2017年6月4日「召しにふさわしく歩む」エペソ4:1〜10
序−先週私たちは、教会設立記念礼拝をささげました。私たちは何のためにこの教会に召されたのでしょうか。何のために救いに召されたと考えておられますか。「救いに召された私たちが、その召しにふさわしく歩む」ためです。では、召しにふさわしく歩むとは、どんな姿なのでしょうか。
T−救われた者の姿−1〜3
ここにイエス様の召しにふさわしく歩む者の四つの姿が示されています。2〜3節。最も強調されているのが、「謙遜」です。謙遜な人の特徴は、何でしょう。神と人の前で自分が足りないと、自分を低くする者です。イエス様を見てください。自分の行動や感情を、キリストの姿に照らすなら、到底謙遜ではない自分だと知って、謙遜に向かわざるを得ません。イエス様は、神の御子なのに、人の姿と一緒になられ、自分を低くして、十字架にかかられ、すべての苦痛と侮辱と蔑みを受けて死なれました。ピリピ2:6〜8。逆に、高慢は、人と人との間に隔ての壁を築かせ、分裂させます。高慢は人に侮辱や苦痛を与えます。謙遜は、人々を結びつけ一つにしますが、高慢は、人の間に破壊と分裂を引き起こします。
「柔和」は、柔らかい心であり、親切な心です。柔和な人とは、自分の心をうまく調節して治めることができる人です。箴言には、最も愚かな人は怒る人だとあります。すぐに怒って、肉の思いをあらわにする人は、成長していない古い人だということです。立派な人、できる人だとしても、柔和さを身に付けなければどうなるでしょう。人を責めて罪を正そうとしても、柔和さがなければ、人の心に痛みや非難された思いだけを残します。仕事を頑張って処理しても、柔和さがなければ、周りに益を与えないでしょう。柔和な人は、弱そうに見えますが、実は最も強い人なのです。
「寛容」は、人の言動に対して、自分がよく耐えながら自分の心をうまく調節することです。急がずに相手の変わることを待つことです。寛容という原語は、忍耐とも訳されます。大目に見てやろうなどというのは、寛容ではありません。人の受け入れがたい姿に耐えることに倦み疲れないで落胆しないことです。イエス様は、あざけり、ののしられ、苦しめられ、十字架にかかられましたが、栄光の復活を迎えられました。私たちも、人のあざけりや非難などの言動に忍耐することで、主の御心を行い、主の恵みと祝福を受け取ることになります。
そして、「愛をもって互いに忍び合う」ことが必要です。人は、だれでも間違いや罪を犯してしまう者です。間違いをしない人、罪を犯したことがない人ははいないでしょう。そうであるならば、互いの失敗や間違いを忍び合い、容認し合う必要があります。夫婦喧嘩など人の争いをみると、互いに相手を自分に合わせようとする戦いです。相手の過ちを暴き出して、相手を判断しようとしないでください。まず、容認してください。欠けや弱さのない人はだれもいません。それなのに、自分の姿を忘れて、人を責め、否定してばかりでよいのでしょうか。マタイ7:4。謙遜、柔和、寛容を示し、互いに忍び合うことで、どれほど私たちは幸いになれるでしょうか。
U−一つになるための根拠−4〜6
イエス様に救われた私たちは、イエス様によって人々と一つとなるようにと言われています。同じ教会に召されたということは、ともに主にあって一つとなるためです。一つになるための根拠が記されています。4〜6節。まず、私たちが、一つである根拠は、神様がお一人だということです。イエス様を信じることによって、イエス様とつながっています。ヨハネ15:4〜5。そして、御霊が内に宿っています。ヨハネ14:16〜17。イエス様によって一つのからだとされています。イエス様を信じることによって、同じ信仰、洗礼、望みを与えられています。
私たちは、からだは一つ、御霊は一つ、望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、父なる神は一つという7つの共通分母を持った者たちであることを思い出させています。教会とは、多様な人々が集まったところです。職場でも学校でも、そうでしょう。人々が集まれば、考えも違うし、生活習慣も違うし、価値観も異なります。そのような人々が集まって、同じ価値観のために一つになって人生を生きることは、非常に難しいことです。普通に考えれば、不可能です。
しかし、初代教会の始まりを思い出してください。聖霊が一人一人にくだることによって始まりました。使徒2:1〜3。神の霊が一人ずつ皆に臨み、かれらを変化させてくださいました。一人一人の考えや価値観を変化させて、聖霊が神の思いと心に導いてくださいました。このように、聖霊がすべての人に臨まれ、人格的な出会いを通じて変化させてくださったとき、彼らはお互いに異なっていた部分を持っていながら、神のために、一緒に立ち上がり、共に働いて福音を伝えて行きました。
ですから、この箇所でも、「御霊の一致を熱心に保ちなさい」と命じられています。3節。聖霊を通して、神の御心を中心に一つになったけれども、それを維持して守る力を果たしなさいということです。使徒パウロは、ここでも、「主の囚人である私は」と言っています。確かにイエス様を信じて、新しく生まれ変ると、罪や悪い霊から解放されました。でも、肉の自分が主人になると、また元の悪い霊の囚われや罪の奴隷に戻ってしまうのです。エペソ2:1〜3。ですから、イエス様の十字架によって、罪の奴隷から解放されたならば、イエス様の囚人にならなければなりません。イエス様が、新しい自分の人生の主人となっていただくのです。
