2016年7月10日「霊的成長の恵み」Uコリント12:11〜21
序−イエス様を信じる、クリスチャンになるということはどういうことでしょうか。クリスチャンの方は、信仰告白して、洗礼を受けることを言うでしょうか。クリスチャンでない方はどう見ているでしょうか。生き方が変わり、品性が整えられるように思うでしょう。まさに、その通りです。信じたに留まらず、信じた後の歩みが大切です。
T−信仰によって生きる姿−11〜13
この部分は、愚かな手紙と言われているところです。11節。愚かになって、自己弁護や自慢のようなことを書いているということです。パウロは、コリントの人々に対して、大変誠実に、愛で仕えていました。それなのに、反対者たちの扇動とは言え、パウロの使徒性を認めず、様々な誤解をして、批判していました。「あの人は、使徒のような権威はないし、弱々しい。我々の思うようにしてくれない」と。私たちも経験することです。人から認められず、侮られるならば、苦々しく思うでしょう。
彼らは、パウロが権威主義でないことを謙遜と愛のゆえとは考えないで、力のない弱い者だと判断したのです。愚かな人はそういうふうに見るものです。パウロ自身は、自分をどう見ていたでしょうか。自分は他の人より優れているなどとは考えておらず、罪人のかしらだと思っています。Tテモテ1:15。しかし、自分の中に素晴らしい福音を持っており、伝える福音も大使徒たちと比べて遜色ないと確信していました。私たちも、イエス様の犠牲によって救われた尊い存在であり、神様に愛されている者だという自信を持つことができです。イザヤ43:4,ローマ8:31〜32。
人は、外見が立派で自分を主張している者を権威ある者に見るのですが、パウロの外見と態度を見て、実力も能力もないので、低姿勢でいると判断したのです。彼らのために、愚かになって、弁明を婉曲に表現しています。12節。こんなこともできた、あんなこともしたなどとは言いません。「忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた」ことですと言うのです。パウロは、長く耐えながら、謙遜と慈愛をもってコリントの聖徒たちに仕えていました。それも、イエス様の救いの恵みに根をおいていたことが重要です。
かりに人に親切に謙遜にしていたとしても、それが何か期待していることかもしれません。期待通りでなく、可能性がないなら、親切も謙遜もそれ以上続きません。むしろ、無礼になるようになるでしょう。仕えても愛しても、返答がよいものでないのに忍耐しているなら、それは神様からの力であり、愛からであることが分かります。
パウロは、宣教師としてマケドニヤの諸教会などからは支援を受けていたのに、コリント教会から支援を受けていませんでした。それを公平でなかったと謝っています。13節。このようなコリント教会の混乱と人々の肉的な態度の中では、それが良かったのだということが分かります。
U−負担にならないように、信仰の幼子に対するように−14〜18
パウロがコリント教会に対して一貫して持っていた態度は、「負担をかけない」ということでした。14節。パウロは、コリントに三度目に行こうとしています。その時、あまり気を遣わないでください、負担をかけたくないからと言っています。誰でも、訪問するなら歓迎してほしいし、それなりのもてなしをしてもらって嬉しくないはずはありません。パウロは、そういう負担はかけたくないというのです。でも、日本人が考える、遠慮とかではありません。彼の信仰の思いから出たことです。
コリントには、エルサレムへの献金問題で、パウロを誤解し、非難する人々がいました。それ以上彼らを肉の思いにさせたくないのです。そういう意味で彼らに負担感を与えたくないのです。パウロは、罪人の自分が救われて、信仰の恵みに生かされているのを覚えれば、まだ福音を知らない人々に伝えないではいられません。Tコリント9:16。信じた人が信仰に生きることを願っていました。すでに信じている人々が、争い、妬んだりしているのは、残念なことです。
パウロは、コリントへ行くのは、たましいを主のもとに立ち返らせるためです。そういう動機をもっていくならば、彼らを愛することができます。パウロは、コリントの人たちを子どものように愛しました。まだ彼らの信仰がとても幼かったからです。確かに、コリントの人たちは知性的であり、弁舌はよくできるし、社会的地位もあるけれども、信仰的には大人ではありませんでした。御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話したのです。Tコリント3:1。もちろん彼ら自身は、霊的幼子だとは思っていません。
ところが、実際問題になると、霊的幼子、肉の人であることがあらわになります。問題や事件を信仰的に受け止めることができないで、肉の思いで受け止め、ねたみ争い、噂話をすることになります。それで、霊的に幼い彼らに対しては、与えて、福音で愛して育てることにしました。15節前半。ところが、結果はどうでしょう。15節後半。彼らをそれほど愛したのに、彼らから愛されなかったのです。子どもは親の愛を受けても、それが分からない時期があります。愛して受け入れれば受け入れるほど、わがままになり文句ばかり言うことがあります。
とうとう彼らの中には、エルサレム献金について、肉の思いにかられて誤解して、悪いうわさを広める者が出て来ました。16〜18節。あろうことか、彼らは、パウロが自分たちから「だまし取った」と言い、自分たちを「欺いた」と言うのです。ひどいことを言うものです。コリントの人たちの心の中にはどれほど傷が多くて、疑いが多かったのでしょうか。商業の町で有名でしたから、商売で騙されたことがあり、それが傷となって、疑うことが習性になっていたのかもしれません。
このような聖徒たちを直すことのできるお方はイエス様です。イエス様の十字架の犠牲的愛が、罪をおおい、傷を癒します。Tペテロ4:8,2:24。だまし取った、欺いたと言われたパウロは、どれほど心が痛んだことでしょうか。それでも、彼らを憎みません。繰り返し「私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか」と言うだけです。「同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか」と心を繋ごうとしています。なぜこのように対することができるのでしょうか。救い主イエス様の愛の姿があるからです。自分のような者が主の十字架によって救われ、愛されているからです。だから、彼らを愛し、徹底的に仕えました。
