2016年6月12日「離反させる人々」Uコリント11:1〜9

序−人は、福音を聞いてイエス様を救い主として受け入れたことで信仰に必要なことは完了したと思いやすいでしょう。しかし、福音を聞いて信じるよりもっと難しいのは、真理の中で正しく成長することです。子どもが生まれたら、それですべてが終わったと言うでしょうか。栄養のあるものを食べさせ、病気にかからないようにして、教育を受けさせるでしょう。それが欠けていたために、聖徒たちに問題が起こっていました。

T−熱心に思っているから−1〜2
 そういうコリント教会の聖徒たちの信仰姿勢のため、これからパウロは、「少し愚かな」話をしようと言っています。1節。前章で取り扱っていた自慢のことです。その愚かな自慢を自分もしますので、少しこらえてほしいと言っています。では、その少しばかりの自慢とはなんでしょうか。
 聖徒たちを思うパウロの熱心です。2節。聖徒たちの救いを婚約の比喩であらわしています。ここで「神の熱心をもって」と言っていますが、「熱心」と訳された言葉は、「嫉妬」も意味します。原語のゼロスとは、沸騰している音から出来た言葉です。沸騰する感情を表して熱心や嫉妬を沸き立たせるという感じですね。そもそも嫉妬とは特別な関係から生じるものです。花婿が花嫁に対して愛の嫉妬を燃やすように、神様がクリスチャンに嫉妬の熱情をもたれるというのです。
 聖書では、しばしば「神はねたむ神である」と表現されています。出エジプト34:14。私たちを救った神様は、私たちを愛するあまり、ねたまれるというのです。当たり前ではないでしょうか。私たちを救うために、御子イエス様を十字架に渡されたのです。それほどの犠牲を払われたのですから、愛の嫉妬を熱心に燃やさずにいられないのです。この神様の嫉妬とは、私たちの心と関心を全部占めることがなければ、神様は私たちを幸いにできないという意味です。パウロが、「神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っている」と言うのは、パウロも熱く聖徒たちの信仰の成長を思っているということです。しかし、嫉妬するほどの愛ならば、コリントの聖徒たちの不誠実、不貞に苦しんでいるということです。
 キリストの花嫁である教会が、聖書のイエス様から離れて、真理でない教えに引かれて、救いの恵みを無意味にしようとしているのです。婚約したことを忘れて結婚式を駄目にするようだというのです。尊い犠牲でイエス様に救われたということを記憶喪失しているのでしょうか。イエス様に救われた後、イエス様の願われるような姿に変えられ、霊的に造り変えられることが重要です。イエス様を信じた後、信仰の恵みを忘れて自分の肉の思いで生きるなら、それは婚約を忘れた者のようです。結婚式の列席者、つまり私たちを見守っている人々から恵みを奪うことになります。
 私たちは、信仰を持ったことより、信仰によって美しく成長することがもっと重要です。子どもを産むことよりも難しいのは、子どもをよく育てることです。教会は、キリストの花嫁であり、私たち一人一人の乳母のようです。神様は、教会を通して、救われた後の聖徒たちが罪に打ち勝って、御言葉によって成長して行くようにしてくださいます。Tペテロ2:2。罪の誘惑に陥らないで、どれほど神様の願われる姿に成長して行くかが、信仰の生涯の勝敗がかかっています。
 今コリントへほら吹きのような人々がやって来て、聖徒たちを違う道に引いて行こうとしています。私たちにとって重要なことは、一度福音を聞いて、イエス様を信じたことだけでなくて、その後も御言葉の真理の中で成長して行くことがもっと重要なのです。御言葉の真理の中で成長していく時、神様の願われる姿を自分に発見するようになります。

