2017年5月14日「膝を屈めて祈ります」エペソ3:14〜21

序−最近祈ることをしておられますか。何のために祈りましたか。どんな祈りをされましたか。今日の箇所には、使徒パウロの切実な祈りが記されています。パウロは、牢獄の中で、冷たい床に跪き、頭をたれながら。聖徒たちのためにとりなしの祈りをしています。大変感動を与える祈りであり、私たちの心に刻み、反芻(はんすう)して祈りたい祈りです。

T−内なる人を強くして−16
 このエペソ教会は、巡回伝道者のようなパウロが、3年半も留まり、心血を注ぐことによってその基礎が築かれた特別な教会でした。ツラノ講堂で2年間聖書を教え、弟子訓練も行われました。そのエペソの教会のことを思うと涙が出て来ます。信じて救われたに留まらず、信仰が成長して成熟してほしいと願い、霊的造り変えが進むことを切望していました。そこで、牢獄の中で祈り始めました。聖徒たちのことを思うと、あまりにも切なく、思わず冷たい床に跪いて、祈りました。14〜15節。
 パウロの13通の手紙には、祈っている所が何箇所もありますが、膝を屈めて祈っているのは、ここだけです。膝を屈めて祈るという姿は、切実な祈りだということです。神様の栄光の中で、天国への思いを持ちながら、この地上で生きている聖徒たちのために、豊かな神様の恵みの中に生きるようにと、祈り始めました。私たちが、霊的に恵み豊かに生きるためにささげるべき祈りであり、周りの人々のためにささげるべきとりなしの祈りです。パウロが膝を屈めながら切実に祈った祈りの内容は、何でしょう。
 まず信仰の内なる人がキリストの力で強められますようにと祈っています。16節。今日多くの人々は、外見を飾ることに関心を持ち、外側をよく見せるためにお金と労力を費やしています。ちまたでは、健康食品や健康器具の宣伝が氾濫しています。健康サプリや美容エステ、スポーツセンター等外見産業と言われるものが多くあります。もちろん、健康や外見の整えも必要ですが、外側に費やすだけの関心や労力を、内側のこと、精神のために使っているでしょうか。私たちがしなければならないことは、健康や美貌よりも、内面のことを養い、内なる心を強めることではないでしょうか。私はどっちに関心と労力を注いでいるだろうか。
 Uコリント4:16で、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と言われています。パウロは、外なる人よりも、内なる人が育つことを切実に祈っています。どんなに熱心に運動して健康を守ろうとしても、どんなに健康食品を食べて老化を防ごうとしても、私たちの体は衰えて行きます。ですから、聖書は衰えて行く外なる人よりも、内なる人を育てることに情熱を注ぐべきだと言っているのです。専門家によれば、心の平安が健康のために占める割合が半分以上だそうです。
 では、どうすれば内なる人が強められるのでしょう。内なる人は、「御霊によって」強められます。16節。イエス様を信じて救われた時に、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から私たちを解放してくれました。ローマ8:2,4。弟子たちは、聖霊に満たしを受けてからは、考えが変わり、人生が変わりました。内なる人が丈夫になったからです。イエス様を信じて聖霊を受けた後、繰り返し聖霊に満たされる必要があります。エペソ5:18。

