2016年10月2日「奉献式」T列王記8:1〜21
序−私たちの教会は、1998年9月に献堂式をしました。来年には会堂建築のための返済が完了します。彼の国では、会堂を建てた時は入堂式と言って、返済が済んだ時に献堂式をするそうです。ソロモンの神殿も完成し、奉献式が行われます。救いの恵みと応答を新たにしたいと思います。
T−神の箱の移動、御言葉中心−1〜5
教会堂が建設されたら、献堂式が行なわれるように、神殿建設が完成したら、奉献式が催されます。1〜3節。その時、完成された神殿に、天幕から契約の箱が運び入れられ、神殿の奥の至聖所に置かれました。つまり、このことが奉献式で最も重要なことになります。神殿に集まった全員がその前にいけにえをささげるほどのものです。5節。
なぜ、1つの箱がそのように重要なのでしょうか。それは、この箱こそが、神様と神の民の関係をあらわしているからです。この箱は、あかしやの木で作られた長さ1.12m、幅と高さ67cmほどの長方形の箱で、内側も外側も金で覆われていました。四隅の基部には、担ぐための棒を通す環が付けてありました。出エジプト25:10〜15。何かに似ていないでしょうか。神殿の基本構造が、日本の古い神宮の構造に似ていることも合わせ、悠久の歴史のつながりを思わされます。日本人が「知らないで拝んでいた」ものも聖書に繋がっていた、と励ましを受けたいと思います。
契約の箱には、モーセがシナイ山で神様から与えられた十戒を刻んだ2枚の石の板が納められていました。9節。契約の箱は、神様が民とともにいてくださる臨在の象徴であり、祝福のもとでした。申命記10:8。モーセの時代、民が荒野を進む時には、契約の箱を先頭にして進みました。民数記10:33。礼拝の生活でも、やはり御言葉が中心です。私たちが、神様の民として祝福を受けるのに、特別な能力などは必要ありません。ただ心の中心に、人生の中心に御言葉だけ入れていれば、神様の祝福を受け、霊的に変えられて行くのです。
なによりも、この契約の箱で重要なのは、贖罪と呼ばれる蓋です。出エジプト25:17〜18。ここに大祭司がいけにえの血を注ぐことで、民の罪を赦し、神様が民の罪を見ないようにしてくださったのです。このように身代わりのいけにえによって罪を赦されることを贖いと言います。日本語の贖いという言葉自体、金品を代償にして罪を免れるという意味です。神の民は、救い主が来られるまでは、自分たちの罪を覚えて、いけにえの血を代償としてささげ、赦してもらうということを続けました。ヘブル9:12。この血が神様と神の民を堅い関係にしていたのです。私たちも、聖餐式を通して、イエス様の十字架の犠牲によって、罪の赦しと天国への命が与えられている恵みを新たにして行きます。
契約の箱は、車や動物に乗せるのでなくて、担ぎ棒によって祭司たちが肩に担いで運びました。契約の箱に触れないことで、神様に対する畏怖があらわされています。神様への畏怖という思いも大事です。ダビデの時には、牛車に乗せて運ぼうとして失敗しています。Uサムエル6:3。奉献式において、民は、契約の箱の前に来て、多くのいけにえをささげました。5節。ここに、自分達の罪を贖ってくださる神様への信仰があらわれています。まず、恵みを受けることが重要です。救いの恵みを覚えなければ、真実な熱心な礼拝をささげることはできません。恵みを忘れていますか。
U−神様の栄光の雲、神の臨在が及ぶ−10〜11
契約の箱の蓋には、ケルビムという天使の翼が箱を覆っています。6〜7節。左右からそれぞれ翼で契約の箱をおおっています。出エジプト25:18〜20。それは、神様が礼拝する者たちを覆ってくださる、すなわち神様を慕い求めて礼拝する者を、神様がその御翼のかげに私たちを守ってくださるということを意味しています。詩篇61:3〜4,91:4。ケルビムは、神様の臨在をあらわしています。前回学んだように、礼拝は、神様の臨在を覚えてささげられなければ、形ばかりのものになってしまいます。
この蓋についているケルビムという天使の翼の間から、神様が御言葉を語られるというのです。出エジプト25:22。ですから、御言葉こそが、神の民の命であり、力であり、最高の祝福であることを知ることができます。私たちが、御言葉に耳を傾ける時、すでに神様の御翼が私たちを覆っているのです。何と幸いなことでしょう。主は私の避け所です。熱心に礼拝をささげ、御言葉に耳を傾け、その御翼に身を避けたいのです。
神様の臨在は、神殿を覆う雲を通してあらわされています。10〜11節。モーセの時にも、神様の栄光が雲となって天幕を覆いました。出エジプト40:34〜35。この神様の臨在をあらわす栄光の雲は、シェキナーと呼ばれています。光る雲がソロモン王と民が奉献する時も、ソロモン神殿も、モーセの天幕のように神様の臨在がある所だということです。
なぜ、このような形で臨在をあらわされたのでしょうか。モーセがシナイ山に登った時、その頂をこのシェキナーの雲が覆いました。出エジプト24:15〜18。山の下にいる民には、光で炎が燃えるように見えたそうです。イエス様と弟子たちが一緒に高い山に登った時、光る雲の中で変貌したイエス様の姿を見ました。マタイ17:1〜5。シェキナー、神様の栄光が満ちたのです。ですから、私たちが、神様の臨在を覚えて真実に礼拝をささげる時、神様の栄光が覆い、聖霊が私たちを満たしてくださいます。
ある女性が、同じ年くらいのクリスチャン女性と知り合いになり、他の人には見られない非常に素晴らしいものを感じました。それがきっかけで教会に行くようになり、クリスチャンになりました。その人から輝き出る何かを感じたと証ししていたそうです。その人から救いの恵みがあふれて、周りの人にも、主の栄光、シェキナーが感じられたのです。心の内に聖霊が住んで、満たされるようになると、神の子どもとしての性質が輝き出し、神様の愛と恵みが周りの人々にも及ぶのです。
V−古い契約と新しい契約 贖いの恵みに応答する−21
なぜ、この箱を契約の箱というのでしょうか。十戒を納めているからです。神様の御言葉に聞き従い、守り行うなら、民を守り、導き、罪を赦して救ってくださるという約束されたからです。出エジプト43:27〜28。ここでも、「その契約は、主が、私たちの先祖をエジプトの地から連れ出されたときに、彼らと結ばれたものである」と説明されています。21節。
この旧約時代の契約は、古い契約と呼ばれています。旧約時代の祭儀は、「小羊の血によって裁きが過ぎこされた」という出エジプトの出来事がもとになっています。出エジプト12:23〜24。こうして、小羊の血をささげる祭儀をすることで、民は、罪の赦しが必要なことと、血の代償がなければ、罪の赦しを受けることができないことを学びました。しかし、ささげ物といけにえは、礼拝する者の良心を完全にすることはできませんでした。ヘブル9:9〜10。彼らは、繰り返し罪の赦しのためにいけにえをささげなければなりませんでした。新しい契約が立てられるまでのことです。
旧約聖書においても、新しい契約を結ぶ預言がされていました。エレミヤ31:31。救い主イエス様が来られて、「いけにえの血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、永遠の贖いを成し遂げ」てくださいました。ヘブル9:9〜10。神の御子であるイエス様が世に来られて、ご自身が罪の赦しのために犠牲のいけにえとなられて、血を流されたのです。新しい契約は、神様と御子の間で結ばれたものです。誰でも、このイエス様を信じるならば、罪の赦しを受け、救いを与えられます。
