2017年9月3日「心が萎えたままでいいのですか」ヨエル1:15〜2:11
序−コップに水が半分しかない、半分もある。食べられない葡萄は、酸っぱい葡萄だ。このような例は、状況の受け止め方の違いで使用されるものです。人が患難や問題に出会った時、どう受け止め、判断するかで、その後の取り組みや歩みもまったく違って来るものです。私たちも、きょうの聖書の個所から、そのようなことを学びましょう。
T−悔い改めて、主に立ち返ろう−13〜15
未曾有のイナゴの害に受けた民に対して、悔い改めと聖会を求めていました。13〜14節。どうして災害に出会った人々に悔い改めや聖会が必要だったのでしょうか。彼らに必要なのは、神の助けではないか。それはそうなのですが、そのままでは助けも受けられない、いや、民の災害の受け止め方では、彼らが助けを求めなくなるからです。イナゴの害に会った人々は、どんな受け止め方をしたのでしょうか。私たちは、患難や問題に出会った時、どんな受け止め方をするでしょうか。
イスラエルの民は、甚大なイナゴの害を主の日が臨んだと受け止めるからです。15節。聖書には、やがて世の終わりが来る、主の日が訪れ、主の裁きが行われると教えられています。イザヤ13:6。「主の日が夜中の盗人のように来る」というのを読んだことがあるでしょう。Tテサロニケ5:2。人々は、今起こっているイナゴの害があまりにも凄まじいので、主の日を思い起こし、主の日の先触れと考えるというのです。ただし、主の日の捉え方が問題となります。主の日をただ裁きが全世界を覆い、絶望で暗闇のようだという印象を持っていました。アモス5:17〜20。
しかし、「主の日が夜中の盗人のように来る」という警告の所を読むと、イエス様を信じて救われている者は、光の子となっており暗闇にはいないから、ただ目を覚まして慎み深くしていなさいと勧めています。Tテサロニケ5:4〜6。そして、神様は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったと宣言しています。イエス様があなたのために十字架にかかってくださったのだから、どのような状況の中でも、イエス様と歩むようにと勧めています。Tテサロニケ5:9〜10。
イスラエルの民は、主の日を思い起こしたのはいいのですが、だから絶望だ、暗闇だと考えてしまったのです。彼らの心が神様から離れていたために、余計にそのように考えてしまったのです。ですから、民がそれまで会ったこともないような甚大な災害に会った時、悔い改めと真実な礼拝を必要としたのです。イエス様の十字架の犠牲を自分の罪と滅びの身代わりだと信じた者は、罪赦され、天国への命が与えられています。しかし、その信仰の姿勢の違いによって、聖徒たちが、実際の患難や問題に出会う時、それらをどう受け止めるかに違いが生じ、そのために取り組みやその後の状況に大きな違いが出て来るのです。
U−気力を失い、心がなえる−15〜18
甚大なイナゴの害に出会って、主の日を連想したイスラエルの民は、どのように考えるのでしょうか。イザヤ13:6〜7を見ると、主の日が来ると、「すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる」と言っています。人が患難や事件に出会い、失望落胆すると、否定的に捉え、気力を失い、心がなえてしまうものです。学習性無気力感という心理学の用語があります。長期間にわたってストレス回避困難な環境に置かれた人が、その状況から「何をしても意味がない」と学習し、逃れようとする努力すら行われなくなる現象を言います。
どうやら、イスラエルの民も、気力を失い、心がなえてしまったようです。15〜18節。16節では、大量のイナゴの飛来によって、目の前で食物が断たれたために、神の宮から喜びも楽しみも消えうせたと言っています。それは、礼拝をささげるのをやめてしまったからです。9節。問題が起こって礼拝どころではないという感じでしょうか。イナゴの害でささげる物がなくなったのは確かですが、ささげものは無くても、礼拝はできます。心が萎えた結果、しなくなったのです。患難や災害の時こそ、真実な礼拝をささげ、そこから立ち上がる道なのに、逆の行動をしたのです。
17節では、種は干からび、倉は荒れすたれ、穴倉はこわれたのは、穀物がしなびたからだと言っています。穀物がイナゴによって食い尽くされたのは確かですが、それで彼らの心が萎れてしまい、種を蒔いても無駄だと放置し、倉をほったらかしにし、怒って穴倉を壊してしまいました。現代の人々にすれば、テストに失敗すれば勉強しても無駄だと言い、仕事が評価されなければ怒ってやる気を失い、患難が続ければ何をやっても意味がないと思い、努力や前進をやめてしまう姿でしょうか。
18節では、家畜がうめいて、群れがさまようのは、牧場がないからだと言い訳を言っています。家畜が滅びると人事のように言っていますが、農夫が蝗害で気力を失い、心が萎えてしまった結果、家畜をほったらかしにし、世話を止め、牧場を荒廃させたということです。患難や事件で失望落胆すると、仕事が手につかなくなり、生活の動きが滞り、生活が荒れ果ててしまうことがあります。原発事故で避難を余儀なくされた人々は家畜のことを心配していましたが、蝗害で心がなえてしまったイスラエルの民は家畜を顧みる事もしなくなったのです。
