2017年1月15日「経験による備え」T列王記17:1〜24

序−体験と経験は似ているようで違いがあるようです。体験は自分が身をもって感じるところに重点があるのに対し、経験はそれによって得られた知識や技能を指し、物事の本質を見極めさせます。苦しい辛い体験で終わるのか、自分を成長させる経験になるのか、今日の箇所から学びます。

T−ミッションの備えのために−2〜7
 16章で学んだように、北イスラエル王国は、アハブ王とイゼベル女王が登場し、偶像バアルを蔓延させました。神様は、そこに預言者エリヤを送ってくださいます。1節。北イスラエルからバアルを取り除き、民を主のもとに立ち返らせるというミッションのためです。そのために、「2,3年の間は露も雨も降らない」という主の言葉をアハブ王に伝えました。
 王宮に行って、天気予報を伝えたわけではありません。雨が降るようにエリヤが祈ることがなければ、雨は2,3年降らないという神様の御言葉を伝えたのです。バアルとは、雨を降らし、豊穣をもたらす偶像として崇拝されていましたから、雨が降らないというのは、偶像バアルを拝んで悪を行うアハブ王たちを戒めるためでした。
 怪物のような王と女王を前にこんな戒めを言えるなんて、エリヤは大胆に物が言える強い人なのだなと思われるでしょう。いいえ、そうではありません。「私たちと同じような人」と強調されています。ヤコブ5:17。ですから、すぐに王宮から去って身を隠すように命じられます。3節。身を隠している間に、神様は彼を経験という訓練を通して整えてくださいます。私たちも、様々な出来事を通して、経験という訓練を受けています。
 逃げたヨルダンのケリテ川でこんな体験をします。3〜5節。王から逃げているエリヤを誰も助けてくれる人はいません。それでも、神様は、エリヤに川の水を飲ませ、カラスによってエリヤを養わせてくださいました。カラスは、死肉を処理する不潔な動物です。人が苦しい時は、生易しい状態ではありません。でも、そういう生きることができるかつかつの状態でもって、神様が守ってくださることを経験することになります。
 苦しい中にいる人々のために命を賭けて助ける働きへと彼を整えてくれます。小川の水を飲むというのは自然の方法です。自分でできることは、努めてするということです。しかし、烏に食べ物を運ばせるというのは神様の業です。神様は、私たちの考えも及ばないことを通して私たちを守り、養ってくださることもあるでしょう。
 神様はしばしば、ぎりぎり耐えられる、かつかつ生きることができるという中で私たちを守り養うことで、訓練されます。私たちがどうしてこんな目に会うのか、あのために苦しめられた、と恨みつらみの思いだけなら、それはただ苦しい体験ですが、その意味を知り、そこから神様の守りと導きを受け取ることができれば、素晴らしい霊的成長の経験となります。
 王を戒めるというドラマチックな登場をしたエリヤが、川の水を飲み、カラスの落とすものを食べて生きる状況で、挫折感に陥る可能性もありました。しかし、人は挫折感から様々なことを学び、先の働きのための経験とすることができます。失敗から学ぶこともたくさんあります。考え、学んだことを身に付けることができれば、失敗も益です
 私たちが苦しい辛い出来事に出会っている荒野の期間、信仰によって受け止め、神様の導きを求めて行くなら、その経験を通して主の訓練を受けるようになります。神様は、いつも神の人を荒野で訓練されます。モーセを荒野で訓練されました。使徒パウロもアラビヤの砂漠で2年間過ごしました。今、神様はエリヤという預言者が、預言者としての働きに必要なことを備えるために、経験を通して訓練しておられるのです。
 しばらくすると、川の水が涸れて来ました。7節。自分の命を支えていた川が、涸れかけています。彼には何もありません。御言葉がなければ、涸れかけた川のようです。イエス様は言われました。ヨハネ4:13〜14。命の御言葉がないなら、私たちも涸れた川です。たましいが涸れていませんか。イエス様は、救いを通して涸れたたましいに命の水を与えてくださいます。イエス様を信じてください。

