2016年10月23日「祝福の条件」T列王記9:1〜28
序−人は、何か事を成すことができたら、達成した、完成したと思います。しかし、そのことから恵みや祝福を受けるとは限りません。大事なことを忘れて、別なことに力を注いでいたということがあります。私たちはどうでしょう。神殿奉献式の時ソロモンが受けた主の言葉から学びます。
T−ソロモン王20年の事績−1〜2
ソロモン王は、ついに神殿と王宮の建築をすべて成し遂げました。1,10節。神殿建築に7年、王宮その他に13年、合わせて20年間かけての大プロジェクトの完成でした。T列王6:38,7:1。ソロモン王にとって、人生最高の時、得意の絶頂の時ではなかったでしょうか。人が何かを仕上げることに心を注ぎ、長い期間をかけて成し遂げることができたら、その喜びは大きく、もう人生を得たように思うことでしょう。
ところが、驚くべきことに、人が称賛し、認めてくれる大変な業績も、神様が喜ばれるとは限りません。祝福してくださるわけではありません。神様がソロモン王に期待しておられたことは、このような派手な建築物ではありませんでした。そのような外的なものではなく、霊的復興、信仰の刷新でした。神様にとっては、天幕のままであろうと派手な神殿になろうと、変わりはありません。神様が求められるのは、神殿そのものではなく、そこで礼拝する民の心なのです。神の民が、傷付いた心をもって神様の御前に出て、罪をなげき、あわれみを求めることを喜ばれるのです。
しかし、この時のソロモンは、神殿と王宮を完成することができて大満足、そんな思いはなかったでしょう。私たちの教会が、18年前古びた借家を後にして、この会堂に移って礼拝をささげた時の感激は、大変大きいものでした。教会に対する地域の目も違って来ました。しかし、神様が望まれることは、古びた借家であろうと派手な神殿であろうと、その中で涙を流しながら熱心に神様を求める礼拝です。ソロモンの壮麗な神殿は、かえって信仰が後退する危険をはらんでいたのです。昔のような素朴な信仰ではなく、他のことに心が向くようになる危険があるからです。
ソロモンは、ここでとても重要な誤解をするようになります。それは、このような派手な建造物を建てることで、民が自分の統治に従うことを願うことです。神の民の王が民から尊敬を得ようとするなら、派手な王宮を建てるより、民に神様の御言葉を教え、恵みを受けるようにさせなければなりません。神の民は、信仰の恵みを受けるならば、王の支配に服従する民です。結局、ソロモン王が20年間かけてしたことは自分のためでした。後の歴史を見るならば、ソロモン王は、この20年間、あまりにも外的なことに力を入れて、重要な時間を浪費してしまったということになります。私たちも、ソロモン王の轍を踏まないようにしなければなりません。
U−神様の祝福の条件−3〜5
そこで、この時神様がソロモンにあらわれてくださいました。2節。最初ギブオンで神様がソロモンにあらわれた時、父ダビデ王が神様の祝福を受けたのは、「誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだ」とソロモン自身が告白していました。それをすっかり忘れていたソロモン王に対して、それでも神様は神殿の奉献を喜んで受け入れてくださいました。3節。ソロモンは、どれほど感謝したことでしょう。的外れのソロモンの思いや労苦を受けてくださった神様のあわれみや優しさです。
神様が「わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」と言われたのは、礼拝をささげる民の心をご覧になられ、その祈りを聞かれるということです。神様が重要視されるのは、礼拝をささげる人だということです。神様が最も重要視される人は、恵みを受けようとする人であって、罪を捨てて、新しい信仰の決断をする人です。困難の中で神様の御前に出て、あわれみと祝福を祈る人です。主は、私たちの心を見て、祈りを聞かれます。
神様は、肝心なことを忘れたソロモンのために、神様の恵みを受ける条件を教えました。4〜5節。神様の祝福を受ける条件は、派手な神殿を建てることではなくて、御言葉に聞き従うことだと明言されました。あまりにも当然なことです。なぜなら、神の民の存在も、そこにあるからです。
それでは、イスラエルの王と民が神様の祝福を受けることができるようにするためには、何をしなければなりませんか。何よりも重要なことは、民の中に御言葉が豊かに流れるようにすることです。王自身が神様から御言葉を聞いて伝え、民が信仰に生きるようにさせることです。「父ダビデが歩んだように」とあるように、ダビデがしたことがまさにこれです。ダビデは、逃げ回りながら、戦争しながら、従って来る人々に絶えず神様の御心を伝えました。彼の側近や将軍たちは、ダビデから御言葉の恵みを受けた者たちでした。それによって、皆の心が1つとなり、信仰に固く立って王国を築いて行きました。神様がソロモンに求められたのは、ダビデのように「全き心と正しさをもって」つまり、誠実な心で神様の前に歩むことでした。原文の全き心とは、誠実な心という意味です。
