2017年4月9日「救いを受ける目的」エペソ2:7〜10
序−人は誰でも、幸いな人生を歩みたいと思っています。人々はみな残りの人生を価値あるものとしたいと願っています。しかし、残念なことに、救われた目的が何かということが分からないならば、救われた後でも、新しい生き方をしないで、以前と同じ生き方をしてしまいます。価値有る人生を生きるために、救いを受けた目的を学びます。
T−恵み−7〜9
1〜6節まで、以前の私たちがどんなに悲惨な状態だったかを知らせ、イエス様の十字架と復活によって救われたことを学びました。なぜ、そうされなければならなかったのでしょうか。7節の書き出しを見ると、「それは」という接続語で始まっています。「それは」が指しているのは、1〜6節までのことです。イエス様の十字架と復活を通して私たちを救ってくださった、その目的は何かということをこの箇所で教えています。
私たちが救われた目的は何か。まず、神様の「恵み」を示すためでした。7〜8節前半。7,8節で繰り替えされ、5節でも「救われたのはただ恵みによる」と教えられていました。悲惨な状態から救ってくださり、神の子どもとしてくださり、天国の民としてくださり、永遠の命を与えてくださいました。私たちは、自分の努力で救われることができないために、恵みによって救われました。8〜9節。しかし、神の側では、愛するひとり子イエス様を私たちの罪のために十字架に渡すという何にも換算できない代価を払ってくださいました。Tコリント6:20。
でも、恵みということが、どれほどのものか分からないために、救われた後の人生が変わらないのです。恵みというのは、ある資格を持って何かを達成した人に施すものではありません。何の資格もなく、何の功績もなく、むしろ失敗して挫折して、罪を犯して失望しているような人に与えられるものが、恵みだということです。つまり、何もない人が何もしていない人が、余りにも大きな祝福を受けたということです。イエス様を信じて救われた人は、だれでもこの恵みを受けることができます。
私たちも、この恵みを受けたのです。人に馬鹿にされた、認められない、失敗してばかりだ、自分は価値がないと思っていたとしても、救いの恵みを受けているのです。初代教会は、この恵みの中にありました。ただイエス・キリストの十字架を信じるだけで救われた恵みを覚えて、感謝して教会が形成されていました。ところが、やがてその恵みの福音が変質し始め、十字架の福音が形骸化して、何かの業や功績、知識や能力によるかのようになりました。9節。修行や功徳というものが、すぐに福音にとって変わろうとするのです。私たちにも、行いを誇り、イエス様を十字架にかけたパリサイ人になり易い危険があります。
私は罪人であり、罪のために滅ぶしかない者だった。何の能力も功績もなかったが、ただただ神の愛とあわれみによって、イエス様の十字架のゆえに救われた、と告白するしかありません。これが、恵みを知った者の姿です。「すぐれて豊かな御恵み」というほどに、キリストにある神の恵みは無限です。主の十字架と復活は、想像もできない神の恵みでした。救いの恵みを享受されておられますか。大きな変化を言葉だけで理解することではありません。救いの恵みを感謝して、御言葉に生きるなら、実際に私たちの価値観が変わり、生き方が変わります。そうすると、勉強にも仕事にも、影響して来ます。人間関係も家庭生活も、変わって来ます。福音に根ざして考え、行動するようになります。
U−神のプレゼント−8〜9
その救いの恵みが、神からのプレゼントと表現されています。10節。イエス様を通して与えられた救いが、神様が私たちに与えてくださった贈り物だというのです。神様が罪の悲惨にある人々をあわれんで、御子イエス様を世に送ってくださったこと自体が大きな贈り物です。イエス様が来られなかったら、今も私たちは、罪の奴隷であって、サタンに支配されて、滅び行く者でした。私たちを救うことができるのは、ただイエス・キリストだけです。使徒4:12。神の御子が世に来られたのに、神の民だと誇っていたユダヤ人は、イエス様を受け入れませんでした。
彼らは、イエス様を受け入れないだけでなく、イエス様を妬んで、十字架にかけてしまいました。そして、イエス様を死刑に定めた総督ピラトが、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」というと、ユダヤ人は、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と答えました。しかし、イエス様を十字架につけて殺したのは、ユダヤ人だけでなく、私たちの罪の罰を身代わりに十字架に負ってくださったので、私たちもイエス様を十字架にかけたのです。マタイ27:24〜26。
イエス様を十字架につけて殺した犯人は、他の人ではなく、自分自身です。主の前に、「主よ、私は罪人です」と告白するならば、イエス・キリストが十字架で流された血が私たちに臨んで、私たちの罪が清算されて、新しく生まれ変ります。イエス様は私のために十字架に殺されたと認めることができますか。私たちは、莫大な罪の借金をしている者です。この罪の借金は、とうてい自分の力では返すことができるものではありません。「主よ、私は罪人です」と告白してください。
