2016年5月15日「溢れるばかりに与えてくださる神様」Uコリント9:8〜15
序−私たちは、余裕がないように思うかもしれません。確かに、心が内向きになっている時は、外に向く余裕はありません。しかし、私たちが何とか生きて行けるだけなら、なぜ神様は、私たちに人を助けよ、世に仕えよと言われるのでしょうか。神様が私たちを用いられる真理を学びます。
T−豊かに与えてくださる神様−8〜9
もし神様が、取引のように必要な費用だけしか与えてくださらないなら、私たちの生活は、まったく余裕を持つことができません。しかし、神様はあふれるように与えてくださり、良いことをする時に辛くならないようにしてくださいます。8節。神様が私たちに必要なものを与えてくださるのには、二つの方法があります。
一つは、まさに正確に必要なだけ満たしてくださることです。それは、必要最低限の生活のようなことです。飢えることのない程度に食べることができるということです。出エジプトの時のマナは、まさにこの例です。それは、神様に信頼するための訓練でした。
神様は、もう一つの方法で私たちを満たしてくださいます。私たちが社会の中で常識的な方法で生活ができるようにしてくださいます。衣食があり、多少の貯蓄もできるでしょう。会社や家庭で働き、人としての役割を担いながら生活します。経済的にも心情的にも肉体的にも、ある程度の余裕があります。これが、神様が満たしてくださる方法です。
重要なことは、神様が私たちを満たしてくださる理由です。「すべての良いわざにあふれる者とするため」です。常識的な社会生活ができるなら、神様と人のために良いことをしなさいということです。私たちに恵みで満たして、人のために用いられるのです。でも、私たちが困難な時、余裕がない時はどうすればいいのでしょう。ただ耐えるのではなくて、機会が訪れる時どのようにしようかと思いめぐらしているのです。そういう準備過程があって、機会が訪れた時に的確に応じることができるのです。
イエス様が私たちのために十字架にかかられるまで、仕えることの手本を見せてくださいました。マルコ10:45。自分が満たされているなら、人を助けて、恵みを分け与えなければという思いが生じます。私たちの心には、神様から委ねられたものと自分が労苦して得たものという二つの思いがあります。それで、多くの人はこの二つの間で葛藤が生じます。自分で苦労して得たものは、みな自分のために用いたいと考えるためです。すべてのことは神様の恵みであり、それを散らしているのだという観点が必要です。9節。神様が私たちを救われたのは、私たちが自分のためにだけ生きるのではなく、人を愛し、助けるためです。私たちの人生を通してどれだけ人を幸いにできるかということが、神様の御前には喜ばれることです。マタイ25:40。人の救いや幸いのために、自分に与えられたものを用いるのです。
私たちが人を助けるならば、私たちは神様の御手で用いられ、助けられた人は、私たちを通してイエス様の恵みを感じるようになります。神様は私たちを用いたいのです。私たちも、用いられることで、喜びや恵みを覚えるようになります。
U−神様の御心を知る方法−10
でも、私たちは、神様に用いられることについて、心配や負担感があるかもしれません。自分には、そんな余裕も力もないと思うのです。農業の譬えでその心配に答えています。10節。もし神様が、農民に食べる穀物だけ与えて種をくださらないとか、種だけ与えて食べる穀物をくださらないとかならば、彼らは農業を続けることはできません。ところが、神様は「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」というのです。
神様は、私たちを死にそうにさせながら、人を助けさせることはなさいません。T列王17:10〜17。私たちが人を助けることができるように、食料も蒔く種も残してくださいます。人を助けることができるように、私たちを食べさせ、必要なものを与えてくださいます。私たちに余裕がなくても、私たちを助ける人を備えてくだって、私たち癒して、整えてから、私たちを用いられます。ルカ22:32。そのようにして、私たちを用いるために、恵みをあふれるばかりに与えてくださるのです。
昔の農夫は、同じ穀物でもって、この分は食料として使い、この分は蒔く種として使う、と決めます。もし私たちが農夫だとしたら、どんな比率で分けるでしょうか。賢明な農夫ならば、食べる分は最小限として、それ以外の大部分は、蒔く種とするのです。食料は食べてしまえば終わりですが、種として蒔けば何倍にもなって残ります。もし私たちが自分のために支出を増やせば、人のために残る分がなくなります。きょうの御言葉は、もし自分のためだけでなく他の人のために使えば、種が実るように残るようにしてくださるというのです。私たちを良いわざにあふれる者とするために、恵みをあふれるばかりに与えてくださるのです。箴言11:24〜25。
もしそういう私たちの生活に問題が出て来るとしたら、このような種蒔き用に残すことに問題があるのではなくて、使うことに問題があります。人のために使う分を増やそうと頭で考えても、手が動かないなら役に立ちません。考えている間に使うばかりで、機会を失ってしまうことになります。エルサレム支援はいいことだと他に先んじて始めたコリントの人たちが、あれこれ考えている間に、支援プロジェクトは中断されてしまいました。人を助けることも奉仕も、口でするのではなくて、手足ですることだと言われます。