これは、何か高い基準が要求されているわけではありません。ダビデは失敗する人でした。罪の多い人でした。躓きも与えました。それでも、立ち上がって神様の御前に来て罪を告白し、神様と交わることを願い、御言葉に喜んで聞き従いました。神様に対する純粋な思い、誠実な心がありました。ダビデの詩篇を見ると、何よりもダビデが神様の御前に誠実に歩むことを願い、努めていたことが分かります。詩篇26:1〜4。これが、すべての神の民に求められるスタンダードです。
神の民の王がしなければならないことは、ダビデ王の道を歩むことです。すべての民を説得して、神様の御言葉に聞き従うようにすることです。王自ら誠実に歩み、一緒に御言葉に聴き従って生きてみようと民を説得するなら、みな付いて来るようになるでしょう。王は、民一人一人が神様に出会い、恵みを受けるように助けてあげる役割をするのです。ですから、私たちも、まず自分がたどたどしくても誠実に御言葉に聞き従う人生を生きながら、周りの人々に一緒に歩んでみようと誘うことです。そして、イエス様を信じる幸いな道へ導こうとして行くのです。
V−空しい歩みから祝福の歩みへ−6〜7
しかし、反対に、イスラエルの民が神様にそむいて従わず、偶像に仕えるならば、立派な神殿を建てたにもかかわらず、滅びることになると警告されました。6〜7節。どうして、神の民が偶像やほかの神々に仕えるなと言われるのでしょうか。神の民なら、そんなことしないのではないですか。なぜ、神の民があえて偶像に仕えて、滅ぶ道を選ぶのでしょうか。
それは、私たちの内にある肉の欲が、絶えず神様の御言葉を拒むようにさせるためです。人が持っている最も強力な欲は、自分の肉の思いのまま生きようとすることです。これがどんなに強力なことでしょうか。ローマ8:5〜7。肉に従う者は、肉の思いで考え、肉の思いで話し、行動するのです。そのような肉の自分が死んで、御言葉に聞き従うことが神様の祝福を受ける道だと言われるので、従いたくないのです。御言葉に従うことを嫌い、聞こうとしないのです。当然、そこには祝福も恵みもありません。
他の国々との交流が進んで行くと、外国人がイスラエルの信仰の噂を聞いて神殿に来るだけでなく、彼らの偶像崇拝の影響を受ける危険も増えて行きます。ソロモンが王として、外交関係においてこの危険性にさらされて行きます。私たちが、世で人々と交わりながら生きて行く時、私たちから信仰の恵みが流れて行くことだけでなく、有形無形の偶像に囚われる危険と罪に従う価値観の影響をもろに受けることになります。
むしろ、神の民が様々な患難を受けるのに、偶像を拝む国々が繁栄していると、我々も彼らのように生きてみたいという誘惑が、絶えず彼らの心の中に起こるのです。神の民が確信しなければならないことは、自分は偶像や肉の原理とは違う価値観に生きて行く者だということです。ローマ8:2〜4。難しいと思うかもしれませんが、実は、私たちはすでにできるようにされているのです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、イエス様の十字架を信じる者を肉の原理から解放してくださったからです。私たちを新しくしてくださるイエス様を信じてください。
偶像に仕え、肉の原理に生きるなら、神の民の祝福はありません。やがて8〜9節のことが、イスラエルの歴史に起こることになります。ソロモンは、神殿や王宮の他に、領土の拠点拠点に城塞都市を建設しています。15,19節。イスラエルを守るのは神様の御力だということを忘れています。ですから、御言葉から外れて、世的な方法で、人間的な力で国を守ろうとしたのです。不安をなくそうとして城や城壁をいくら築いても、きりがありません。現代の神の民も同じです。私たちは、何で自分の人生を守ろうとしていますか。人生に何を築こうとしていますか。
神の民は、最後まで御言葉の原理を信じなければなりません。私たちの受ける祝福の元は、御言葉に聞き従うことにあるからです。大事なことは、私たち一人一人が誠実に御言葉に聞き従って生きることです。イエス様の十字架の救いを信じるなら、いのちの御霊の原理によって、罪と死の原理から解放されるのです。ローマ8:2〜3。信じて、御霊の原理で生きようとするならば、奇跡が起こります。私たちが誠実に素直に御言葉に聞き従おうとするならば、あふれんばかりに祝福してくださいます。神様のくださる恵みによって生きようではありませんか。Uコリント1:12。
T列王記9:1 ソロモンが、【主】の宮と王宮、およびソロモンが造りたいと望んでいたすべてのものを完成したとき、
9:2 【主】は、かつてギブオンで彼に現れたときのように、ソロモンに再び現れた。
9:3 【主】は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。
9:4 あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、
9:5 わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。
9:6 もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、
9:7 わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。
