2017年2月12日「貪りから悔い改めへ」T列王記21:1〜29
序−西郷隆盛が、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人でなければ」と言っていましたが、そのような人ナボテとアハブ王の対比から、人の貪りについて学びましょう。
T−ナボテとアハブ−1〜6
はじめの「このことがあって」と言われているのは、アラムとの戦いで勝利しながら、騙されてアラム王を逃がしてしまった事件です。宮殿に帰って来たアハブ王は、騙されたと実感し、後悔したことでしょう。強欲なアラムの王ベン・ハダデが言っていたように、自分も「アラム王のものすべては私のものだ」と言うこともできたのに、悔しいという思いが生じてきたようです。アハブ王の貪欲に火がつきました。
そんな思いで宮殿の窓から外を見ると、素晴らしいぶどう畑が目に入りました。どうしても、あのナボテの畑が欲しいという欲求がわいて来たのです。欲しいと思ったら、ますます良く見えて来て、どうしても手に入れたいという思いになりました。素晴らしい畑は他にも多くあったはずです。いや、すでに王様は良い畑を多く所有していたはずです。
なぜナボテのぶどう畑を欲しがったのでしょう。そうです。足ることを知らなかったのです。宮殿から見えるところにナボテのぶどう畑があったからです。私たちの欲望を誘惑するものが私たちの近くに、目に見えるところにたくさんあります。ですから、私たちは、自足することを学ばなければならなりません。足ることを知るのは、神様が私たちに与えられた分だけでもって満足することを学ぶことです。ピリピ4:11〜12。一度だけ知ってはだめなので、繰り返し学ぶことが必要です。足ることがないから貪りに陥ります。
私たちも、様々なものを欲しがります。何かを手に入れたいと計画します。しかし、その時それが自分に必要なのか丁寧に考えなければなりません。さらには、それを持って神様を喜ばせることができるのかを考える必要がある場合もあるでしょう。しかし、多く人たちは、自分に必要というより、ただ欲しいから好きだからということで手に入れようとします。アハブにナボテのぶどう畑が必ずしも必要ではありませんでした。しばしば貪欲は目に見えるところに生じるのです。人は、目に留まった商品にとらわれたり、隣の芝生が気になったりするのです。
一方ナボテは、そのぶどう畑を譲ってくれ、よりもっと良いぶどう畑をあげる、相当の代価もはらう、と言われても、売りませんでした。3節。考えてみてください。逆にこれはチャンスです。もっと広い良いぶどう畑を手に入れるチャンスであり、大金をつかむことができるかもしれません。王様に取り入ることもできたでしょう。欲を満足させる絶好の機会でした。天下も取ることができたと言われた軍師黒田官兵衛は、我人に媚びず、富貴を望まずと言いました。ナボテは、自分のために富を求めることをしませんでした。欲を満足させようとはしませんでした。T列王3:11。
ナボテは、神様から与えられるもので足ることを知る人でした。神様から与えられた地、先祖のゆずりの地を守り、次の世代に受け継ぐことを使命としていました。私たちも、それぞれ神様から受けたもの、神様から与えられた賜物を大事にしたいのです。まさに、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也です。こんなナボテにアハブ王は、始末に困りました。ナボテの返答を聞いて、心さされることもありませんでした。欲しいものが手に入らず、がっかりして、ふて寝するしかありませんでした。4節。よっぽどがっかりしたようです。
U−むさぼりという偶像礼拝−7〜16
アハブが抱いた欲心、むさぼりは、どうなるのでしょうか。欲がはらんで罪を生むと言います。ヤコブ1:14。貪りが、偶像礼拝だというのです。コロサイ3:5。ですから、ことはそれで終わりとはなりませんでした。不機嫌で、食事をしないということが、貪りを引きずっているからです。そのようなアハブ王の様子を見て尋ねたイゼベルは、アハブ王がナボテにぶどう畑を譲ってくれるように頼んだが、断られたことを聞きました。5〜6節。
ナボテの拒絶は、イゼベルの高慢に火をつけました。イゼベルは、あなたは支配者ではないかと王をたしなめ、王に盾突いたナボテからぶどう畑を取上げてやると言うのです。7節。これが、支配的、強権的なイゼベルの反応です。悪賢いイゼベルは、悪巧みを企てます。王に盾突いたナボテをやっつけて、ぶどう畑まで取上げる方法です。8〜13節。
偽証させて、殺させてしまうとは、何と酷い方法でしょうか。悪巧みを企てたイゼベル、事の発端を作ったアハブ、実行した町の長老・有力者たちが、この不条理な残忍な犯罪に関わりました。まさに欲がはらむと罪を生むこととなりました。どうして、欲心を持つと、ここまで進むのでしょうか。貪りが偶像礼拝だからです。偶像礼拝は、心の中の貪りが形となってあらわれたものであり、偶像礼拝の本質は、貪りにあるのです。神様を愛し、敬い、主として従うよりも、自分が主となって、自分の願いを偶像に叶えさせようとします。貪りを増大させます。
偶像バアルがイスラエルで流行したのは、バアル礼拝が物質的にもっと豊かになりたいという欲望に基づいたものだからです。物質的に満たされることを願う人々には、もってこいだったのです。救われた者でも、貪りという目に見えない偶像には引き込まれやすいです。ピリピ3:18。あのバックや洋服がほしい、あの人のように認められたい、あれをどうにかして手に入れたい、そんな思いが貪りという偶像に簡単になりやすいのです。
誰にとっても、欲はあります。欲求は悪いものではありません。欲求も意欲もなければ、向上も発展もありません。でも、それが高じて貪りとなると私たちの心をとらえ、支配します。私たちにとって、貪りという偶像になっているものはありませんか。貪りは、十戒の1つでもあります。出エジプト20:17。それに、神様の戒めに背く小さな罪を問題にしているのではなく、他の戒めと並ぶ1つとしてではなく、それらの戒めに背いてしまう私たちの心の奥底にある思いを問題にしているのです。
使徒パウロは、貪りを罪の代表として取上げています。ローマ7:7。嫉妬だって、人に対する貪りの思いから生じたものであり、買い物の貪りがカード破産に至り、貪りが高じて殺人にまで至ります。消費社会では、貪欲の追求こそ経済を発展させるものと歓迎され、今や社会は、貪りの氾濫、野放し状態だと言えます。その貪りが、個人の生活を破綻させ、国同士の争いを引き起こしています。
V−悔い改めるなら−17〜29
さて、先の引用聖句に「欲がはらむと罪を生み」とありましたが、その続きには「罪が熟すると死を生みます」とあります。ヤコブ1:15。コロサイ3:6にも、「神の怒りが下る」とあります。はたして、ナボテの死後、ぶどう畑を手に入れようとしていたアハブの所に、エリヤが来て、神様の裁きを伝えました。17〜24節。
あのエリヤが完全に復活して登場し、アハブ家の凄惨な最後を警告しています。繰り返し悔い改めのチャンスを無にしていたアハブ王は、この警告を聞いた時はどうでしょうか。何と、今度は悔い改めました。27節。エリヤの猛烈な警告を聞いた時、アハブ王は、服を裂いて、荒布を身にまとい、断食しました。アハブは、悔い改めて、神様の赦しを請うたのです。
ついに悔い改めて、赦しを求めて来たアハブに対して、神様は恵みとあわれみを施されます。29節。裁きを猶予してくださいました。その間に悔い改めが進み、次の世代まで伝えられたならば、裁きも取り去られたでしょう。しかし、人はこのような神様のあわれみを見ると、話しにならないというのです。なぜ、こんな悪い王様がちょっと悔い改めただけで赦されるのだ、ナボテは殺されたのに、不条理だと騒ぐのです。ヨナも、ニネベの人たちを赦す神様を話しにならないと憤慨しました。
