2017年6月11日「古い人を脱いで新しい人を着る」エペソ4:17〜24
序−6月と言えば、衣替えです。暑くなっても冬服を着ている人はいないでしょう。ところが、聖書の譬えには、まるで衣替えになったのに、相変わらず服を替えないでいるような人がいるというのです。新しい服に替える時期が来ても、古くなった服をずっと着ているというのです。
T−主から心が離れている人の特徴−17〜19
心理学用語に固着状態というものがあります。過去の習慣を維持することで安定感を感じる現象です。固着状態に陥っている人は、変化を嫌い、恐れます。この手紙は、イエス様を信じて救われたエペソの聖徒たちへ書かれたものです。異邦人のようになってはいけないと勧めています。17〜19節。つまり、イエス様を信じて救われたにもかかわらず、昔の姿で生きていく人が多かったのです。新しく生まれ変って、霊的に造り変えられ、成長して行くはずなのに、昔のままで、精神的固着状態に陥っていた人々がいたのです。このリストを見ると、私たちが、霊的に成長しないで、昔のままであるなら、どんな状態で生きているのか、よく分かります。
それは、「むなしい心で歩んで」いる姿です。むなしいとは、中身のない殻です。すなわち、必ずなければならない重要なものがない、でたらめな人生だということです伝道者1:14。聖徒であるのに、人生の殻に相当するようなものを追及するばかりで、主がその人生の中心にない人生はむなしいのです。御霊に満たされていないたましいは抜け殻のようです。
「知性において暗くなり」ました。知的でないというのではなく、何かを見るには見ているのですが、そのことが起こった意味が分からないというのです。私たちの生活の中で何が起こっていることで意味がないことは一つもありません。その事を通して、神様が私たちに与えようとされているメッセージが何かあります。しかし、霊的思慮が暗い人は、見るには見ても、その意味を悟ることがないというのです。
「無知」というのは、御言葉を知らなければ、何が罪で何が罪でないかを判断することはできないということです。聖書を英語でカノンとも言います。カノンとは定規という意味です。判断の基準がなければ、人はそれが罪であるかどうか知らず、自分の考え通り判断してしまうのです。
「かたくなな心ゆえに神から離れる」という頑なとは、石灰石の意味です。心が石灰岩のように固まっているということです。心が固まっているということは、頑固、高慢であるということです。何でも自分が正しいと思い、人の話を聞こうとしません。困った姿です。
そいて、「無感覚」とは、原語では、痛みを感じないという意味です。痛みを感じないほど怖いものはありません。私たちが病気なり、どこか具合が悪くなれば、痛みを感じます。痛みを感じることで具合が悪いことが分かり、治療ができます。ところが、怖いのは痛みを感じないことです。何の痛みも感じずにいて、ある日検査して分かっても、時遅しとなります。罪を犯している痛みを感じなければ、その罪のウイルスが魂に広がっても分からず、やがてその人の人生を完全に壊すことになります。
このようなものが自分にはないか、冷静に省みてください。御言葉を基準に判断していますか。何でも自分のこだわりを優先させるような固まった心となっていませんか。霊的な変化を求めることなく、その状態に満足していないかを考えてみてください。精神的な固着状態は、停滞するのでなく、退行すると学びました。私たちが霊的変化することなく時が経てば、私たちの信仰は後退することになるでしょう。
人の一生とは、習慣の産物です。習慣とは、最初は自分が習慣を作りますが、そのうち習慣が自分を作ります。初めはゲストのように近づくが、後には主人となってしまうのが、習慣です。良い信仰の習慣は、私たちをより幸せにして、人間関係を良くし、私たちの人生を美しくさせ、豊かにします。しかし、否定的な旧い習慣は、私たちの生活に悪影響を及ぼし、私たちの心を病気にさせ、心を醜くし、不幸にしてしまいます。
U−古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なさい−20〜24
ですから、聖書は言います。22〜23節。以前の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るべきだというのです。しかし、問題は容易ではありません。私たちの心に新しい人に住んでいるのに、私たちの生きる姿はまだ古い人に固着されているという問題があります。ある人が何かのことでひどく怒って家に帰りました。寝る前に御言葉を思い出し、明日は仲直りしようと思いました。しかし、再び会うと怒りがまた出て来るのです。
根回しの日本社会では、決まる前に知らされ、お伺いをしてもらわないと、聞いていないと憤慨します。決まったことを聞かされても、少しもおかしくありません。そうなりましかと受け止めるだけです。教会で御言葉を聞いて満たされて、日常の生活に戻ります。しかし、何かのことで前もって知らされなかったなら、聞いていないと憤慨するのです。そんなおかしい姿にも気付きません。まだ昔の人の姿で生きているのです。
では、どのようにするなら、新しい人に変化することができるのでしょうか。22〜24節。三つの秘訣が教えられています。まずは、「古い人を脱ぎ捨てる」ことです。22節。「以前の生活」とは、旧い習慣のことです。古い人を脱いで捨てるというのは、古い習慣をやめることです。霊的衣替えです。私たちの外観ではなく、私たちの霊性、内なる人が新たにされなければならないというのです。
