生活でした。ルカ9:58。私たちを愛し、救うためにそのように貧しくなられました。
 何よりも栄光の御子が、世の人々と同じくなられたのです。神のあり方を捨て、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、実に十字架の死にまでも従われました。ピリピ2:4〜8。人としての、貧しさ、飢え渇き、労働の辛さ、人のつれなさを味わわれました。経済的、物質的よりも何よりも、孤独、侮辱、疎外感などの精神的な貧しさを味わわれました。十字架を前に最も励ましや慰めを必要とされた時、一人ぼっちでした。マタイ26:40。裁判の時には、群衆から十字架につけろと言われ、十字架に引かれて行く時、服も取られ、唾をかけられ、悪口雑言を浴びせられました。私たちを愛し、救うために、そこまで受けられました。
 私たちも、様々な問題でイエス様の片鱗でも味わうことがあれば、大変です。苦しくて、辛くて、寂しくて、空しくて、どうしようもなくなってしまいます。でも、栄光のイエス様が私のために貧しくなられた、と思い出しましょう。私の救いのために私の痛みや苦しみを担われたと強く覚えるのです。すると、次第に痛んだ心が癒され、苦しさが和らいで来ます。イエス様が一緒にいてくださると分かり、心が満たされて来ます。

U−良いことを再び始めよ 持っているもので−10〜12
 この救いの原点にコリントの聖徒たちの心を導いて、パウロは、エルサレム支援の話しに戻ります。10節。イエス様のご自分をささげる愛を思い出したら、耳を傾けることができます。何と、彼らはすでに昨年からエルサレム支援の働きを始めていたというのです。他の教会よりも早くしたいと願い、実際に他に先んじて支援プロジェクトを始めていたのです。
 なぜ、彼らはそのプロジェクトを途中でやめていたのでしょうか。13節。彼らは、少ししか与えられないのを恥ずかしいと思っていたのかもしれません。あるいは、他の人を助けることによって自分たち自身が貧しくなることを恐れたのかもしれません。教会で起きていた混乱のために中断を余儀なくされていたのでしょう。パウロは、それに触れるよりも、支援を早くしたいと願い、他に先んじて支援プロジェクトを始めていたことを強調して、そこに彼らの思いを向けさせています。
 私たちにも、良いことをしたいと願い、良いことを始めてみたけれども中断してしまったということがあるでしょう。始めたことが大切です。コリントの聖徒たちがせっかく良いことを始めたのだから、中断していたのを再開して、プジェクトを完成させるようにと勧めたのです。御心に叶うことであるならば、神様がそれを願う思いを与えられたことであるなら、神様が成就させてくださるからです。ピリピ1:6。私たちが始めたことでも、その事情が変わり、気持ちが変わって、途中で放棄してしまったとしても、神様は忘れておられず、待っておられます。
 なぜ、パウロは、彼らが今できると考えたのでしょうか。マケドニヤの様子を聞いたなら、コリントの人たちが恥ずかしいと思うからでしょう。いち早くエルサレム支援を始めたのに、中断していた理由など、マケドニヤの聖徒たちがまったく問題にしていないのを知ったからです。少ししか与えられないのはプライドが…、自分たちが貧しくなるかも…などと思っていた自分たちが、マケドニヤの事情を知って恥ずかしくなったのです。私たちも、肉の思いやプライドから生じた言動を、後で霊的な視点で見るならば、恥ずかしく思い出すことになります。
 それでは、再開しようという思いになったなら、いつ、どのように再開したらよいのでしょうか。11節。「今、それをなし遂げなさい」というのです。これは、文法的には命令形ですが、内容的には励ましであり、願いです。5:20。中断していた考えや思いがクリヤーにならなければ、すぐに再開できないでしょう。ですから、「今、それをなし遂げなさい」という勧めとともに、「持っている物で、それをなし遂げることができる」と言っています。マケドニヤの力以上にという例を聞いたら、肉のプライドで反応し易い彼らに対する必要な配慮です。
 「持っている物で」するのです。持っている力で応じてするのです。ささげることは、恵みであり、主の恵みへの感謝としてささげられます。助ける働き、良い働きも同じです。私たちは、「〜になったらできるのに、〜があったらしよう」などとしばしば考えます。いつになってもできないかもしれません。「今、それをしようとする」なら、「今、持っている物でする」ことが肝要です。奉仕に関しても、「私は何もありません。あの人のようにはできません」と謙遜に言うのですが、私たちには、何かできることがあります。何か賜物をいただいています。それで、するのです。
 ちまたでは、「何かをしたいと願い、はじめてみるなら、80%はできたも同然だ」と言われます。「はじめ良ければ、半ばよし」という西洋のことわざもあります。御言葉も、「もし熱意があるならば、持っている物でできる」と言います。信仰の熱意をもってはじめるなら、一歩踏み出すなら、事は大きく進んだことになります。

V−受け渡す恵み−13〜15
 さて、支援のことについて、使徒パウロは、不思議な表現をしています。「平等を図っている」「平等になる」と言うのです。15〜16節。エルサレム支援が、「他の人々には楽をさせ、自分たちに苦労をさせようとしている」のではないかと誤解していた人がいたようです。自分の「持っている物で」するのですから、そんな心配はありません。「あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補う」に過ぎません。「欠乏を補う」ことで、「平等になる」というのです。すべては神様から与えられた恵みです。与えられた恵みでもって与えることで、与えられた賜物で人に仕えることで、平等になるというのです。この聖書的な原理は、社会の理想でもあります。
 自分の持っている物が神様の恵みであることを知っているならば、喜んでそれを用いて仕え、それをささげるようになります。人のことを考えるという日本の美徳も、社会の混乱や経済の破綻によって、あやしくなって来ています。自分さえよければ、他の人を顧みる余裕はないという人が多くなって行けば、ぎすぎすした世になるでしょう。そのようにしている人々も、結局は幸いになれないでしょう。
 この「平等」は、「あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補う」だけでなく、「彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになる」というのです。コリントがエルサレムを支援するだけでなく、やがてエルサレムがコリントを助けることもあるというのです。そういうことで平等になるというのです。Tペテロ4:9〜10。ペイ・フォワードという映画があります。「この世を良くするために何をしたらいいか」という宿題に、中学一年の主人公が考えたことは、受けた好意を相手に返すのではなく、他の人々に回すことでした。確かに周りの人々を変え、そのムーブメントは広がりました。
 実は、コリントの聖徒たちは、すでに受けた恵みを忘れています。ローマ15:26〜27。イエス様の救いは、エルサレムの教会から始まりました。そこから、福音はコリントまで伝えられたのです。コリントの聖徒たちは、エルサレム教会から大きな霊的恵みをいただいていたのです。ですから、コリント教会はエルサレム教会を支援する義務がある、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきだというのです。
 ここで言う平等は、結果的なものです。人は初めから同じでなく、与えられるもの、持っているものも、社会で得られるものも平等ではありません。しかし、人がみな、神様から受けた恵みを、他の人に渡して行くなら、大きな目で見ると、平等になるというのです。タラントの教えでも、与えられるタラントは平等ではありませんが、「持っている物」に応じて用いることが強調されています。マタイ25:15〜28。私たちも、イエス様の愛と犠牲によって救いという恵みをいただいています。この恵みを周りに渡して、世を変えて行く一人、一人となりたく願います。Tペテロ4:9〜10。


Uコリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
8:10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行っただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。
8:11 ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。
8:12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。
8:13 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。
8:14 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。
8:15 「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。



マルコ6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

ルカ9:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

ピリピ2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

Tペテロ4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

ローマ15:26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。
15:27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

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