2016年6月26日「無駄でない労苦」Uコリント11:21〜33
序−人は、誰でも何かを自慢したがるようです。あれもこれも自慢します。苦労したことまで自慢します。でも、労苦とは、私たちにとって何でしょうか。自慢の種なのでしょうか。使徒パウロの証しから学びます。
T−色あせたブランド、自慢−21〜23a
ユダヤからコリントに来た教師たちが、盛んに自分たちを自慢していました。それで、パウロは、仕方なく愚かになって彼らと同じことを自慢してみせています。どんな自慢でしょうか。21〜22節。つまり、これは、コリントに来たユダヤ人教師たちが自慢していたことです。ヘブル人で、イスラエル人で、アブラハムの子孫であることを大変なことのように自慢していました。そして、キリストのしもべだと主張していました。
ヘブル人というのは、ユダヤの文化を固守していたユダヤ人を意味しています。ローマ帝国中に散らばっていたユダヤ人は、ヘブル語を忘れてギリシャ語を話していました。使徒6:1。彼らは、そういうユダヤ人を軽蔑しており、タルソ生まれのパウロもそうだとおとしめたのです。イスラエル人というのは、我々は神の選民という意味です。そして、アブラハムの子孫とは、血統上子孫だというだけでなく、彼が神様から受けた祝福の約束の相続人だという自負です。彼らは、自分たちを純粋なユダヤ人と自慢し、パウロを自分たちのようでないと非難し、軽蔑したのです。
この人たちの自慢を見て、どうですか。恥ずかしいですね。でも、私たちは、どんなことを自慢しているでしょうか。「ヘブル人で、イスラエル人で、アブラハムの子孫である」というのが、彼らの誇りとしたブランドだったのです。パウロは、それは価値のない色あせたブランドだと言っています。ピリピ3:4〜7。「イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上」だと自慢しています。けれども、「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました」と証ししています。そんな自慢は、イエス様の十字架の前には色あせてしまったのです。ピリピ3:8。
ここに私たちが取るべき姿が示されています。色あせたプライドに固執しているために、憤慨したり、がっかりしたり、疲れたりしていませんか。新しく作られた者となったのですから、肉のプライドに頼む必要はありません。Uコリント5:17。救いから来る恵みと祝福により頼み、神様に愛され、造り変えられ、用いられていることを誇りとします。
「キリストのしもべ」については、「狂気したように、私は彼ら以上」だと強調しています。「狂喜したように」と訳された言葉は、常軌を逸したという意味です。イエス様に救われた恵み、福音の素晴らしさのゆえに、キリストのしもべになったことは、狂気したように強調したいのです。あのキリストの敵として生きていた昔の自分から、イエス様に出会って回心して以来、キリストのしもべに徹しきっており、命をかけて来たからです。私たちも、イエス様の十字架によってキリストのしもべ、イエス様の弟子となっていることの恵みを確信し、誇りとします。
U−変えることができない信仰の歩み−23〜28
「彼ら以上にキリストのしもべ」である根拠は、「私の労苦は彼らよりも多い」からと言っています。23節。つまり、キリストのしもべのしるしは、「労苦」だというのです。この「労苦」とは、疲労を伴う労苦、面倒や問題のための労苦という意味です。キリストのための労苦と言えます。ピリピ1:29。労苦は、キリスト教の美徳の一つと言われます。Tコリント15:58。
どんな労苦なのか、パウロが受けた労苦を列挙しています。まず23〜25a節。ピリピで牢に入れられましたが、夜中に賛美していると、鎖も扉も開いて、自害しようとしていた看守を助けたら、家族がみな救われた事件がありました。使徒16:19〜40。むち打ちは、39回まで行かないうちに多くの者が死んでしまったほどのものなのですが、パウロは5度も受けました。石打ちは、ユダヤのやり方で、ステパノはこれで殉教しています。そして、難破して、海をただよったこともありました。たましいの救いのために、死にそうな肉体の痛みを数多く受けたということです。
26節のリストは、宣教旅行において数々の危険に出会ったことを教えています。昔の旅ですから、大変危険だったことが想像されます。そういう外からの苦難とともに、宣教のためにあえてしなければならなかったことが、27節のリストです。たましいの救いのために、生活の困窮を経験し、問題で眠られぬ夜を過ごしたというのです。パウロは、それらのために「労し、苦しみ」ました。私たちも、生活の困窮や眠られぬ夜を少なからずして経験して来たことでしょう。
パウロの苦難と労苦のリストについて考えてみれば、これらの労苦の多くは避けようと思ったら、避けられたものであったかもしれません。やめようと思ったら、旅はやめることができます。しかし、パウロは、その歩みを変えることはしませんでした。その先に、救いを待っているたましいがいるからです。
私たちも、誰かを助けるために、家族に仕え、社会に貢献するために、労苦があってもそれをやめることをせず、歩みを変えないことがあります。人生は労苦が伴います。御言葉は、「労苦して弱い者を助けなければならない」と勧めています。使徒20:35。人のために生きている人が長生きしている、という統計もあります。まして、たましいの救いと養いのための労苦ならば、主によろこばれることです。
