2016年5月22日「本質を失わずに」マタイ4:23
序−近年、様々な事件によって、会社が本質を見失い、老舗が本質を忘れ、役人の本質を失った姿が顕著になっています。何事にも、それ自身の本質があり、それを失ってはなりません。教会の本質とは、何でしょうか。教会はキリストの体と言われています。エペソ1:22〜23。教会が本質を失わないために、イエス様がどんな働きをしたかということに注目しましょう。マタイ4:23, 9:35には、イエス様がされた三つの働きが記されています。
T−会堂で教え−
まず、「会堂で教え」られたということです。イエス様がされた働きの最も多いものが、教えることでした。イエス様は、様々なことをされ、人々の耳目を引く奇跡の数々もありますが、それよりも重要な働きが教える働きでした。御言葉を人々に教え、人々を御言葉で養い、整えたことです。イエス様の3年間の公生涯は、弟子たちを教え、訓練することに注ぎ込まれました。イエス様は彼らと交わり、分かち合い、御国の福音を、弟子たちに詳細に解説されました。イエス様が天に昇られる前に最後に言い残された御言葉は、最も大切なことだと言えるでしょう。それは、「御言葉を守るように教えて、弟子としなさい」ということでした。マタイ28:19〜20。
この箇所は、宣教の大命令と言われる箇所ですが、イエス様が漠然と伝道しなさいとは言われず、「弟子としなさい」といわれたその御旨を把握しなければなりません。ですから、私たちも「御言葉を学んで、イエス様の弟子」とならなければなりません。クリスチャンの本質は、イエス様の弟子であるということです。
初代教会も、弟子を養育することにすべてをかけました。 使徒パウロのローマ福音化の秘密は、まさにこの弟子とすることでした。 使徒19:9〜10。第3回の伝道旅行の際、使徒パウロはエペソでツラノ書院を借りて最初から弟子訓練を2年間しました。 このとき多くの弟子たちが養育され、 訓練された弟子たちが行く所ごとに、イエス様の福音が証しされました。 弟子たちが行く所ごとに変化が起きました。
今日本のクリスチャンは、人口の1%に満たないといわれています。 しかし、第2次大戦直後の一時期、人々が教会に殺到するリバイバルがありました。日本がやがてキリスト教国になる、と宣教師たちは報告したそうです。そのような見通しははずれましたが、 なぜでしょうか。教会が御言葉による養いをしなかったからです。信じた者をイエス様の弟子とすることをしなかったからです。
私たちが、この御言葉による養育を止め、イエス様の弟子となる道を捨てるなら、教会の本質を見失うことになります。現代人にとっての真理は、自分の好きなことだ、と言われます。現代人は、絶対的な真理を好みません。自分の問題を解決してくれればいい、ただ自分の願うようになればいいという風潮が聖徒たちを支配すれば、クリスチャンの本質を失ってしまいます。御言葉による成熟、霊的造り変えがなければ、クリスチャンとしての自分の本質を失うことになります。私たちはどうでしょうか。
イエス様を信じた私たちは、救われました。でも、救いの目的は、新しく生まれ変わることです。私たちが御言葉に養われて、霊的に造り変えられることです。それが、私たち救われた者の本質です。信じたものの、イエス様の弟子となって、イエス様のように生きようとしないならば、私たちはまだ肉と欲のままに生きることになります。不満や批判が心を占めていませんか。一つ一つのことを霊的に見るのでなく、肉の思いで受け止めるからです。恵みと祝福を味わうことなく、惨めなサタンの囚われ人となってしまいます。ですから、御言葉による訓練、養育が必要です。
U−御国の福音を宣べ伝え−
二つ目は、「御国の福音を宣べ伝え」たということです。「宣べ伝える」と訳されたケールッソーには、話す、伝えるという意味のほかに「宣言する」という意味があります。イエス様が公生涯を始めて宣言した最初の一言がまさに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。マタイ4:17。 福音は御国の福音というように、イエス様は、度々比喩で天国のことを人々に伝えました。 「天の御国は〜のようです。〜に譬えることができます」と、この地に天国があるようにしなければならないと言われました。 教会の第二の働きが、天の御国の福音を宣べ伝えることです。
天の御国って言っても、天国に召されると考える必要はありません。なぜなら天の御国は、空間的な概念ではなく、統治の概念だからです。マタイ6:10。神様の御心がなされ、治められるところが天の御国です。 漠然と遠く空間にあるのではなく、イエス様が主として治められる所がまさに天の御国なのです。 それは、未来的なだけでなく、すでに私たちのただ中にあるのです。 ルカ17:21。あなたの心をイエス様が統治されておられますか。あなたの心の王座に誰が座っていますか。
どのように天の御国がはじまるのでしょう。私の滅びと罪の身代わりにイエス様が十字架にかかられた、と信じてください。イエス様を救い主と信じるならば、その人の人生に御国が始動します。御言葉の養いによって、成熟したクリスチャンとなり、人々を愛し、仕えるようになると、天の御国がはじまります。私たちの家庭にイエス様を主人として迎え入れ、イエス様が治め始めるならば、家庭が天国になります。職場にイエス様を紹介し、イエス様の愛が広がるなら、職場に天国が広がります。
