2017年6月25日「愛されている子どもらしく」エペソ5:1〜7
序−言葉が変わり、行動が変わり、人格が変わって行くクリスチャン人生ですが、どうして変えられえて行くのか、変わって行く理由、変わる原動力は何か、今日の箇所から学び、造り変えられる者となりたく願います。
T−神の愛がもたらした変化−1
人々が悩む基礎的なことは、自分は誰なのかというアイデンティーです。イエス様の十字架を信じて救われた聖徒たちに、「あなたは主に愛されている神の子どもだ」と言っています。1節。すでに主に愛されている子どもだから、愛されている子どもらしく歩みなさいと言われるのです。
主に愛されている子どもとして生きるということが、クリスチャン生活原理の第一です。人の子どもについて言えば、言うことを聞けば自分の子どもとするのでしょうか。自分の子どもだから、育み、養うでしょう。愛されている神の子どもも、同じです。イエス様を信じた人、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をくださいました。ヨハネ1:12。クリスチャンの生活は、ここから出発します。私は、主に愛されている神の子どもだという確信が、その人の生活を変え、人生を変えて行きます。神の子どもとされたということを忘れないでください。主に愛されている者だという誇りを持ってください。ヨハネ3:16。
世の中で多くの人々が、愛されていないことで問題になる場合が多いです。社会を驚かせる事件を起こした人ばかりでなく、普通の人々が、親の愛を受けられないで、愛の欠乏で人格が曲がってしまうことがあります。愛されていない人は、愛なんてない、愛するという言葉なんか嘘だ、人なんて信用できないというのです。そんなふうに言わなければならないとしたら、どれほど切ないことでしょうか。
ところが、イエス様を信じて救われた聖徒たちは、愛された神の子どもです。ですから、私たちは、サタンの囚われ人のような生活を生きる必要はないのです。神に愛された子どもらしく生きようとすること、これがクリスチャン生活の原理です。クリスチャンとしてのアイデンティーです。
私たちは、「イエス様が私を愛してくれて、十字架で私の身代わりに死なれた」という存在なのです。私たちは、自分を評価するのに、世の基準で評価すべきではありません。聖書の視点から自分の価値を認めるならば、高価で尊い人生を生きていくことができます。誰が自分のように欠けだらけの罪深い者のために死んでくれますか。ところが、聖なる神の御子イエス様が私のためにご自分の命を捨ててくださいました。神様は私を救うために多大な犠牲を払ってくださいました。それほどの愛に感動を覚えずにはいられません。私たちは、外側はひびだらけの土の器でも、その中に福音による救いという宝物が入っている器です。
U−神に倣う方法−2
では、神に愛された子どもらしく生きようとするには、どうしたらよいのでしょうか。「神にならう者となりなさい」と言うのです。1節。そんなこと可能なことなのでしょうか。子どもが親に倣うように、神の子どもも父なる神に倣うことは、可能だというのです。むしろ、神の子どもが父なる神に倣うことは当然ではないでしょうか。そもそも、人は、神のかたち、すなわち神のご性質に似せて造られた存在です。創世記1:27。その神のかたちがサタンの誘惑を受けて罪を犯すことで失われてしまったのです。救われた聖徒は、神の子どもとされた瞬間、そのかたちを回復し始めるのです。霊性と人格が成熟し、徐々にそのかたちが回復されていくのです。
何かを学ぶ時は、模倣が必要だと言われます。まず真似をすることです。それがうまく学ぶことができる近道です。そして、模倣すべき姿が備えられています。2節。「イエス様があなたがたを愛したように、あなたがたも愛のうちに歩みなさい」と言うのです。今日多くの人々が、愛の重要性を語っています。しかし、愛すると言いながら争い、文句を言い、別れています。愛の真の意味を知らなくて、このような現象が起こっているのです。ここに、愛の基準が教えられています。愛の基準とは、「キリストがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということです。ヨハネ13:34。
イエス様は、ご自身を神へのいえにえとしてささげられました。イエス様は、私たち愛して、ご自身をお捨てになられました。私たちは、被造物ですが、イエスは神の御子です。私たちは、取るに足りない罪人ですが、イエス様は罪のない聖い方です。私たちは、罪のゆえに死んで行く者ですが、イエス様は永遠の命を持っておられます。しかし、イエス様は、私たちの救いのために命投げ出されました。
言葉で聞いても、実感できないでしょう。人が、虫や蛇のために死ぬために虫や蛇となるなんて考えられますか。でも、理解しにくい絶対不可能なことが起こったのです。神の御子が、自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ、自分を卑しくし、実に十字架の死にまでも従われました。ピリピ2:6〜8。だから、イエス様に倣って、あなたがたの間でもそのような心構えでいなさいと勧めています。ピリピ2:4〜5。