人は、たいてい自分中心に考え、自分の心の満足ばかり考えるかもしれません。しかし、不思議なことに、イエス様に出会って救われた者は、人の助けやたましいの救いのために労苦するようになります。イエス様からそのような心が与えられるからです。ですから、外から来る苦難と労苦が多くあったにもかかわらず、パウロの心をとらえていたことは何でしょう。28節。死にそうな目に会い、患難に出会い、困窮しながら、それでも、そのような中で、「教会への心づかい」があったというのです。聖徒たちについて心づかいをしていたというのです。
愛する家族や兄弟姉妹のことを思えば、私たちに心の余裕がなくても、他のことで労苦していたとしても、心遣わずには居られないでしょう。初めは自分のことだけ考えていたとしも、イエス様の救いの恵みや神様の祝福が心にじわじわと感じられるようになるなら、試みにあって迷うたましいを見て、心痛まないではいられません。人々に対する心づかいが、日々私たちにも押しかかってくるようになるのです。
V−パウロの弱さ−29〜33
パウロは、決して労苦を自慢していません。これらの労苦や苦難の列挙を見ると、パウロが英雄かのように思えるでしょう。反対者などは、少し労苦したこと、ちょっと苦難を受けたことを自慢していたでしょう。人は、労苦したことを自慢し、これだけ労苦したといばるものです。あるいは、苦難や労苦に心が曲げられ、人生が荒れてしまうかもしれません。しかし、パウロは、それは自分の弱さのあらわれだと言っています。29〜30節。
クリスチャンにとって、労苦や苦難は、自分の頑張りを誇るものではなく、弱さを知って、主に拠り頼み、守られたことを感謝する機会なのです。神様は私の弱さをご存知だということを知ることが、私たちが倒れない秘訣であり、人を傷つけない道です。自分の弱さを知る人が、長く主のことをすることになります。
そのために、回心したばかりの具体的な事件を取上げています。32〜33節。なぜ、篭に乗って逃げ出した事件など引用しているのでしょうか。ダマスコ途上でイエス様に出会い、救われ、回心したパウロは、さっそくダマスコで証しを始めました。しかし、妨害に会って、命ねらわれ、何とか城壁の窓からかごでつり降ろされ、のがれることができました。クリスチャンとしてのスタートの時でした。パウロの労苦は決して、英雄的なものではなく、弱さのあらわれです。
この最初の迫害と苦難の経験は、消すことのできない屈辱的な傷となりました。これらの苦難と労苦のリストは、彼がキリストのしもべとして、キリストのために受けた労苦の傷痕なのです。ジョン・バンヤンの天路歴程に出て来る真理の勇者氏は、神のもとに行かねばならぬことを知った時、こう言っています。「わたしの剣は、私に続く者に残して行きましょう。私の勇気も。しかし、私の傷あとだけは、私が主の戦いをよく戦ったしるしとして、たずさえて行くつもりです」。
パウロも、イエス様に出会う前は、ユダヤ人としての誇りをもって、それを自慢していました。しかし、イエス様に出会った後は、そのような自慢は捨てました。誇るものは何もなくなりました。自分を自慢することが多い人は、人を真実に愛することができません。自分を自慢するとき、人を馬鹿にし、さげすむからです。
信仰は、信じたことで終わりではありません。私たちの信仰の成長が重要です。パウロが受けた労苦と苦難の列挙は、人々の救いがどれほど大切であり、人のたましいの成長にとって労苦が有益であることを示しています。こうして、信仰の歩みのために労苦するのは、私たちを霊的に成長させ、主にあって無駄ではないことを知っているからです。Tコリント15:58。
Uコリント11:21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、──私は愚かになって言いますが──私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
11:31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。
11:32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
11:33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。
ピリピ3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
ピリピ1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。
Tコリント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
コロサイ1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
コロサイ1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
使徒20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
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