2017年8月20日「主に愛され、主を愛する」エペソ6:23〜24
序−エペソ書を学び始めて半年になります。わずか6章の短い書簡ですが、イエス様を信じた者は造り変えられるという福音の真理を教えてくれた書でした。最後の祝福の所を学びます。獄中からの手紙です。単なる挨拶ではありません。この中から大切な意味を発見できます。
T−祝福の言葉、平安があるように−23
使徒パウロは、祝福の言葉をもって、エペソ人への手紙を終えようとしています。23〜24節。祝福は、誰でも好きです。祝福を受けたいですね。この祝福はパウロの権威によるのではなく、神様から、イエス様からの祝福です。ですから、祝福は受ける者がどうかで祝福が決まります。受ける者がふさわしいと祝福が臨むと言ってよいでしょう。そうであるならば、聖徒自身も、祝福にふさわしい生活をしなければならないでしょう。
まずはじめの祝福は、平安の祝福です。23節。聖徒たちが、困難や問題で暗澹たる思いの中で、恐れと不安の只中にあるなら、まず必要なのは、神様からの平安です。暗澹たる思いになるなら、何も思い煩わないで祈りなさいと言っています。ピリピ4:6〜7。そうしたら、困難な状態でも、神の平安が与えられるというのです。私たちのために十字架にかかられた救い主イエス様は、その救いのゆえに、繰り返し私たちに平安を与えると約束されました。ヨハネ14:27, 16:33。イエス様が私たちの罪と滅びの身代わりに十字架にかかり、復活されることによって死と滅びに勝利されました。
平安という言葉エイレーネとは、結び付けるという言葉から派生しています。ですから、真の平安は、私たちが神様と結び合わされた時に与えられたものだということです。もともと人というものは、神様に似せて造られ、神の子どもとして神を賛美して、神に従って生きるものとして創造されました。ところが、サタンの誘惑によって神から離れ、神の御言葉に従わず、罪を犯して反抗するようになってしまいました。そうして、主にある平安を失ってしまったのです。
そんな私たちのために、イエス様が世に来られ、私たちの代わりに十字架にかかり、私たちを神様と再び結びつけ、神の子どもとしての平安を受けるようにしてくださいました。イエス様の救いに与った者は、その信仰のゆえ平安に導かれるのです。イエス様は、復活された時にも、恐れと不安の極致にあった弟子たちに対して「平安があなたがたにあるように」と言ってくださいました。ヨハネ20:19。どんなにありがたかったことでしょう。
戦いや葛藤のない平和な生活が営まれていれば、人は平安でしょう。ところが、戦いや葛藤のない平和どころか、世では様々な戦いや葛藤があります。職場や家庭にも戦いや葛藤がある悲しい現実となっています。互いに助け、和解して生きることが平安です。本当の幸せは自分の欲求より、他の人のために何かできるということにあります。理解してもらうより理解すること、愛されることより愛することが本当の幸いです。
U−神がまず私たちを愛してくださった−23
もう1つの祝福は、信仰に伴う愛です。23節。どうして信仰に伴う愛と言っているのでしょう。世の中では、愛という言葉がたくさん使われています。多くの人々が愛すると言っています。しかし、真の愛がありません。自己愛や、見返りの愛、要求する愛、奪う愛です。自分を犠牲にして、献身する愛ではありません。信仰から出た愛ではありません。世にあふれる愛は、非常に肉的で、独善的な愛でいっぱいです。
ですから、信仰に伴う愛が重要です。この愛は、父なる神と主イエス・キリストからと言っています。救われる前の私たちの生活はどうでしたか。エペソ2:1〜3。まず、罪の中に死んでいたような者でした。そのために、イエス様が十字架に犠牲となられ、私たちを救ってくださいました。ここに神の愛があります。ヨハネ3:16。以前は、この世の流れに従う生活でした。世の罪の習慣と価値観に流される生き方でした。世の標準は、自己中心的、肉的、見た目的です。神の標準は、御言葉中心、変えられる生活です。
救われる以前の私たちは、空中の権威を持つ支配者、すなわちサタンに知らないで従っていました。そして、肉の欲に従って歩んでいました。その結果、神の御怒りを受ける者であり、神の裁きの対象であり、行き着く先は滅びでした。余りにもかわいそうな悲惨な姿です。そのような境遇にあった私たちを神様はあわれんでくださり、御子イエス様を世に送ってくださり、私たちの身代わりに十字架の犠牲とされました。エペソ2:4〜5。余りにも大きな神の愛、ただ神の恵みによる救いの御業でした。私たちのしたことは何もありません。どんなに感謝なことでしょうか。