人が契約と口で言ったのであれば、とても軽いものになってしまうでしょう。しかし、聖書に出て来る契約は、とても重みがあるものです。契約というヘブル語ベリースとは、「血の契約」と言われたもので、これを破れば死ななければなりませんでした。ところが、これは、誰かが代わりに負うこともできました。そこで、イエス様が最も悲惨で途轍もなく苦しい十字架の死をもって、私たちの罪の身代わりとなってくださいました。それだけ人の罪に対する御怒りの裁きが大きかったのです。これを信じるならば誰でも、その契約の効力を受けることができます。
このような素晴らしい救いを知って、人はどう応答するでしょうか。重要なことは、この恵みの契約を受け取るということです。すべての人間は、世に生まれて来て、一つの責任を持つことになります。神様が人間に驚くべき人格と知性を与えられたのは、ただ世でお金を稼いだり、肉の欲を満足させることではありません。人は誰彼を問わず、必ずこの世に生きている間、神様をさがして救いの道を探求しなければなりません。
人はどういう存在なのでしょう。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」というのです。人は誰でも、一度は死ぬようになっています。そのまま死んだら、裁きが臨みます。人生に神様がなく、欲心の思うまま罪の人生を生きた結果、人には罪に対する恐ろしい裁きとのろいがあるというのです。ヘブル9:27。
ですから、誰でも世に生きて優先的にしなければならないことは、自分のたましいの救いを受けることです。イエス様が私たちの身代わりにご自身を犠牲としてささげられたゆえに、いつでも信じる告白をすれば、救いの恵みと祝福を受けることができます。そして、私たちが、救われた者として救いの主の栄光を輝かせながら、自分自身を生きた供え物としてささげて生きることを主は喜んでくださいます。ローマ12:1。
T列王記8:1 そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから【主】の契約の箱を運び上るためであった。
8:2 イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに、ソロモン王のもとに集まった。
8:3 こうして、イスラエルの長老全員が到着したところで、祭司たちは箱をにない、
8:4 【主】の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具とを運び上った。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上った。
8:5 ソロモン王、そして彼のところに集まったイスラエルの全会衆が彼とともに、箱の前に行き、羊や牛をいけにえとしてささげたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできなかった。
8:6 それから、祭司たちは【主】の契約の箱を、定めの場所、すなわち神殿の内堂である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。
8:7 ケルビムは箱の所の上に翼を広げた。ケルビムは箱とそのかつぎ棒とを上からおおった。
8:8 そのかつぎ棒は長かったので、棒の先が内堂の前の聖所から見えていたが、外からは見えなかった。それは今日までそこにある。
8:9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、【主】が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。
8:10 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が【主】の宮に満ちた。
8:11 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が【主】の宮に満ちたからである。
8:12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
8:13 そこで私はあなたのお治めになる宮を、あなたがとこしえにお住みになる所を確かに建てました。」
8:14 それから王は振り向いて、イスラエルの全集団を祝福した。イスラエルの全集団は起立していた。
8:15 彼は言った。「イスラエルの神、【主】はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた。
8:16 『わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』
8:17 それで私の父ダビデは、イスラエルの神、【主】の名のために宮を建てることをいつも心がけていた。
8:18 ところが、【主】は、私の父ダビデにこう仰せられた。『あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、あなたはよくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。
8:19 しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のために宮を建てる。』
8:20 【主】は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、【主】の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、【主】の名のために、この宮を建て、
8:21 【主】の契約が納められている箱のために、そこに一つの場所を設けた。その契約は、主が、私たちの先祖をエジプトの地から連れ出されたときに、彼らと結ばれたものである。」
詩篇61:3 まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。
61:4 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。
91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
出エジプト12:23 【主】がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、【主】はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。
民数記9:15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
ヘブル9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、
9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
ヘブル9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
ヘブル9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
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