しかし、ヨナもニネベの人たちと同じ不従順な者であり、私たちもアハブと同じあわれみを受ける資格のない者です。私たちにも貪りがあります。私たちも、貪るなと言われて、貪りに気づきます。実際にしていることが貪りから発していることがあります。貪りにとらわれているのに、貪りに翻弄されているのに、何を分からない者です。ローマ7:7-15。その点では、アハブと変わりません。貪りが偶像礼拝になるのは、神様をないがしろにし、自分が主人となって自分の思い通り生きようとするからです。
私たちは様々な貪りにとらわれています。ですから、「私は貪りにとらわれているみじめな人間です。だれが私を救い出してくれるのでしょう」という叫びにつながります。ローマ7:24〜25。そして、主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝しますという転換へつながるのは、イエス様の十字架によって罪の赦しを与えられ、復活の命を与えられたことによります。ここに貪りからの解放へと扉が開かれて行くのです。
最後に、貪りによって滅びに向かう姿と反対の姿を「主によってありえないこと」と言って主の御言葉を取って死んで行ったナボテの姿に見ることができます。地上の目には幸いとは見えないかもしれませんが、御言葉に従うことで得られる平安と希望は計り知れないものであり、幸いな人生だったと言えます。「どちらが得か、自分の欲を満足させるか」という基準ではなくて、「どちらが御言葉に忠実であるか」が私たちの基準です。
T列王記
21:1 このことがあって後のこと。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった。
21:2 アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」
21:3 ナボテはアハブに言った。「【主】によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」
21:4 アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家に入った。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。
21:5 彼の妻イゼベルは彼のもとに入って来て言った。「あなたはどうしてそんなに不きげんで、食事もなさらないのですか。」
21:6 そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うからあなたのぶどう畑を譲ってほしい。それとも、あなたが望むなら、その代わりのぶどう畑をやってもよい』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません』と答えたからだ。」
21:7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」
21:8 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。
21:9 手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、
21:10 彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」
21:11 そこで、その町の人々、つまり、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言いつけたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりを行った。
21:12 彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせた。
21:13 そこに、ふたりのよこしまな者が入って来て、彼の前にすわった。よこしまな者たちは民の前で、ナボテが神と王をのろった、と言って証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。
21:14 こうして、彼らはイゼベルに、「ナボテは石打ちにされて殺された」と言ってよこした。
21:15 イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが、あなたに売ることを拒んだあのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」
21:16 アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。
21:17 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような【主】のことばがあった。
21:18 「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。
21:19 彼にこう言え。『【主】はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『【主】はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」
21:20 アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切って【主】の目の前に悪を行ったので、私は見つけたのだ。
21:21 今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、
21:22 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。
21:23 また、イゼベルについても【主】はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』
21:24 アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」
21:25 アハブのように、裏切って【主】の目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。
21:26 彼は偶像につき従い、【主】がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。
21:27 アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。
21:28 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような【主】のことばがあった。
21:29 「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」
T列王3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
ピリピ4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。
4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
コロサイ3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。
3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
コロサイ3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
ローマ7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
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