2016年5月29日「私たちの戦いの武器」Uコリント10:1〜6
序−私たちには、様々な人間関係の戦いがあります。戦いに引き込まれ、同じように戦うことならば、どのようになるでしょうか。私たちは、どのように受け止め、どのように対処すればいいのでしょうか、
T−キリストの柔和と寛容をもって−1〜2
コリント教会の中には、パウロを臆病者だと考えていた人々がいました。1節。ここで、「面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者」だと言うのは、パウロを批判している者たちの表現をそのまま引用したものです。これは、目の前にいる時は何も言わないでおとなしいのに、離れている時だけ声高に言う臆病者だというのです。
しかし、このようなパウロの批判はまったく根拠のないことです。実際のパウロは、人々の前ではいつも穏やかで謙遜であって、人の心を忖度しており、権威を振り回して人に怒りをぶつけたりするような人ではありません。ただ真理に関することは、厳しく手紙に書きました。それで、反対者たちは、そのようなパウロの姿を見て卑怯者だと攻撃したのです。
私たちが気をつけなければならないことは、根拠の無いことで他人を攻撃する人々のことです。あることをまったく正反対に解釈して攻撃する人がいます。私たちも、自分の言動が誤解され、非難されたとしても、それによって傷を受けないよう心の備えが必要です。サタンは、いつも近くの人を使って私たちを攻撃しようとしています。どうして理解してくれないのか、なぜ悪く取るのかと悩んだり、憤慨することはサタンの思う壺です。
パウロは、そのような批判に興奮しないで、「キリストの柔和と寛容」で答えています。「柔和」というのは、ただ柔らかいというのでなく、自分の目標を明確に知っているので、自分の目標でないことには余裕を持っているということです。この柔和は、分別力と直結しています。
一方、パウロを攻撃する人々は、いつも緊張していて、余裕がないために、ピリピリしています。そのような人は、イエス様と人格的に出会うことがないためです。それで、いつも緊張しながら生きています。人に隙を見せまいと、いつでも警戒して、人々に対して心をオープンにできません。
ところが、イエス様に出会って、心癒されたならば、そんな警戒は必要なくなります。心が落ち着いて変化して来るからです。2節。「肉に従って歩んでいる」というのは、肉の欲のまま行動するということです。パリサイ人のように外見をよく見せようとする人にとって、そのようにしないパウロは、気に入らないので、あれこれ批判するのです。イエス様だって、同じような批判を受けられました。マタイ9:10〜11。
真理が分かって、目標がしっかりしている人は、一々緊張しません。しかし、真理について分別力がない人は、自分のようにしない人をむやみに攻撃するのです。自分と違う人だとすると、自分に対して武装しているように思え、攻撃するのです。私たちは、人間的な力ですべてのことができるとは考えません。代わりに、聖霊が自分に働いてくださるなら、力が与えられることを知っています。私たちの感情と意思が神様に従う時、神様は私たちを通して働いてくださいます。
イエス様に出会っていない人は、自分が強くなれば強くなるほど良いと考えますが、イエス様を信じる人は、肉の自分がなくなくなればなくなるほど良いと考えます。外面的には、自我の強い人が勝っているように見えるのですが、人を助け、人を変えることはできません。真実に強い人は、力や怒りでなく、説得と愛を通して人を変えます。
U−私たちの戦いの武器−3〜4
世の戦いは強い者が勝つように見えます。大きな力を持って、毒舌でかみつく方が強そうです。しかし、パウロは、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません」と言っています。パウロも、人間の肉体と心を持っているけれども、主の御心に従おうとして、肉に従って戦ってはいないと言っています。初代教会の聖徒たちには、彼らを攻撃する敵が大勢いました。獅子の中にいる羊のような存在であったクリスチャンが、どのように生き残ることができたのでしょうか。彼らにも、イエス様を信じる前の肉の性質があり、それで戦ってみようとするかもしれません。しかし、それは主の喜ばれるところではありません。
なぜなら、ここでいう私たちの敵とは、肉体を持った人ではないのです。私たちは、サタンと戦うのだというのです。エペソ6:11〜12。だから肉の思いに従って戦っては駄目です。「神の御前で」の戦いだというのです。ということは、目の前で私たちを攻撃する敵は、サタンの手下に過ぎないということになります。ここに、私たちの戦いの難しさがあります。私たちの敵は人ではないからです。
では、私たちの目に見えない敵、サタンに勝つことができる方法は、何でしょうか。4節で、パウロは、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです」と、言いました。「堅固な城壁」とは、サタンがこの世で支配している勢力です。人々を引き入れて、自分の国を作っており、それは微動だにしないのです。
