2017年4月23日「心のバリヤフリー」エペソ2:11〜18
序−障害者や高齢者などについて、4つのバリヤフリー(物理的、情報的、社会制度的、精神的)が進められていますが、中でも最も遅れているのが、最も大切な心のバリヤフリーだと言われます。偏見や思い込み、固定観念など、心に潜む目に見えない壁を築いてしまうそうです。私たちも、御言葉から、心のバリヤフリーを学んで、豊かな信仰生活を目指します。
T−心の壁、コミュニケーションの障壁−11〜15
ベルリンの壁が崩れて27年になりますが、現在も分断と紛争を象徴する壁があちこちに残っており、新たに作られる壁もあります。壁のなくなったドイツにも、東と西の人々の間に目に見えない障壁、心の壁があると言います。今日社会の中には、人々を隔てる様々な障壁やバリヤーがあり、人々の間にはコミュニケーションの障壁があります。よく知らない人々との間だけでなく、よく知っている夫婦や親子間にも隔ての壁があります。
心の壁、メンタルブロックとは、自分を守るために築かれた防波堤のようなものですから、必ずしも悪いものではありません。しかし、壁を築くと自分を守ることが目的となって、行動が制約されて行きます。意識していなくても、人との関わりの中で生きている限り、心の壁を築いています。対人関係で傷付いたり、付き合いがうまくできなかったりすると、人との間に距離を置いたり、警戒の高い壁を築いたりすることもあるでしょう。バリヤーを張って、人を近づけないこともあるようです。メンタルブロックのために壊れてしまう関係もあるでしょう。人生の大きな問題です。
今日の箇所には、ユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁が取上げられています。ここから、人と人の間の障壁、心の壁について学びましょう。エペソ教会は、パウロが心血を注いで形成したとても良い教会でしたが、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間の違いが、隔ての壁となっていました。契約の民であるかそうでないか、律法を持っているかいないか、割礼を受けているかいないか等々違いがありました。11〜15節。それが問題となっていたようです。中には、アブラハムの子孫だというプライドをもって異邦人を蔑むユダヤ人、金融や商業に携わっていたユダヤ人を守銭奴のように批判する異邦人もいました。
あるコミュニケーションの専門家は、心の障壁をビック4と呼んで、批判、恐れ、罪の意識、恨みを取上げています。どんな心の障壁を持つかは、おいたちやどんな家庭で育ったかに起因すると言います。人生における問題や事件において、自分がどんな障壁や思い込みを持っているかを気付かせてくれるそうです。それを環境やおいたちのせいにするのでなくて、気付いて、信仰で対処することが大切だということです。
ユダヤ人と異邦人の間でも、互いの違いのために批判し合い、恨みを持つことあったようです。何かあれば、問題が起こったでしょう。人は、批判や非難の多い環境で育てば、自分もそのようになるそうです。でも人を批判するというのは、結局自分のどこかを批判しているそうです。批判や恨み、恐れなどの障壁を誰かとの間に築いていないでしょうか。
クリスチャンは、霊的に造り変えられ、成長するものですが、心の壁が成長を妨げてしまいます。人の成長の妨げになる心の壁は、固定観念、恐怖心、習慣化、プライドの壁だと言われます。こうなるはずだ、一歩踏み出すのが怖い、今までの通りでいい、私はそれで生きて来たという凝り固まった思考、感情、行動パターンが、文字通り壁になって成長や変化を妨げてしまうのです。まさに、ユダヤ人と異邦人の間にも、このような壁が築かれていました。律法を守らなければだめだ、こういう習慣は変えられないなどという壁が、彼らの霊的成長を妨げていました。私たちは、どんな壁が障害となっているのでしょうか。
U−キリストこそ私たちの平和−13〜18
この心の壁は、何によって崩れるのでしょうか。13〜15節。「キリストの血によって」「ご自分の肉において」というのは、イエス様が十字架に付けられた、イエス様の尊い血が流されたということです。この隔ての壁を崩すために、イエス様が犠牲となられたのです。イエス様の犠牲は、隔ての壁を打ち壊して、どんなことをもたらしてくださったのでしょうか。
まず、「平和」です。14,16節。人は、世の何かを得ることで平和を得ようとしています。人は、何かを持っていることで、多くのものを持てば心配や不安もないだろうと思います。たとえば、健康さえあれば、子どもがうまく行けば大丈夫だというようにです。しかし、世においては、平安な日は一日もないくらいです。世が与えるのは、不安や心配、妬みや争いだからです。イエス様を信じて救われた者は、罪赦され、神の子とという特権を与えられ、同じ神の民として平和が与えられました。それまでに互いの間にあった批判や恨みという心の壁が打ち壊されると、その間に平和が訪れます。なぜ人は互いに憎み、戦うのでしょうか。罪のためです。ですから、イエス様の十字架によって罪の囚われから解放されると、平和に生きるようになります。