U−空の壺 体験から経験へ−8〜16
 その時、神様はエリヤを移動させます。8〜9節。国外へ逃れさせ、そこでやもめに出会わせます。今度はやもめに養わせるというのです。ところが、出会って水と食べ物を頼んでみれば、最後の食事を作って、一人息子と死のうとしていた絶望の人でした。10〜12節。この人は、神様のことをよく知らなくても、信仰のある人でした。神様は、このようなやもめに預言者を使わしてくださいました。
 最後の食事を作ろうとしていたのに、エリヤのために作って持って来なさいというのです。13〜14節。やもめにとって、エリヤの言うことは、あまりにも酷でした。ただし、エリヤは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならないというのです。最後の食事をして死ぬのか、それを放棄して神様の御言葉を信じるのか、やもめは選択を迫られました。やもめが選んだのは、神様の御言葉でした。
 神の民であるべき北イスラエルの人々には、そのような信仰がありませんでした。イスラエル人がシドンからもたらされた偶像バアルに囚われ、シドン人のやもめがイスラエルのまことの神を信じました。何もない、他に頼るべきものがないやもめだからこそ信じたのでしょう。望みを持って御言葉をつかみました。最期の食事でもないのに、御言葉をつかまないで、別のあれこれをつかんでいないでしょうか。このやもめは、御言葉を信じて、従いました。そこに、神様の奇跡が起こります。15〜16節。これが、まことの神様の恵み、聖霊の力です。
 それを見て、エリヤは、危機の中で御言葉をつかむことが、命をつかむことになると体験しました。経験は、自分のことでなくても、有効です。御言葉が、信じる私たちを生かすようになります。ここで、もう1つの必要な訓練を学びます。私たちは、ほんの一握りの粉の入った壺だということです。私たちの中に命の水、命のパンが入れられるまで、私たちには何もないような者です。Tコリント1:27〜28。私たちも、この世の弱い者、取るに足りない者、見下されている者です。何もなかったのに、イエス様を信じて御言葉をつかんで行く時、主の恵みと祝福はなくならないのです。空の器なのに、救いの光りが輝き出るようになるのです。Uコリント4:7。

V− −17〜24
 私たちがよく体験することに、1つ問題が解決したと思ったら、その後もっと困難なことが起こるということがあります。このやもめにとって、最後に残った食料を食べて死のうとしていたのが、一転飢えることがなくなるという恵みに浴することになりました。それなのに、もっと厳しい辛いことが起こります。なくならない食材は、やもめにとって、ラッキーな体験止まりだったようです。心から神様に拠り頼むという信仰ではありませんでした。神様が自分を愛しておられる体験にはなりませんでした。
 その後、大きな患難がやもめに訪れました。17節。何と最愛の息子が病気で死んでしまったのです。やもめのショックはいかばかりだったでしょうか。どうして、なぜと心乱れて、考えました。18節。自分の過去の罪のせいかと考えたのです。おそらく過去に良くない出来事があったのでしょう。その息子に関係したことかもしれません。それを知らせて、私を罰するために預言者が送られたのかと考えてしまったのです。
 それならば、なぜ飢え死にするのを中途半端に助けたのか、と恨みつらみを言うのです。人は、何か困ったことを助けられた、願い通りになったでは、ご利益のレベルに止まることが多いです。神様の愛がどんなに大きいかを信じることができません。でも、御子イエス様を十字架に渡されるほどだということが分かって、体験するならば、確かな信仰となります。
 エリヤは、三度も子どもの体に触れながら祈りました。20〜21節。エリヤが必死になって祈ると、神様はその子を生き返らせてくださいました。22節。イエス様は、手を置いて祈って癒してくださいます。ルカ4:40。今日、人は、イエス様に触れていただく必要があります。私たちは、失われた罪人です。罪の中に死んでいた者です。私たちがイエス様を信じたのなら、イエス様とともに十字架で死んだと言うことができます。しかし、イエス様は死からよみがえられました。そして、私たちもイエス様と共に新しい命によみがえらせてくださいました。ガラテヤ2:20。
 子どもが生き返った時、やもめは「主のことばが真実であることを知りました」と告白しました。24節。神様の愛とあわれみに満ちた救いを経験して、証ししました。これを聞いたエリヤも御言葉が真実であること、どんな状態でも御言葉に信頼して、祈って行うことを経験しました。御言葉の分かち合いは、信仰の経験を共有することになります。エリヤは、このような経験を通して、対アハブ、バアルに備えることになります。
 マルチィン・ルターがかつて言いました。人が自分には何もないということを悟るまでは、神様は彼を用いることはできない。エリヤは、ケリテ川での養いややもめの養いという経験を通して、自分には何もなくても神様を信頼すること、絶望の中でも御言葉をつかむこと、そうする自分を神様が用いてくださることを学びました。私たちもそのように、様々な経験を通して整えられ、霊的に成長し、用いられますように願います。



T列王記
17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
17:2 それから、彼に次のような【主】のことばがあった。
17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
17:5 それで、彼は行って、【主】のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。
17:7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
17:8 すると、彼に次のような【主】のことばがあった。
17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
17:14 イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
17:19 彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。
17:20 彼は【主】に祈って言った。「私の神、【主】よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、【主】に祈って言った。「私の神、【主】よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
17:22 【主】はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。
17:23 そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」
17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある【主】のことばが真実であることを知りました。」



ヤコブ5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

ヨハネ4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

Tコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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