9:8 この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、【主】はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう』と言うであろう。
9:9 すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、【主】を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、【主】はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ』と言うようになる。」
9:10 ソロモンが【主】の宮と王宮との二つの家を二十年かかって建て終わったとき、
9:11 ツロの王ヒラムが、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および、金をソロモンに用立てたので、ソロモン王はガリラヤの地方の二十の町をヒラムに与えた。
9:12 しかし、ヒラムがツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、それは彼の気に入らなかった。
9:13 それで彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれた。今日もそうである。
9:14 ヒラムは王に金百二十タラントを贈っていた。
9:15 ソロモン王は役務者を徴用して次のような事業をした。彼は【主】の宮と、自分の宮殿、ミロと、エルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを建設した。
9:16 ──エジプトの王パロは、かつて上って来て、ゲゼルを攻め取り、これを火で焼き、この町に住んでいたカナン人を殺し、ソロモンの妻である自分の娘に結婚の贈り物としてこれを与えていたので、
9:17 ソロモンは、このゲゼルを再建した──また、下ベテ・ホロンと、
9:18 バアラテ、およびこの地の荒野にあるタデモル、
9:19 ソロモンの所有のすべての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々、ソロモンがエルサレムや、レバノンや、すべての領地に建てたいと切に願っていたものを建設した。
9:20 イスラエル人でないエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民全員、
9:21 すなわち、イスラエル人が聖絶することのできなかった人々の跡を継いで、この地に生き残った彼らの子孫を、ソロモンは奴隷の苦役に徴用した。今日もそうである。
9:22 しかし、ソロモンはイスラエル人を奴隷にはしなかった。彼らは戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊と騎兵隊の長であったからである。
9:23 ソロモンの工事を監督する者の長は五百五十人であって、工事に携わる民を指揮していた。
9:24 パロの娘が、ダビデの町から、彼女のために建てた家に上って来たとき、ソロモンはミロを建てた。
9:25 ソロモンは、【主】のために建てた祭壇の上に、一年に三度、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげ、また、【主】の前にある壇で香をたいた。彼は宮を完成した。
9:26 また、ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にあるエラテに近いエツヨン・ゲベルに船団を設けた。
9:27 この船団に、ヒラムは自分のしもべであり、海に詳しい水夫たちを、ソロモンのしもべたちといっしょに送り込んだ。
9:28 彼らはオフィルへ行き、そこから、四百二十タラントの金を取って、これをソロモン王のもとに持って来た。
T列王3:5 その夜、ギブオンで【主】は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
詩篇26:1 私を弁護してください。【主】よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、【主】に信頼したことを。
26:2 【主】よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。
26:3 あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。
26:4 私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。
Uコリント1:12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです
8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
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