Uテモテ4:1〜5に目を通しましょう。どれほど厳粛で、強力な命令でしょうか。社会学によれば、現代人は、真理を拒否し、自分の好きなことを真理と言うそうです。深刻なことは、この世に真理を伝えなければならないクリスチャンが世に迎合してしまい、世の流れに流されていることです。自分の肉の思いを満たすこと、自分の肉の思い通りに周りがなることが自分の真理になっています。それでは、不満や怒りばかり生じるでしょう。
何か自分の思い通りになること、自分の願いを満たすことが自分の心を支配しているとすれば、世の宗教と変わりありません。そこには、他のたましいの救いに心が向けられることがありません。イエス様の十字架の犠牲によって罪赦され、新しい命に生きることができるという真理を知ったならば、たましいの癒しと平安を得たならば、御言葉によって養われ、造り変えられる幸いを体験したならば、他のたましいの救いを願わずにはいられません。証しして生きることが、クリスチャン人生の本質となります。
V−病気、わずらいを直された−
イエス様の第三にされたことは、「あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」ことです。イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったのは、救いのためだけではありません。私たちの苦しみや弱さも背負ってくださいました。イザヤ53:5。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり苦しまれましたが、その犠牲によって平安を与えられ、癒されました。Tペテロ2:24。救いは、一人を全人格的に生まれ変わらせるものです。イエス様は、救い主であり、イエス様は癒し主です。
イエス様は、救い主であるとともに、癒し主として世に来られ、癒しの働きをされました。現代の大きな問題の一つも、病気の問題です。どんなに医学が発達しても、限界があります。それは、病気が単に肉体だけの問題ではないからです。人は精神的な存在です。病気は肉体的なものもあれば、精神的なものもあります。ストレスなど精神的なことが病気の誘引になるなら、救いによるたましいの平安と癒しが、病気の治癒につながると言えるでしょう。この節で「わずらい」と訳されたことばは、弱さ、弱い部分を意味しています。心の患いや弱さも癒されるのです。
勿論、それでも老化や肉体的な病気にはなるでしょうが、たましいの救いによる心の平安と癒しが、どれほど肉体の病気を防ぎ、肉体の癒しにつながることでしょうか。もし私たちが怒りや不満でいっぱいになり、心も体も病んでしまうなら、イエス様の十字架の犠牲は何だったのかとなります。イエス様の十字架を信じた時のたましいの安らぎ、癒しはどうなってしまったのでしょうか。イエス様の十字架によって罪赦され、たましいが癒されたという私たちの本質を見失わないようにしたいのです。
どんなに不安やストレスのもとに晒されたとしても、イエス様が私の味方、イエス様が私の傷や弱さを負ってくださったと思えば、不安やストレスは小さくなります。怒りや不満のわく心をイエス様のところに持っていけば、御言葉に立ち返るならば、たましいの取り扱いを受け、悔い改めと感謝に導かれます。たましいに安らぎと癒しが訪れることでしょう。
教会にも、この癒しの働きがあります。心に傷のある人が教会に来て、イエス様に出会い、癒される必要があります。肉体が病気の人がイエス様の御名で治癒され、サタンに縛られているたましいが解放される必要があります。確かに、私たちはしばしばそのようなことを体験して来ました。とりなしの祈りが答えられました。癒しの働きという教会の本質を失わないように、私たちは執り成し祈り、癒し主を信じて委ねます。
今私たちの教会一人一人が、御言葉によって養育され、霊的に造り変えられ、成熟した主の弟子となりますように。私たちが周りのたましいを愛し、信仰の恵みと感謝によって熱心に証しする聖徒となりますように。私たちが、信仰によって癒され、健全な心が与えられますように。そうして、教会の本質を失うことなく、歩めますようにと願います。マタイ9:35。
マタイ4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
9:35 それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。
エペソ1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
マタイ28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
マタイ4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
マタイ6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
ルカ17:21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
使徒5:42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。
Uテモテ4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
イザヤ53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
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