罪の赦しを受ける方法はただ1つ、血を流すことです。ヘブル9:22。それで、旧約時代は動物の血を犠牲にささげて、罪の赦しを願っていたわけです。罪の値を支払うためには、誰かが代わりに血を流さなければなりませんが、罪のない血でなければなりません。罪のない人は誰もいません。そのために罪のない神の御子が、受肉されて世に来られたのです。ヘブル4:15。そして、イエス・キリストが私たちの罪の代わりに十字架にかかり、血を流されました。Tペテロ2:24。
ですから、神様から救いのプレゼントを受けるためには、条件が必要です。Tヨハネ1:9。自分が罪人であると認めることです。自分にはイエス様を十字架につけた罪がないとするなら、自分を偽り者とすることになります。Tヨハネ1:8。借金があるのに、借金がないというのと同じです。イエス様の御前に出て、私は罪人だと告白するなら、罪の借金を代わりに負ってくださり、自分の罪の借金はきれいに清算されます。「イエス様は私の身代わりに十字架にかかられました。イエス様を信じます」と口で告白してください。心に信じただけでなく、口で告白して救われるのです。ローマ10:9〜10。
イエス様は自分の救い主だと受け入れてください。イエス様の十字架による救いは、神からの賜物、プレゼントです。プレゼントは隠しておくものですか。大切に用いてこそ、プレゼントとなります。信仰のプレゼントをよく用いる者は、恵みをさらに受けます。タラントの教えはそのことを如実に示しています。マタイ25:14〜30。自分の罪の借金を清算するために、イエス・キリストという余りにも大きなプレゼントを受けました。イエス様をよく信じる人は、日々神様から信仰のプレゼント、恵みを受け取るようになります。
V−神の作品−10
そうしたら、救われた後、恵みを受けた後の生活が重要となります。クリスチャンが救われた目的は、良いことをするためです。10節。良い歩みをするために、神様の栄光をあらわすために新しく造り変えられた者です。「作品」と「造られた」という言葉は、新しい創造をあらわしています。私たちは、神様によって新しく創造された神様の作品だということです。神の作品だから、傑作です。「高価で尊い」と言われます。イザヤ43:4。私は、神様の偉大な作品なのだという自負心を持って生きてください。
かつての罪過と罪の中に死んでいた者である間は、死んでいるので変わることはできません。でも、イエス様を受け入れて、ともによみがえらされ、ともに生きる者になった私たちは、新たに造られたのです。だから、イエス様を信じた者は、生まれ変ったというのです。クリスチャンは、行動や考えの変化、生活の変化によって救われたのではなく、イエス様の十字架を信じて救われたから、価値観や行動が変わり、生き方が変化するのです。Uコリント5:17, コロサイ3:10。これが重要なことです。
私たちが新しく生まれた目的は、良いことのためでした。新しく造られた目的が、私たちの真の目的です。それを発見し、それに生きて行くことが、私たちにとって価値有る人生となります。良いことって、何でしょう。イザヤ43:7。私たちは、神の栄光のために造られました。良いこととは、神の栄光をあらわして生きることです。イエス様が神様の御心をなすために世に来られ、御業を成し遂げられたように、私たちもすべてのことを通して神様の栄光をあらわすために生きて行くのです。Tコリント10:31。
すべてのクリスチャンが、イエス様によって良いことを行って、神様の栄光をあらわし、主の民として生きることを願います。マタイ5:16。罪に関して、私たちは完全に無能ですが、神様はイエス様の十字架と復活という恵みによって救ってくださいました。ですから、私たちは、救いの恵みを悟って、神の作品として神の栄光をあらわして生きるのです。
エペソ2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。
マタイ27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
ヘブル9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
Tヨハネ1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ローマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コロサイ3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
イザヤ43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
Tコリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
マタイ5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
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