まず神様がこんなにあわれんで、愛してくださったので、救われた私たちは、人々を愛するようになります。Tヨハネ4:19。ですから、今朝の個所で、信仰に伴う愛と言っているのです。私たちは、イエス様を信じて、この信仰によって、人々を愛するようになります。イエス様を信じる者に最も明らかにあらわれるのが、愛です。信仰があると言いながら、愛がなければ、その愛を点検してみる必要があります。
こうして神様の祝福を受け、愛を受けたのに、私たちは祝福の言葉と愛の言葉を惜しんでいないでしょうか。他の人に祝福と愛の言葉を言うのは、他の人のためと思っているのでしょうか。しかし、実はその祝福と愛の言葉が自分を生かします。人の心はどのように知ることができるでしょうか。その人の口から出て来る言葉を聞けば分かると言います。マタイ15:18。不満を言いながら感謝の心でいる人はいません。祝福と愛の言葉を出すには、自分の心が祝福と愛に満たされていなければなりません。
ある夫婦関係の権威である教授は、夫婦生活において4つの言葉を用いてはならないと強調しています。それは、非難の言語、侮辱の言語は、自己弁明の言語、無視の言語です。このような言葉を互いに用いる夫婦関係は破綻するようになると言っています。そのような人々でも、死ぬ時には、ごめん、愛しているよ、ありがとう、と言うそうです。でも、生きている間に、愛しているよ、ごめんなさい、ありがとう、という言葉をたくさん言う人が恵みを受けるのです。
言葉が感情の鍵となり、一言が人生を楽しくしたり、悲しくしたりします。一言が聞く人に勇気を与え、落胆させます。ところが、人々は祝福より呪いの言葉を多く発するのです。人が一日に30個の否定的な言葉を聞くとするならば、一日にやっと2.7個の肯定的な言葉を聞くことになるそうです。聖徒たちも、賛美とのろいが同じ口から出て来るようではなりません。ヤコブ3:9〜10。祝福は壊れた関係を直し、本来の自分を回復させてくれます。
V−主イエス・キリストを愛する者に恵みが−24
三つ目の祝福は、イエス様を変わらずに愛する人に、恵みがありますようにということです。24節。この結びの言葉が、私たちの心を捕らえます。信仰があると言いながら、愛がないというのは、どういうことか点検してみると、イエス様を信じていても、イエス様を愛しているか、ということに行き着きます。あなたは、イエス・キリストを本当に愛していますか。多くの聖徒たちが、イエス様を信じると告白しますが、イエス様を愛するとは告白しません。
私たちは、イエス様を愛しますと告白する必要があります。それが、本当に信じることになります。イエス様を愛していますと言う聖徒も、自分を点検してみてください。私たちに必要なのは言葉ではなく、本当に愛する感情です。本当に愛する人には、隠すことができない感情があらわれます。どんな献身も惜しくは無く、人々をも愛するようになります。イエス様に救われて、愛されたパウロは、得であったものをみな塵芥と思うようになったと言うのは、イエス様を愛していたからです。どれほど自分を縛っていたストレスから自由になったことでしょうか。
神様のご計画は、私たちがイエス様を信じることだけではありません。イエス様を私たちが愛することです。イエス様の十字架の恵みを知ったら、誰でもイエス様を愛するようになるはずです。私たちは、自分が滅び行く罪人であると悟ったからこそ、イエス様の十字架の福音を信じました。自分はイエス様を愛しているのだろうかと自問自答すれば、まあまあ愛しているのでは、一所懸命頑張っているし、まじめに信仰生活をしているから、などと考えるでしょうか。
しかし、私たちは、一生懸命やった、まじめに信仰生活をしているというところに落とし穴があります。イエス様がエペソ教会に向けた手紙には、聖徒たちの労苦と忍耐の賞賛がありますが、厳しい非難もありました。黙示録2:1〜5。エペソ教会の聖徒たちは、一生懸命労苦し、忍耐して頑張ったけれども、いつの間にかイエス様を愛する「初めの愛から離れてしまった」のです。悔い改めて、はじめの愛に戻らないなら、滅びを招くと戒められました。私たちも、いつしかこの落とし穴に落ちていないでしょうか。
復活されたイエス様は、ペテロに対して「あなたはわたしを愛しますか」 と質問されました。ヨハネ21:15〜17。この場面だったら、「あなたは福音を伝える力があるか、迫害に耐える覚悟があるか、再び裏切ることはないか」など問うべきところでしょう。しかし、イエス様は、3度「あなたはわたしを愛しますか」と繰り返し、愛を確認しています。なぜでしょう。その愛の中に使命があり、その愛の中に力があるからです。イエス様を愛する愛があるなら、献身しても喜びがあるからです。Tペテロ1:8。
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