2017年3月19日「主に栄光を帰して」エペソ1:15〜19
序−私たちは、よくイエス様によって救われた感激で十分だと考えます。しかし、救いを受けたことで終わりではありません。救われた私たちは、神様のものとなり、神の子という新しい身分が与えられました。大変な変化ですから、生き方も変わるようにと執り成し祈っています。
T−信仰の姿に感謝−15〜16
まず、使徒パウロは、エペソの聖徒たちに対して感謝しています。15〜16節。パウロは、今ローマの獄中でこの手紙を書いています。どこよりも長くエペソ教会で働き、ツラノ書院で情熱を込めて御言葉を教えました。今パウロがいない困難の中でもよく信仰を守り通し、愛で一つとなりました。遠い監獄の中に閉じ込められていたパウロは、そのニュースを聞いて感激したことでしょう。
パウロは、エペソ教会のために熱心に祈りました。霊的に成熟した教会になるように執り成しました。聖徒たちが、イエス様に似た者と造り変えられると祈りました。使徒パウロは、よく執り成しの祈りをしました。自分が出会った人々のために祈るだけでなく、間接的に聞いた聖徒たちのためにも、執り成し祈りました。おそらくパウロは祈りのノートみたいなものを持っていたのではないでしょうか。祈りが自分のことだけでなく、他の人のことを祈ると、祈りの領域や内容がはるかに広まって行きます。
ここで祈っているのが、聖徒たちの信仰と愛への感謝です。パウロは、人と接する際に人々の肯定的な面を取り上げているようです。ところが、世では、他の人の否定的な面や欠点や弱点を見つけるのがうまい人々がいます。このような人々の前ではとても緊張するし、息苦しさも覚えるでしょう。しかし、私たち自身も、否定的なことに心奪われ、しばらくそのことばかり考え、話してしまうことがあります。
信仰は救われるだけでなく、主のもの神の子らしく変えられて行きます。私たちは、信仰の成熟過程にいるのです。信仰が成熟して行けば行くほど、人の中にある肯定的なものを見るようになります。人が持っている肯定的な面、その人の良さを見る時、その人と心を開いて交わることができるようになります。他の人の否定的な面や欠点ばかり見ないで、その人の肯定的な面や良い点を見るように努めてみましょう。
この肯定的な面や良い点を強調した祈りは、エペソの聖徒たちが、ますます信仰に立って、互いに愛し、仕え合い、熱心に奉仕することを願う祈りです。それによって、より信頼と愛の生活を熱心にして行く励ましとなったでしょう。私たちにも、このような見方と祈りが必要です。欠点だけ指摘すれば、良いところさえできなくなります。しかし、よく励まして称賛してくれれば、他のところまでよくなるでしょう。私たちも、そのような祈り手になれますように。
U−神を知る−17〜18
次の祈りは、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいということです。17節。私たちは、神様を知るということについて、理性によって知ることができると錯覚をしているかもしれません。理性で知ることのできるものは限られています。神様を知るには、私たちの心の目と耳を開いてもらわなければなりません。いくら勉強して、知識を増やしても、御霊の働きがなければ、感動もなく、神を知る知識も生じません。
祈るのも同様です。御霊が働いて祈りを導いてくださるならば、楽しい深い祈りができます。知恵と啓示の御霊が臨んで、私たちに御言葉を悟るようにしてくださり、神様を深く知るようにと願います。
「神を知る」とは、どういう意味でしょうか。救いの神を心に受け入れ、神との人格的な交わりを持つことが、神を知るということです。頭で知っているだけでは、知っていることになりません。イエス・キリストの父なる神が与えてくれるようにと言っています。神様は、イエス様を通して私たちに来られました。イエス様の十字架の救いを通して、神の愛がどのようなものであるか私たちに知らされました。イエス様を通さずには、神様のあわれみや愛はわかりません。ただイエス様だけが、神様に会い、神様を知ることのできる唯一の道であり、真理であり、命なのです。ヨハネ14:6。
ですから、そのために必要なことは、イエス様を自分の主として受け入れることです。私たちが神を知るならば、それはとても素晴らしい経験をするようになります。ただ言葉で聞いて、頭で考えていた神様を自分の心と生活の中で実際に悟る時、恵みと喜びが溢れて来ます。自然に賛美するようになり、礼拝するようになります。その知識と悟りが私たちを造り変えて行きます。
私たちは、霊的に神を知ることで初めて、神が喜ばれる生活をすることができ、神が望まれる働きをすることができるようになります。神を知らなければ、自分の勝手、自分の肉の思いに、自分の欲望のままに、目に見えるように、世の中に誘われて生きていくしかありません。
神を信じている人が集まった教会が、神を霊的に知らなかったり、より深く知ろうとしなかったら、どうでしょう。神を霊的に知らない人々が、神様の御旨とは全く別の方向に教会を導いて行くことになってしまいます。もしクリスチャンが、自分の感情と自分の考え、経験に根ざして歩んでいるならば、主のみこころから離れてしまう危険があります。