V−パウロの不安 パウロの愚かな手紙の目的−19〜21
これまでのパウロの言っていることは、自己弁護と受け取られる可能性があります。コリントの人々の評価や判定を求めているわけではありません。Tコリント4:3〜4。私たちをさばくのは、主であり、真に私たちが説明責任を負っているのは神様に対してです。この原理をしっかり持っていないと、私たちは絶えず人の評価を気にして、引きずられることになります。パウロは、愛するコリントの聖徒たちの霊的成長が望みなのです。「あなたがたを築き上げるため」とは、建て上げる(オイコドメオー)という言葉から、信仰の建て上げ、信仰の成長、霊的成長を意味するようになりました。ローマ4:19,エペソ4:16。オイコドメオーという言葉は、信じた後の霊的成長、霊的造り変えを象徴する言葉です。
ところが、パウロは、コリントへ行く時、起こり得る悪い状況を列挙して、心配しています。20〜21節。彼の心配は、反対者たちの扇動によって、霊的に幼子のようなコリントの聖徒が、肉の人に戻り、罪の姿になることです。ここに列挙されている肉の姿は、罪に支配されている人の姿です。本当に惨めな姿です。イエス様を信じてクリスチャンになっても、新しく造り変えられ始めたにすぎません。Uコリント5:17。いつでも古い人に戻そうとする誘惑があります。こういう心配を伝えることで、試みや誘惑に打ち勝ち、霊的成長が滞っていることに気付いてもらおうとしたのです。
しばしば問題になるのは、クリスチャンなのに、年齢も経験も上なのにと躓き、自分の傷付くことです。クリスチャンになっても、霊的造り変えが進まず、信仰の成長がないのを知らないからです。洗礼を受けて、クリスチャンになったというだけに留まって、肉の思いのままになっている聖徒たちに、こういう心配を伝えることで、霊的成長が滞っていることに気付いてもらおうとしたのです。確かに彼らは、扇動されてパウロを誤解し、悪く言っていました。彼らの間にも、争いやねたみがありました。
パウロは、コリント教会に自分が心配していることを知らせることで、霊的成長をしてほしいのです。クリスチャンに、「争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動がある」のは、信じただけに留まり、素晴らしい信仰の成長、霊的造り変えという恵みを知らないからです。パウロは、彼らを責めるのではなく、気付いてほしかったのです。
私たちは、互いに成長したいのです。イエス様に救われた時から、新しい人としての成長が始まっています。霊的造り変えが始まりました。コロサイ3:7〜10。私たちはそれを意識することが大事です。神の御子イエス様は、私たちがそのままの罪に支配されて、古い人、肉の人として生きるために、十字架にかかられたのでしょうか。私のために神の御子イエス様が犠牲を払われたことの尊さと恵みの重さを思う時、御国に召される時まで造り変えられ続け、新しい人となって人生を豊かに素晴らしく生きたいと願わずにはいられません。ガラテヤ5:19〜25。
Uコリント12:11 私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。
12:12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。
12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。
12:14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。
12:15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
12:16 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。
12:17 あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。
12:18 私はテトスにそちらに行くように勧め、また、あの兄弟を同行させました。テトスはあなたがたを欺くようなことをしたでしょうか。私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。
12:19 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。
12:20 私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。
12:21 私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行った汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。
Tテモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
Tコリント9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。
Tコリント3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
Tペテロ4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
Tコリント4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
ローマ4:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コロサイ3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
ガラテヤ5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
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