2016年7月3日「とげと一緒に来る恵み」Uコリント12:1〜10
序−人は、だれでも他人が分からない傷や痛みを知って生きているものです。家族や友人でさえ知らない痛みや葛藤を持っている場合もあります。使徒パウロは、人の知らない痛みを持っていた人です。それは、長い間自分だけの隠れた痛みでした。私たちにも何がしかの痛みがあり、悩んだり葛藤したりします。ですから、パウロの証しから痛みについて学びましょう。
T−パウロの体験−1〜4
パウロの反対者たちが、神秘的な体験をまことしやかに言いふらし、自慢していたので、パウロは、ある人と言って、自分の体験を証ししています。1〜3節。それは、ダマスコに行く途中幻の中でイエス様に出会い、御言葉の啓示をいただきました。使徒9:1〜6。トロアスの港では、マケドニヤ人の幻が現れて、ヨーロッパ伝道を要請しました。使徒16:9。第三の天というのは、ただ深い祈りの中や酷い痛みの中で、夢現の中で、心が身体から離れたような感覚の中で、深く主と交わりができた体験をあらわしているようです。
ですから、神様との交わりが与えられたことを感謝しているに過ぎません。4節のパラダイスとは、元々ペルシャ語で「庭」のことです。王の庭に王と一緒に憩う権利をパラダイスと言ったそうです。ですから、パラダイスは、神様と一緒にいることができるということなのです。
U−真実に誇りたいこと−5〜8
そんなことよりも、パウロが誇りたかったことを証ししています。5〜6節。パウロは、誇るとしても、「自分の弱さ以外には誇りません」と明言しています。その弱さとは、何でしょう。7節。「とげ」スコロプスとは、「杭」という意味です。体に杭を打って動けないようにするというくらいの痛みです。とげというならば、目に見えないけれども、ずっと痛みと不便を与えているものということです。彼をそのようにしていた杭やとげとは、何でしょうか。カルヴァンは、霊的誘惑や疑い、葛藤と言っています。ルターは、迫害と解釈しています。でも、最も基本的なものは、病気でしょう。何か痛くてどうしようもないほどであったようです。
その病気については、多くの人々が研究し、色々主張しています。神経痛、リュウマチ、癲癇、熱病、マラリヤ、胆石、胃炎、聴覚障害、眼病、憂うつ症、神経衰弱などが提示されています。共通して言えることは、周期的に訪れて、彼の肉体を相当に痛めるほどの病気であったということです。でも、周りの人にはあまり分からないものです。あなたが持っている「とげ」とは、どんなものですか。杭のような痛みですか。
また、気質的なことという主張もあります。怒りとかヒステリーで制御できない状態になる人がいます。霊的沈滞や無気力に陥って、果たして自分は救われた者が分からなくなるほどに、状態が悪くなる時があります。その時恐ろしいのは、軌道修正できなくなることです。完璧主義の気質のために、他の人に対して不満や怒りを持ってしまうのです。信仰的で立派な人なのに、そういうとげを持っている人もいます。
パウロは、神様に自分から肉体のとげを除いてくださるように懇願しました。8〜9節。しかし、この時彼の祈りは答えられませんでした。パウロは、この酷い痛みや霊的沈滞を「サタンの使い」と言っています。サタンが自分を倒して、信仰で立っていけないようにするというのです。サタンは、手段と方法を駆使して、私たちを倒そうと試みます。サタンが病を持っている私たちを試みるということです。
誰でも、病気になれば、主の前に伏して、癒しを求めるようになります。パウロも同じでした。肉体のとげが刺す痛みに苦しみ、三度も特別な祈りをしました。イエス様がゲッセマネの園で三度も神様に祈り懇願したことを思って、肉体のとげを取り除いてくださいと祈り叫んだようです。マルコ14:33〜39。祈りは、本当に尊いものです。神様は祈る者を愛して、聞いてくださいます。旧約の詩人の告白を聞いてみましょう。詩篇66:19〜20。
それでは、なぜ神様はパウロにこのような試練を与えられたのでしょうか。肉体のとげを残しておかれた理由は、恵みを受けたパウロが高ぶりの罪に陥らないようにされた神様の知恵の処置でした。パウロという人は、知恵も学問もあり、大変強い人だという印象があります。前回の労苦と苦難のリストを見ても驚くばかりです。ですから、高慢の罠にかかり易い弱点を持った人でした。仕方ないとはいえ、結局は神秘的な体験を誇っていました。自分の努力で得たことでないなら、人は高慢になり易いものです。
神曲を書いたダンテは、自分の罪の一つとして高慢をあげています。高慢は、自己愛の変わった形態であり、自分崇拝の変わった形態だというのです。しかし、パウロは、この肉体のとげを通して、「神の恵みによって、私は今の私になりました」と告白する謙遜な人となりました。Tコリント15:10。人は誰でも高慢になり易いものです。私たちの高慢を折るためのとげは何でしょうか。なぜとげのようなものが残っているのか、神様に祈って、聞いてみなければなりません。
パウロは、痛み苦しむ度ごとに主に祈って、主のあわれみと癒しを求め、それを通して高慢にならないで、主の御心のうちをよく歩むことができました。主は、私たちの肉の性質をよく知っています。もしすべてが自分の思いのままになったとしたら、どうでしょう。高慢になり、堕落するでしょう。そのために、自分の思うままにならないようにさせ、自分の実態を見るようにさせられるのです。