「神を知る」知恵と啓示の御霊を持つようになると、心の目がはっきり見えるようになると言っています。18節。私たちの教会と聖徒たちが神をより霊的に知って、忠実な信仰の共同体になることを望みます。また、聖霊によって心の目がはっきり見えるようになって、神様が私たちを召された意味が何なのかを知って生きる神の人々になることを願います。
V−神に栄光を帰する−18〜19
神を知るならば、私たちの神様が愛と恵みに満ちたもう、全知全能の栄光の神であることが分かります。栄光の神が、聖徒に与えてくださる栄光を知るようにと祈っています。18~19節。モーセの願いは、神の栄光を見ることでした。出エジプト33:18。イザヤ43:7では、神がご自分の栄光のために神の民を創造したと言われています。ローマ8:18 では、私たちが将来受ける永遠の栄光を考えるとき、私たちが世で受ける苦しみは短く、軽いと言って、私たちを励ましています。聖書のあちこちで、栄光というテーマが光を放っています。しかし、今日、私たちが神の栄光を十分に知らないなら、私たちに信仰の力がなく、眠っているようになってしまうでしょう。
人間は、神の栄光に参加するように創造された存在にもかかわらず、罪を犯したので、神の栄光に入る資格を喪失したということです。しかし、私たちがイエス様の十字架によって受けた救いは、ただ滅びる罪人を滅びから救い出しただけではなく、失格になって、もはや神の栄光に向かって走ることができなくなった私たちの位置を回復し、再び神の栄光のために走ることができるようにされたのです。ローマ3:23〜24。
ですから、私たちの受けた救いは、終わりではなく、始まりであり出発なのです。救われたすべてのクリスチャンは、神が最初に人を創造する際に持っておられた計画のように、神の栄光に参加するように召されました。Tペテロ5:10。イエス様の福音を信じて救われた私たち、すでに栄光を受けた者です。ローマ8:30。ですから、神の栄光を受けた者として、その栄光をあらわして、地の塩世の光として生きることが私たちの生き方です。
ところが、世で人々は、大きい栄光小さい栄光を求めて生きています。スポーツ選手や芸能人が人気を得るような、職場での仕事の成功のような栄光を求めるばかりでなく、素朴で平凡に見えるすべての人も様々な方法で自分の栄光を求めて生きています。人々から賞賛、評価を得るために、自分の言葉と行動を変化させます。もちろん、栄光を求めることが悪いことではありません。私たちは、栄光の神から永遠の栄光に召されましたが、それは、将来天から神が表彰していただくことであって、世の栄光のために召されたわけではありません。人々からの栄光を求める心がどれだけ致命的なものとなるでしょうか。
ですから、私たちには、十字架が必要なのです。自分には何の望みがない、滅ぶしかない罪人であることをはっきりと認識した人だけが、イエス様の十字架のことを知って受け入れて救われるように、私たちも切実に十字架を握って神様に栄光を帰することが必要です。私たちは、しばしば神に栄光を帰することをしていない人であることを発見します。私たちが自分の知恵と力で努力して神のことを達成すると、私たちは神に帰するべき栄光を奪取して自分自身を誇ろうとします。自分の栄光を求めて、神の栄光を奪おうとすることが、人の罪の根源です。エレミヤ13:16。
この世は、私たちが栄光を受ける場所ではなく、私たちが徹底的に神のみに栄光を返しささげるところです。私たちは、人々から受けるちょっとの賞賛よりも神様から与えられる永遠の栄光を慕い求めたいのです。マタイ6:2。今日、私たちが心を神の栄光を向けただけで、神は私たちに報いてくださいます。今日、私たちもヨハネ3:30を告白する必要があります。
エペソ1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、
1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
イザヤ43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
ローマ8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
ローマ3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
Tペテロ5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ローマ8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
マタイ6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
ヨハネ3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。
エレミヤ13:16 あなたがたの神、【主】に、栄光を帰せよ。まだ主がやみを送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。
| 戻る |