次に、敵意を廃棄されます。15節。ユダヤ人と異邦人を引き離していた障壁の一つが律法でした。神様がイスラエルに与えた律法は良いものです。イスラエルは、律法の意味をよく知らないために、異邦人との間に壁を築いて、異邦人を疎外し、それが両者の敵意となりました。本来律法の核心は、神を愛し、隣人を自分の体のように愛することです。マタイ22:36~39。イエス様がご自分の体で律法を廃棄されたというのは、ユダヤ人も異邦人も守ることのできない律法の要求をイエス様が十字架で満たして、律法を成就されたという意味です。マタイ5:18。愛する関係に変えられたのです。
平和が与えられ、敵意が廃止されたのは、神様との和解をイエス様がもたらすためだと言います。16〜18節。そもそも罪の始まり、人が神様を離れ、神様に敵対したことでした。創世記3章。私たちの罪が、神様との隔ての壁となっていました。イザヤ59:1〜2。人の罪の赦しのために、イエス様が十字架にかかり、血を流されて、神様との和解をもたらしてくださいました。Tペテロ2:24。ですから、私たちが、人との関係がどうもおかしいという時、対人関係の前に対神関係を顧みてください。神様との関係が回復され、神様の愛と赦しに満たされ、感謝と信頼が溢れて来るならば、人への批判や恨み、恐れや敵意が解消されて行くでしょう。
ここにおいて、「キリストによって二つのものを一つに」という表現が繰り返され、強調されています。14〜18節。平和とか敵意の廃棄とか和解と言っても、ちょっと仲直りしようとかいうくらいではなく、一つにする、ひとりの人、一つの体とするというくらいなのです。手と足お互いに敵ではなく、支援の関係であるように、ユダヤ人と異邦人がイエスの中で一つの体とされました。あなたと誰かも主の十字架の福音によって、そのような関係に変えられるというのです。
V−思い出してください 変化すること−11〜13,15
本来救われたならば、そうなるはずなのに、その救いの恵みを忘れていたということが問題でした。心理学者によれば、人間の心の調整能力の違いによるということです。たとえば、人は短い幸福のピークを過ぎると、その幸福を与えてくれた状況に慣れてしまい、新たな幸福を得る前の精神状態に戻ってしまうのです。一方、不幸に対してはずっとその不幸の心理を引きずるというのです。今の恵みを理解するためには、以前はどうであったかを思い出して、感謝しなければなりません。「ですから、思い出してください」と今朝の箇所は始まっています。11〜13節。
以前は「除外されていた者」でした。救われる以前の私たちは、肉体においては異邦人で無割礼の者、神の民から除外されていた者でした。つまり、神の民であるしるしがない、神様のあわれみ受けるに値しない者だったというのです。私たちも、神様の栄光も偉大な御言葉も知ることができませんでした。神も望みもない者でした。
私たちは、自分も以前は除外されていた者だと認めます。今の救いの恵みを思えば、ただただ感謝し、謙遜にならざるをえません。心の壁を取り去り、受け入れ、愛し、尊ばなければならないと思うようになります。プライドの壁が、私たちの成長、霊的変化を妨げます。この心の壁が、人を批判し、受け入れません。以前どんな者であったか、思い出しましょう。
また、以前は「キリストから離れている者」でした。救い主イエスを知ることがありませんでした。以前は、罪のために死んでおり、サタンの支配され、肉と心のままを行い、神の怒りに裁かれるしかない存在でした。エペソ2:1〜3。ところが、イエス様は私たちが知らないうちに私たちのために十字架にかかってくださいました。ローマ5:8。
キリストから離れていた私たちに、イエス様が近づいて来てくださり、招きの声をかけてくださいました。黙示録3:20。注意してください。この心の扉は、主が無理やりに開くドアではありません。むしろ、私たち自身が開くのを待たれています。私たちがイエス様に対して心のドアをあけるなら、心の壁も崩され、心のバリヤフリーが進みます。
エペソ2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
イザヤ59:1 見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない
ヘブル10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
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