人々の愛というのは、自分が持っていることを少しも犠牲にせずに愛しようとしています。愛と言いながら、本当にその愛する人のために自分をどうしているのか、一度考えてみましょう。自分の権利や物質、自分の考えや気分は、少しも捨てずに、あきらめずにそのまま愛しようとしています。むしろ自分自身のために他人を犠牲にしようという利己的なことを愛だとしているかもしれません。私たちは、どうですか。
2節の表現は、旧約時代の祭祀制度のことです。人が罪を犯したことで神様の罰を受けなければなりませんでした。神様は、哀れんでくださって、罪を赦され、神に近づくことができる道を与えられました。それが、この動物を神にいけにえをささげる制度です。自分たちの代わりに家畜をナイフで刺して血を流させ、体はいくつかの部分に裂いて火に燃やすです。その血を流す姿を見て、その燃やされる姿を見て、ああ、私たちはこのように罰を受けなければならない罪人だったと覚えるのです。その悲惨さを知って、再び罪を犯さないようにするのがこの祭祀制度です。
イエス様は、その旧約時代の祭祀のささげ物に使われた家畜のように自分を犠牲としてささげられました。十字架で悲惨な血を流し、肉を裂かれて、私たちが受ける罰を代わりに受けられました。しかし、私たちは、イエス様の犠牲とともに、救いという最大の贈り物最も大きな祝福を与えられたことを、いつも覚えなければなりません。「香ばしいかおり」を神様がかがれるというのは、神様がお喜びになられたということです。私たちが人を愛するということが、香ばしいかおりとなり、神様を喜ばせます。
V−愚かな言葉でなく、感謝する言葉を−3〜7
さらに、具体的な神に倣う者の生き方が、記されています。3節以下を見ると、神に倣って生きる聖徒として、当然行うべき生活が教えられています。3〜4節。「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談」は、聖徒が口にするに値しない言葉だから、言うのを避けなさいというのです。人事と思うでしょうから、「愚かな言葉」ワーストスリーを聖書の中からあげてみましょう。1位は、アダムの言い訳です。創世記3:11〜12。禁じられていた善悪の木の実を食べたことを問われると、アダムは自分の過ちを認めずに、妻のせいにしました。神が私のそばに置かれたこの女がと言って神様のせいにしています。私たちは、愚かな言い分けをしていないでしょうか。
2位は、カナンを偵察した者たちの否定的な言葉です。民数記13:31〜33。彼らが見たカナンの地は、本当に乳と蜜の流れる地、1房の葡萄を二人で担ぐほど豊かな地でした。否定的な面もよく調べる必要もあるでしょうが、その否定的な言葉のために、イスラエルの民は、一週間であれば通過することができる荒野を40年も巡ることになります。第3位は、イスラエルの民が神に言った不平や不満の言葉、呟きです。民数記11:1。神の怒りによって、彼らは罰せられました。神の多くの恵みは考えないで、少し不便なことに不満を募らせた彼らの愚かさを私たちの内にも見ることができます。人間は本質的に不平不満を言うのがより簡単です。でも、決して不満や恨みが、私たちを支配するがないようにしましょう。
私たちは、吐き出す言葉に注意するだけでなく、他人の言葉をどのように聞くかということも重要です。「むなしいことばに、だまされてはいけません」と言われています。6節。世にはもっともらしい言葉で私たちを騙そうとする人々があまりにも多いからです。多くの人々が他の人の言葉に騙されて、痛みや悲惨を受けています。聖書にも多くの欺く者が登場をします。長老教会の信仰と違うことを言っているなら、神学的だとか深い解釈だとか言っても、耳を貸さないでください。
否定的な言葉や愚かな言葉を言わないようにするだけでなく、かえって「感謝する言葉」を言うべきです。4節。イエス様に救われた者は、神様の恵みの中で生きるようになります。感謝エウカリステアには、カリス恵みという言葉が含まれています。私たちは、すべてのことで、神の恵みと愛を認め、感謝すべきです。厳しい現実といっても、神様を信じて頼る人は、感謝することができます。感謝しながら生きる人は、いつも感謝の材料が生じ、不満や恨みを持ちながら生きる人は、いつも不満や恨みの材料が生じるものです。愛と感謝で生きましょう。Tテサロニケ5:16〜18。
エペソ5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
5:6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
創世記1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
ヨハネ13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ピリピ2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
創世記3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
民数記13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
Tテサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
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