助けることが良いのかそうでないかという問題もあります。助けてもらうことで回復に向かうならば結構ですが、それを無にしてしまうこともあります。実践してみれば、それが神様の御心なのかそうでないのか、分かるようになります。やってみたら、かえって良くなかったこともあり、余計なお世話だったということもあります。
V−あらわれる実−11〜15
きょうの御言葉では、人を助けることは種を蒔くことだと譬えられています。ということは、人を助けることは、必ず実となって自分に返って来るのでしょうか。そうではありません。私たちの手を離れたものは再び自分に戻っては来ません。では、どうして聖書はこのように種を蒔くように言うのでしょうか。11節。私たちが神様の御心に従って人の必要を満たしてあげるなら、人は、それをもって神様が自分を助けてくださったと考えるからです。そして、神様に感謝して、信仰が大きくなります。これが、支援や助けの最も大きな実りです。
与えられた使命を最後までやり遂げることで神様に栄光を帰する方法があり、与えられた恵みを感謝して賛美することで栄光を帰する方法があります。そういうことではなく、困難の中にある人を助けることで、その人が神様に感謝して信仰を持つようになることが、信仰に生きることがもっと神様に栄光を帰することになるでしょう。私たちの手を離れた支援は、人々の心の中に神様への信頼や信仰を形成していくのです。
人を助けることで、助ける私たちが感謝される場合もあります。そういうことが多いでしょう。しかし、私たちは、神様の御心に従ってなしただけなのですから、その人の心が神様に向くことを願います。やがて、その人も落ち着いて豊かになれば、積極的に自分より困難にある人に心を向け、助けるようになります。自分が助けた人が自分に恵みを返す必要はありません。それは、神様の御前に終わったことです。それよりも、新しい対象を探して助けなければなりません。それが、種を蒔くことです。
12節の「奉仕のわざ」とは、コリント教会がエルサレム教会を支援する働きのことです。それは、助けを必要とする人に対する奉仕だけでなく、神様に対する奉仕でもあります。支援の究極的な目的も、そこにあります。神への感謝で奉仕がささげられるので、恵みにあふれるようになります。感謝がない信仰は不足して行きます。イエス様の十字架によって救われた感激のある信仰は、イエス様にならって、仕える信仰となってあらわれます。13節。人が、自分に与えられた賜物、財物、時間などをどこにどのように使うかを見れば、その人の信仰があらわれます。
結局、そのような信仰の姿勢が、人に感動を与えて、祈ってくれて、交わりを慕うようになります。14節。何よりも、受けた人たちが神をあがめるようになることが、大きな恵みであり、実です。栄光の信仰は、人のために惜しみなく与えても、不足することがありません。そのような信仰は、助ける人も助けられる人も、互いに祈り合うようになり、慕い合うようになるからです。恵みが相乗効果となります。
最後に、二つ驚きがあります。15節。コリント教会がエルサレム教会を支援する奉仕を通して、溢れる恵みと賜物を受ける驚きです。神様がこのような問題の多い教会を用いられたのは、驚くべきことです。神様は、どんなに不足した者でも、用いる機会を与えます。その人も、用いられることで不足が満たされ、成長します。機会を放っておくなら、不足したままです。もう一つは、人を助け、愛し仕える基礎となったイエス様の救いの恵みに驚くようになります。イエス様の言い尽くしがたい救いの恵みを覚えるならば、どうにかして神様に用いられたいと願うようになります。用いられること自体が喜びとなります。箴言11:24〜25。
Uコリント9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
9:12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。
9:13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。
9:14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
9:15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
詩篇112:9 彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。
マタイ25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
ルカ22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
箴言11:24 ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
11:25 おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。
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