U−心のうちに住んでいて−17
 次に、膝を屈めて祈るパウロの切実なる祈りは、「キリストが、心のうちに住んでいてくださいますように」という祈りです。17節。「住む」という原語は、2つの意味があります。一時的にゲストとして留まることであり、もう一つは主人として住むという意味です。イエス様が私たちの内に宿るというのは、ゲストとしてではなく、私たちの人生の主人として来られ、私たちを治めなければならないということです。
 聖徒たちの中には、イエス様を受け入れても、ゲストのように受け止めている人がいました。肉の原理の人は、自分の思いで決定し、自分の考えて歩むことをし続けます。ローマ8:5~8。その人は、自分が主人であり、イエス様はゲストなのです。主に忠実な聖徒は、主が主人であり、主の御心によって判断し、主の導きに従って生きます。ローマ8:5〜9。あなたは、どちらですか。イエス様は、私たちの内に来られる時、ゲストになろうとして来られたのではありません。私の人生のすべての領域で主人となり、私の人生の所有者となることを望んで、私の内に来られました。
 ところが、多くの聖徒たちが、あたかもイエス様をゲストとして迎えたかのように思っています。自分が助けを必要とする時、自分が疲れ切った時に来てくださるように考えています。求める時だけおられる方と考えているので、普段はおられない方、関係ない方として生きている姿があります。イエス様を自分の心の片隅に置いて、心の中のイエス様とは関係なく、「私の主人は私」とばかり生きているのです。エペソの聖徒たちの救いと信仰の成長のために労苦し、御言葉の養いに努めたパウロは、このことのために涙を流しながら、切実に祈らざるを得ませんでした。
 「私の心はキリストの住い」(ロバート・B・マンガー著)という有名な本が、このことを取り扱っています。この本は、ある日、キリストを信じた主人公が、自分の生活のさまざまな分野で、文字通りイエス様を主として受け入れていく過程を、内面的な葛藤とともに描いた世界的ベストセラーです。主人公は、心のドアを開けて、イエス・キリストを自分の心の中に招待しました。黙示録3:20。心の住いを案内して、書斎、キッチン、リビング、仕事場、娯楽室、物置と家中を主に見ていただきました。しかし、そこは主と交わることを忘れたものでいっぱいでした。一緒に交わりましょうという主の言葉を無視して忘れてしまい、自分の好きな生活に忙しくしていたからです。
 主は、主人公に「あなたは私が一緒にいると楽しめないと思うのですか。私はあなたの喜びがあふれるようにしたいのですよ」と言われました。最後には、主人公はイエス様に家の所有権を明け渡し、「今までは私が主人で、あなたはゲストでした。今からは私はしもべになります。あなたが主人になってください」跪いて言い、心の住いの所有権を明け渡しました。
 この話の主人公は、私たちの姿ではないでしょうか。イエス様に自分の心の家に迎えることはしました。しかし、イエス様を奥まった部屋に閉じ込めて、他の部屋に行かせません。すべての鍵は自分が持ち、すべて自分勝手に決定し、自分の勝手で行うのです。私たちは、イエス様を礼拝し、祈る時は、「主よ。私を導いてください。私を助けてください」と自分の不安な所を委ねます。しかし、「私の仕事や遊びには、自分なりの計画があるので、干渉しないでください」と言い、必要な時ゲストとして飛んで来てほしいと思っているのです。私たちは、イエス様を受け入れた時にしなければならないことは、「主よ。私の人生の主人はあなたです。心の家の所有権を明け渡します」と言って、私たちの生活のすべてを任せることです。そうすれば、私たちは幸いになれるのです。自分勝手に生きる方がよくて幸せそうでしょうが、自分の人生を肉の思いのままに生きるなら、最終的には痛みと失望を得るしかありません。イエス様がゲストではなく、自分の人生の主人としてお迎えして、たましいの安らぎと幸いを得ましょう。

V−キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ−18〜19
 そして、三番目の祈りは、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」という祈りです。18〜19節。私たちは、自分の人生に来てくださったイエス様の愛を深く体験しているでしょうか。主は、いつも私たちに大きな愛を与えてくださっておられます。イエス様の愛は、日々の生活の中に働いておられます。その愛を悟って感謝して生きている人もいれば、まったく気付かないで不平不満で生きている人もいます。
 イエス様の愛を受け取ることを知って、その愛を胸に抱いて生きる人は、イエス愛とつながって生きることができます。ローマ8:35〜39。私たちは、世界で最も幸いな人として暮らすことができます。しかし、問題は、私たちがそう生きることを望んでいるけれども、実際にはそう生きていないということです。その愛を余り体験しないまま、みすぼらしい姿で生きているのが、私たちの姿、聖徒たちの姿です。ですからパウロは、聖徒たちが、人知をはるかに超えたキリストの愛に深く根をおろし、その愛に基礎をおいて豊かな人生を生きるように、切実に祈っています。
 ここにキリストの愛の表現が四つ出て来ます。愛の広さ。キリストはすべての人のために十字架にかかられました。ヨハネ3:16。イエス様が愛することのできない人は誰もいません。人々から責められ、疎外されていた人々を愛してくださいました。愛の長さ。主の愛は永遠の愛です。ところが、人の愛は変質します。死ぬほど愛していると言っていた愛が、いくらもしない内に憎しみに変わってしまいます。愛の高さ。主の愛は何かと比べることのできない高貴な愛です。私たちが愛さない人も愛し、私を裏切って侮辱する人をも愛する高い愛です。愛の深さ。私たちは、罪のために死に、滅びに至るべき者でした。しかし、イエス様は、私たちのために十字架に死んで、陰府にまでくだり、三日目によみがえられました。Tコリント14:3〜4。
 イエス様は十字架にかけられる前の晩、跪いて苦しみ祈られました。ルカ22:41〜44。十字架の犠牲で救われた私たちの内なる人が造り変えられて、イエス様を心の王座に迎えて、イエス様中心に生きる者となるように、イエス様の愛を体験できるように、私たちも膝を屈めて切実に祈ります。



エペソ3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。



Uコリント4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ローマ8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

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