V−弱い者を強くしてくださる−9〜10
ところが、神様は、この祈りは答えられませんでした。9〜10節。その理由は、「主の力は、自分の弱さのうちに完全に現れるから」というのです。パウロは、弱い所を強くしてくださる神様の力を体得しました。主はパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と約束されました。これは、本当に驚くべき発見でした。いつも彼は自分の肉体のとげが自分を弱くしていると憂えていましたが、主の御声を聞いて見ると、間違っていたと気付きました。
パウロにとって肉体のとげは、まるで損害のように見えたけれども、神様は多くのものをくださいました。私たち自身の痛み、問題、失敗など、自分には引き算のように見えるけれども、神様には足し算だという事実を覚えなければなりません。痛みがそのまま残っている場に訪れて来る喜びです。とげと一緒に来る喜びです。十字架を前にしたイエス様は、ゲッセマネの園で、十字架を自分から取り除いてくださるように祈られました。マルコ14:35〜36。十字架は、神様の御心に従う道でした。
ついに、驚くべき喜びが訪れました。「私が弱いときにこそ、私は強い」と叫びました。10節。パウロの生涯を調べてみると、「弱い時に強くしてくださる」神様の御言葉が立証されたことを知ることができます。もし、私たちがとげによってため息をついて、涙を流す日々が多くても、これが私を強くする神様の御手だということを忘れてはなりません。
私たちの力は、主に拠り頼み、主につながっていてこそ、生じて来ます。肉の人が求める力は、いくらも行かないうちに消えてしまいます。主の道を行くのに、最も重要なことは、誠実さと謙遜さです。高ぶる人は主に拠り頼まないで、自分の力を信じて行くために途中で倒れてしまいます。ですから、主は、主のしもべが主から離れることのないように、弱さを残しておかれたのです。弱さがあってもいいのです。私たちにとって弱さとは何でしょう。ある人には仕事、ある人には人間関係、ある人には何かの失敗、ある人には健康問題かもしれません。
神様が愛する人にとって、願ったものが与えられないのは、終わりまで主に拠り頼むようにさせるためです。それで、私たちの弱い部分について求めても聞いてくださらないなら、それが自分に有益なのだと認めなければなりません。私たちの人生は、長いマラソンのようです。主の道をずっと行く人は、徹底して自分を捨て、主に拠り頼むすべを学んだ人です。あなたは、そのように走る備えがありますか。あなたにとって最も致命的な弱い部分は何だと考えていますか。その弱点をこの世のことで保とうとしてじたばたしていませんか。むしろ、その弱い部分を通して、主に出会い、主に拠り頼み、信仰の生涯を長く走りましょう。
証し−ある子どもの頃から病気を持っていた人が、「いつも感謝しなさい、いつも喜んでいなさい」という説教を聞いた時、反発が起こり、反抗するようになりました。やがて結婚して子どももできた後に、また再発して、絶望的になりました。その時知り合った信仰の友から良い治療を教えてもらいました。まず神様に感謝すること、そして適する聖句を毎日一つ暗唱して黙想すること、次に周辺から感謝することを探してみることでした。気乗りしなかったけれども、心を尽くして従いました。まもなく感謝するようになりました。また、自然の美しさを賛美しなさいと言われました。病気のこの人には周囲の美しさが目に入るはずがありませんでした。従順に自然の美しさを賛美していくと、鳥の声や花の香りに気付き、神様に感謝するようになりました。そして、いつの間にか自分を痛めつけて来た病を無意識に感謝するようになりました。その時、神様が自分と一緒におられたことを強く感じるようになりました。その後周りの人々に、神様が自分にどんなに恵みを与えてくださったか証しするようになりました。Tテサロニケ5:16〜18。
Uコリント12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。
12:3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
マルコ14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
Tコリント15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
詩篇66:19 しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。
66:20 ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。
Tテサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
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