どうしたら、それを倒すことができるのでしょう。イエス様がサタンを戦われる時どうされましたか。マタイ4:1〜11。御言葉によってサタンをしりぞけました。何よりも、イエス様は、ただ神様の御心に従って、ご自分を十字架にお渡しになり、サタンに勝利されました。それで、信じる者がサタンの囚われ人から解放されるようにしてくださいました。「要塞をも破るほどに力」とは、十字架の力です。Tコリント1:18。私たちの力でサタンを倒すことはできません。人の戦いには、サタンが働くのですから、肉の力で戦おうとするのではなく、十字架の福音で戦うのです。
サタンの勢力と戦うためには、まず人を恐れないで、神様を恐れなければなりません。イエス様は、「からだを殺す人を恐れないで、たましいもからだもともに滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました。マタイ10:28。サタンは人を騙す者ですが、神様は騙されません。人がどんなに大きな声を出して、怒っても、神様の御心に勝つことはできません。
それから、サタンの勢力に打ち勝つ方法は、御言葉を握り、聖霊の働きに拠り頼むことです。イエス様は、私たちが神様の御言葉を握る時、聖霊の働きがあらわれると約束されました。神様の御言葉を握ることは、人の考えに依存することと反対のことです。私たちの中には、多くの人間的考えがあります。でも神様の御言葉を握るならば、この世に流されません。
私たちは、御言葉がどのように世に適用されるのか、悩むことがあります。御言葉と現実の間には、大きなギャップがあります。どうしたら、調和させることができるのでしょうか。その過程で、現実に倒されたり、人生のどん底に落ちることもあります。けれども、真理を現実に適用させる力を与えられています。それによって、世に打ち勝つことができます。悩んでいるうちに、現実を突き抜ける知恵を持つようになります。この洞察力が私たちの力となります。
クリスチャンが世に勝利できるのは、単純性です。考えが複雑なのは、心の中に欲心が残っているからで、複雑な考えでは世に勝つことができません。事が複雑にもつれるほど信仰で単純に対処しなければなりません。信仰よりもっと強い力はありません。
V−サタンの武器を打ち砕く−5〜6
クリスチャンに重要なことは、どれほど自分を強くするかということではありません。どのようにすれば、自分を通して神様の御心をなすことができるかということです。サタンに打ち勝つために、サタンの攻撃と武器を知らなければなりません。5節。いままで、サタンは、人が神様から離れるようにさせました。人が本当に自由になる道は、神様を否定して一人で立つことだと教えました。勿論、それは逆に、サタンの囚われ人、罪の奴隷に戻ることです。エペソ2:1〜5。
「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと」は、すべて同じです。人間がいつも考えていることは何でしょうか。それは、神がいなくて一人で完全になる道です。人々が古代哲学に熱を入れた理由は、神様のいない宇宙や人間の存在について考えることができるからです。近代のヨーロッパが進化論に熱狂したのも、神のいない人間を説明できる唯一の道だと考えたためです。ヒューマニズムを称えることは、世の中心に人間がいたいためです。
サタンが主として使う武器が、人が自分自身中心の考えや感情を絶対視させることです。その人の怒りや疑いをそそのかして、他の人を破壊させようとします。また、人の感情を衝動的にさせて、他の人を攻撃させます。さらには、人間の利己主義を刺激して、神様の創造の秩序を破壊させることです。近代は、科学でないことを科学であるかのように主張します。彼らの思想には、神を否定しようとする意図が隠れています。
創造の秩序は、人々が神様に従い、イエス様が中心となることです。6節。何か間違っていることを知っていても、それを直すまでは時間が必要です。しかし、重要なことは、時間が与えられているにもかかわらす、最後まで変わろうとしない人は、自分を裁きに投げ入れることになるということです。サタンは、いつも私たちの信仰を無気力にさせようとしますが、神様に信頼し続けるならば、私たちを倒すことはできません。4節。
Uコリント10:1 さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。
10:2 しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。
10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
エペソ6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
Tコリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
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