イエス様の十字架は、私たちの罪と滅びの身代わりです。それを信じる私たちは、罪から恵みに召されました。死から命へ召し出されました。暗闇から光に召されました。そして、主の御霊が内に住んでくださる者とされました。御霊によって神様の御言葉を悟り、生活と人生に適用してもらいます。御霊と生ける神の御言葉によって、この世を導いていただけます。
奇しくも、きょうは教会暦では、聖霊降臨日、ペンテコステです。イエス様の復活から50日目になります。きょう聖霊降臨日を迎えて、聖霊で一つになるようにと御言葉をいただきました。私たちも、御霊によって霊的に造り変えられ、主の御霊によって考え、行動して行く者となって、教会が形成されて行きますようにと願います。
V−多様性だが、主にあって一つ−7〜10
一つとなるという時、誤解されるのは、主が一つで信仰が同じだということであるのに、人が同じでなければならないと考えてしまうことです。それで、様々に違う人がどうして一つになれるのかと考えるのです。そこで、一人一人、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられたと言っています。7節。ここに、教会の多様性が教えられています。人々の働きの違い、賜物の違いがあります。違うけれども、すべて御霊によって与えられた恵みなのだということです。Tコリント12:7〜9。賜物の出所は、みな同じ御霊からなのです。御霊によって違う賜物が与えられているのです。
それなのに、人の賜物を妬んだり、自分の賜物を用いなかったりしていいのでしょうか。自分にないものを妬んだりするより、自分に与えられている賜物をよく用いることに心と思いを注がなければなりません。人に対しても、ないものを求めるのでなく、その人にあるものが発揮され、用いられるように祈ります。そうしてこそ、共に教会を建て上げて行くことができます。そうしてこそ、学校や職場や地域において、それぞれがよく用いられることになります。賜物が御霊の恵みと言われるゆえんです。
教会のメンバーの多様性が強調されています。ガラテヤ3:28。言語が違う。文化が違い、生きてきた生い立ちが違い、顔付きが違い、生活の環境が違い。学びが違い、職業が違い、世代も違います。しかし、イエス・キリストの中で一つなのです。教会でも、学校でも、職場でも、地域でも、多様性があることわきまえます。教会は不思議なところです。多様性があるけれども、主にあって一つなのです。天国を垣間見せてくれるところです。
体にも譬えられています。Tコリント12:14〜27。一つの体でも、体は様々な部分から構成されています。足が手を羨んで体に属さないと言っても、足がなければ体は移動できません。みんな目がいいと言っても、目だらけで体が機能するでしょうか。弱いと見られる器官がかえってなくてはならないものです。一つの体なのだから、一つが苦しめば全体が共に苦しみ、一つが尊ばれれば、全体が喜びます。私たちは、キリストの体であり、一人一人は各器官なのです。学校でも、職場でも、家庭でも、人の集まりとは、そういうものです。
8節は、詩篇68:18の引用です。ダビデ王とイスラエルの勝利を賛美したものです。なぜ唐突にと思うのですが、おそらく当時この箇所が賛美歌として歌われたいたのでしょう。それも、イエス様の十字架と復活の福音による勝利として歌っていたのです。イエス様は赤ちゃんとして世に下られた時から、さげすまれ、悲しみを経験され、苦しみを受けられました。イザヤ53:3。その下ることは、十字架の死にまでも下られました。ピリピ2:6〜8。
しかし、三日目に十字架の死からよみがえり、天に昇られました。これによって、救い主イエス様を信じる者は、罪赦され、新しい命を与えられ、賜物を受け、主に用いられる人生へ歩む者となります。これが、召しです。ですから、私たちは、イエス様に救われた召しにふさわしく歩みたいのです。御霊によって一つとなりますように、変えられ、用いられたい。
エペソ4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
4:7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
4:8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
4:9 ──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
4:10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──
ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
マタイ7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
Tコリント12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ
ガラテヤ3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
Tコリント12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
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