次に、「心の霊において新しくされる」ことです。23節。これは、心と思いが新しくされるということです。だれでも、イエス様の十字架によって救われたなら、その人は新しく造られた者です。Uコリント5:17。神の御子の尊い犠牲によって、罪赦され新しい命をいただいたのです。心と思いを以前のままにしておくことはできません。以前の心や思い、聞いていないと憤慨する心、こうでなければ気が済まないという頑なな考え、そういう心や考えが大胆に変わることを願います。この心と思いが新たにされるということは、一度だけ新たにされるのではなく、継続的に新たにされて行くこと、変化の連続性を意味しています。
そして、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人を身に着る」ことです。24節。私たちがイエス様を救い主と信じた時、十字架の救いを通して新しい人格が私たちの内に造られました。人は、創造された姿から堕落して、罪に支配される姿になっていました。しかし、イエス様の十字架を信じて救われるということは、罪の支配から解放されて、創造された姿が回復されるということです。イエス様は、人として世に来られ、まことの人とはどういう者かを示してくださり、私たちが失われた人間性を取り戻し、新しい人となれるように十字架に死んでくださり、三日目によみがえられました。ルカ19:10。
人は、何か耳新しいことを聞きたいと思っています。しかし、イエス様が私の罪のために十字架上で死なれたという話より驚異的な話が世の中にありますか。愛する主が私のために十字架上で尊い血を流されて、私の罪と滅びの中から救い出して、新しい命を与えてくださった愛の救いの御業である十字架の話のほかに何が必要でしょうか。これが昨日も今日も、私たちの中で最も大きな新しいニュースではないでしょうか。
イエス様が人として世に来られ、一切を経験されたのは、私たちの肉の人のために十字架にかかるためです。そして、人としてのイエス様の姿を通して、イエス様に救われるなら、イエス様のようになれるという目当てを見せてくださいました。20〜21節。古い自分のままだったら、イエス様の十字架の苦しみに対して申し訳ないという思いが出て来ないでしょうか。
皆さん、自分自身に質問して、心の中で正直に答えてみてください。自分の人生の目的は何だろうか。信仰生活するその目的は何だろうか。使徒パウロは、イエスに会った後、すべてのものを塵芥と感じたと告白しました。ピリピ3:7〜8。パウロは、ものすごい人でした。その門閥、学閥は一流、その活動、熱心さは人後に落ちませんでした。そんなパウロが、イエス様に会って、新しい人になりました。クリスチャンとして生きるために、それまで握りしめていたものを塵芥のように捨てました。私たちも、イエス様に出会って捨てたものは何ですか。今もなお捨てられずにあれこれ握りしめていることは何ですか。
現代のクリスチャンの問題も、イエス様を信じて救われたのに、内なる人が新しくならないということです。イエス様の十字架を信じるなら、新しい人になると約束されているにもかかわらす、多くの聖徒たちが、以前の古い自分のままなのです。新しく成長することを知らないのか、霊的に造り変えられることを拒んでいるのか、どちらにしても、以前の習慣、生き方を変えることなく、頑なな心と思いで生きているのです。救われた恵みを享受することなく、キリストの香を漂わすこともありません。
重要なことは、イエス様の救いを体験した者は、イエス様のように心と思いが変化して、イエス様のように生きる姿をこの世で見せて生きなければならないということです。20〜21節。教会とは、何でしょう。聖書解釈を議論したり伝道戦略を議論するところではありません。愛の行動と互いの仕え合いと御言葉の分かち合いをするところです。信じる人々が集まった所では、胸が熱くなる証があり、心からの悔い改めの告白があり、主の栄光をあらわすところです。そこから世に出て行き、証し人となります。旧い習慣をやめて、新しい信仰の習慣に生きることを決断を。ローマ12:2。
エペソ4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
4:19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。
4:20 しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。
4:21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
伝道者1:14 私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
ルカ19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
ピリピ3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
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