人は、いっぱい困難に会うと、続けて困難にぶつかると学習性無気力感に陥ってしまいがちです。私たちは、どうですか。思い当たることはありませんか。患難や災害が起こることが問題ではなく、そのために私たちの心や気持ちがどうなるかが、問題となります。気力を失い、心がなえてしまえば、回復への取り組みはなされず、ますます悪い状況となってしまいます。
近年災害が多く、被害が甚大ですが、単純に異常天候のせいばかりではないようです。危険個所の放置、乱開発、植林による山林破壊などの人災の面が取り沙汰されています。私たちの勉強や仕事、家庭生活においても、事件や問題や失敗が様々ありますが、私たちは、それらを通して主が語られるメッセージを読み取り、信仰をもって受け止め、取り組みたいのです。それを主は、私たちに望まれておられます。
V−私は主に呼び求めます−19〜20
預言者ヨエルを通して、悔い改めて、真実な礼拝をささげて、主に向かって叫べと勧められた民は、御言葉を聞く必要がありました。彼らは、甚大なイナゴの害によって、飢饉に陥ったでしょう。でも、神の民の問題は、飢饉で食べるものがないことではなく、患難があることではなく、御言葉を聞くことの飢饉、主に聞き従うことの飢饉でした。アモス8:11。
ヨエルの伝える御言葉を聞きましょう。19〜20節。災害や患難、事件や問題が起こるならば、主に回復を叫び、あえぎ求めて祈り、主に望みをかけなければなりません。どんなに大きな患難でも、どんなに難しい問題でも、主に祈ることができます。難しい、駄目だというのは、気力を失い、心がなえた私たち自身が言っているだけです。私たちの思いもよらない大いなることを主は教えてくださり、私たちの思いと願いを越えて主は働いてくださいます。主に向かって叫び、祈りましょう。
主は勉強を助けてくださらないのですか。私たちの仕事に主は関心がないのですか。主は私たちの病気に無力なのですか。私たちは、自分の仕事や勉強、病気や問題について、主に話す必要があります。気力を失い、心が萎えるなら、なおのこと、その心や思いを主に祈って、知ってもらわなくてはなりません。ピリピ4:6〜7。失意や絶望の思いを主に叫び、祈るなら、主の取り扱いを受け、涙や患難の中でも平安が与えられます。
イエス様を信じた私たちは、何者ですか。十字架という尊い犠牲をもって救われた私たちは、何者なのか。それほどに神様に愛された者、神様が味方だと言ってくださる者です。ローマ8:31〜32。どんな状況でも諦めてはなりません。失望落胆してはなりません。解決が分らなくても、出口が見えなくても、患難や問題が続いていても、私たちをイエス様の十字架によって救ってくださった神様の愛は変わりません。天地を造り、治めておられる神様が、私の味方なのです。ローマ8:31〜32。
ですから、主の日は、災害だけでなく、神様の愛の機会でもあります。神様は、患難や問題を通して、悔い改めに導き、私たちの信仰を新にしようとされています。患難や問題は、信仰の確かさやダイナミックな主の導きを体験することのできる機会となります。それまで患難に出会ったことのない聖徒が、患難を通して信仰の大きな恵みを体験して行きます。苦しみや涙の中で主への信頼を増し加え、信仰の力や恵みの深さを味わいます。
患難や問題に出会って、心萎えたままでいいのですか。気力を失い、心が萎えたならば、悔い改めて、主に立ち返り、主に叫び祈りましょう。イエス様は、私たちが出会う患難や試練に会われ、患難の中にある私たちの心もご存知です。ですから、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。ヘブル4:15〜16。
ヨエル1:15 ああ、その日よ。【主】の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。
1:16 私たちの目の前で食物が断たれたではないか。私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。
1:17 穀物の種は土くれの下に干からび、倉は荒れすたれ、穴倉はこわされた。穀物がしなびたからだ。
1:18 ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。
1:19 【主】よ。私はあなたに呼び求めます。火が荒野の牧草地を焼き尽くし、炎が野のすべての木をなめ尽くしました。
1:20 野の獣も、あなたにあえぎ求めています。水の流れがかれ、火が荒野の牧草地を焼き尽くしたからです。
イザヤ13:6 泣きわめけ。【主】の日は近い。全能者から破壊が来る。
13:7 それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。
Tテサロニケ5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
アモス8:11 見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。
ピリピ4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
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