U−悪巧みに欺かれることを恐れて−3〜4
 そのようなキリストと聖徒たちの関係を、邪魔して、惑わすのが、サタンです。3節。「蛇が悪巧みによって」とういうのが、最初の堕落を意味しています。本来神様と人との間に他のものが入り込まないように、徹底して神様に信頼して従順であったところから、蛇、すなわちサタンの誘惑に落ちて、神様に背を向けて罪を犯してしまい、滅ぶ者となってしまいました。創世記3:1〜6,22。
 サタン、悪魔は人が神様によって幸いになることが我慢なりません。それで、人を騙しました。まず、サタンは人を煽てて、神様がいなくてもいくらでも幸福になれると騙しました。これによって、神様と人との間に隙間が生じました。人に不信と傲慢が入り込みました。その結果、死と滅びが入りました。人が永遠の命を回復するためには、悔い改めて神様に立ち返り、神様の御心に従うほかはありません。それでも、従順にならないなら、私たちの心は、サタンにほんろうされ、腐敗して行くほかありません。イエス様を信じたことですべてが終わるのではなくて、神様に従うことができる機会と力を得ることです。しかし、従順を嫌うなら、イエス様の十字架の何の力は、その以上ありません。
 サタンの騙しは、まるでサタンが世にいないかのように信じさせることです。これがもっとも恐ろしい騙しです。ある人をイエス様から引き離そうとして、人を使って反対させたり、肉の自分に自信を持たせます。自分の肉の思いを中心にさせ、神様中心に信仰に熱心になることが危ないことかのように思わせます。そこに、サタンが働いていることなど少しも考えていません。自分の感情や思考の結果そうしていると騙すのです。進化論やヒューマニズムなどの社会哲学は、人間は万物の霊長だと煽てるのですが、人間を滅ぼそうとするサタンの策略であることを知りません。
 その結果、どうなりますか。4節。コリント教会に違う教えが入って来ました。その内容がどんなものか分かりませんが、サタンに騙された教えです。聖書だけ信じていては幸福になれないとか、世と同じようにしなければならないとか、もっと自分の肉の思い中心でいい、罪のことを言ってはいけないなどと、どんどんイエス様の福音から引き離し、心を神様から引き離します。
 「みごとにこらえて」というのは、ほめているわけではありません。「心配しています。というわけは」という理由です。皮肉混じりの残念な思いです。コリントの聖徒たちをねたむほどに愛しているパウロの心の痛みが伝わって来ます。もし私たちの知っている人がサタンの誘惑に会い、信仰が揺さぶられて、イエス様から離れつつあるとしたら、非常に残念に思うし、辛く感じることでしょう。祈らずにはいられません。

V−世的な基準−5〜9 5節も「というのは」から始まる
 すでにイエス様を信じたのに、元の価値観に戻ってしまったことを心配して、実際の問題を取り上げています。5〜9節。当時その地で人気があったのが、雄弁術、弁論家でした。古代ギリシャでは弁論術が盛んで、それを専門にした弁論家がいました。その弁論術は、内容より、どれだけ流暢に弁舌できるかということが重要でした。泣いたり、笑わせたりする弁論が高く評価されました。素敵な服を着て、どれほど流暢に話すかを重要視したそうです。そして、もう一つ重要視されたのが、その講師料でした。有名な先生であればあるほどその弁論は高額でした。その内容に関係なく、弁論料が高ければそれだけ有名な弁論家として評価されたそうです。
 使徒パウロは、この二つの点とも外れていました。真理を伝える時、そんな弁論術は躓きとなると考え、使いませんでした。むしろ、普通の話し方で単刀直入に真理を教えました。ただで福音を伝えました。宣教の働きのためには、すでに教会形成が行われていたマケドニヤの諸教会が支援してくれていました。そういうことからすると、パウロに対する評価がどんなものになるでしょうか。5〜9節。
 「あの大使徒たち」とは、当然12使徒ではなくて、使徒たちを知っていると宣伝して笠に着ていた人たちのようです。あの自分を自慢して推薦し、パウロを批判しておとしめていた人たちのことでしょう。このユダヤから来た反対者たちは、世の弁論術を駆使し、多くの講師料を請求して、高名であることをアピールしたのです。反対者がパウロの話しぶりを批判し、コリントの聖徒たちも、その文化や価値観のためにパウロを誤解したようです。なぜ自分たちから報酬を受け取らないのかと文句を言い、それくらいの弁舌なのかとおとしめたのでしょう。
 パウロの聖書的な価値観では、とにかく彼らを救うために「自分を低くして報酬を受けずに福音を宣べ伝えた」ということです。とにかく福音のためには、彼らの「重荷にならないように」という観点からすべてのことをしました。聖徒たちの問題は、クリスチャンとなったのに、世の価値観や文化で物事や人のことを考えて、受け止めていたということです。元の肉の思いや考え方や感じ方に戻っていたということです。
 イエス様を信じただけに留まらず、新しく造られることが重要です。救われたなら、生き方も、価値観も新しくなったのです。Uコリント5:17。福音の生命で生き生きと人生を生きるには、何よりも神様に徹底して拠り頼み、御言葉の価値観に立つことです。神様からねたむほどの愛で愛されていることを忘れないでください。サタンの誘惑に陥らないように、騙されないようにと願います。今どのように人を受け止め、問題を見ていますか。聖書的に人や物事を受け止め、福音で理解しようとすることが必要です。ガラテヤ2:20。



Uコリント1:1 私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。
11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。
11:4 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。
11:5 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。
11:6 たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。私たちは、すべての点で、いろいろな場合に、そのことをあなたがたに示して来ました。
11:7 それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。
11:8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。
11:9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。




出エジプト34:14 あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである【主】は、ねたむ神であるから。

Tペテロ2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ガラテヤ1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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