2017年10月1日「わたしの民、わたしの地」ヨエル3:1〜8
序−ハラスメントという現代用語があります。様々な嫌がらせやいじめの類につけて、〜ハラと言います。たとえば、パワハラ、セクハラなどです。30数種類挙げられています。現代社会では、様々ないじめがあらゆる所で行われています。何と、ヨエルの時代のユダの民は、いなごの害だけでなく、周囲の国々からの酷いいじめに会い、苦しんでいました。
T−蝗害以外の害、近隣諸国のいじめ−2〜3,5〜6
いなごの害からの回復、繁栄をもとどおりにする約束が2章でされていましたが、ここでも、「いつか繁栄を元どおりにする」といううれしい約束の宣言です。1節。ここでの繁栄を元通りにしてくださるというのは、どのような状況から回復してくださるというのでしょうか。民は、他にいったいどんな害を受けていたのでしょうか。どのような苦しみを受けて、悲しみや絶望の中にいたのでしょうか。
まず、2節後半。いなごの害や戦いで疲弊したユダの民をその混乱の中で捕らえ、諸国に売り散らしてしまい、民の土地を奪って、自分たちの間で分け取った人々がいたというのです。酷いことに、彼らは、ユダの民を子どもたちまで奴隷として売ってしまったのです。3節。それも、酒を飲む金を得るためでした。その酷さは、彼らが海外貿易をしているギリシャ商人に売って、遠くの国に散らしたというのです。6節。これは、酷いです。精神的は苦しみ、悲しみは、あまりにも大きかったでしょう。
この奴隷の境遇、家族離散の酷さは、いなごの害も比べることもできません。そんな酷いことをしたのは、ツロ、シドン、ベリシテという小さな近隣諸国です。4節。ユダの民が繁栄している時、彼らはその繁栄と強さを妬み、自分たちとは違って、信仰に生きていた神の民を疎ましく思っていました。自分たちとそれほど違わない規模の国なのに、繁栄し、しっかりしていて、時には大国にも伍していたからです。ですから、ユダの民が弱くなった時、彼らは攻撃し、奪い、酷い取り扱いをしていたのです。
聖書に、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とある通りです。Uテモテ3:12。ですから、ただ奴隷に売るだけでなく、もう国に戻れないように遠くの国に家族ばらばらに売り飛ばしたのです。さらには、神の民の精神的支柱である神殿を荒らして、その銀と金を奪い、彼らの偶像の宮に運んで行きました。これは、ただ金目の物が欲しいからだけでなく、そうすることで神の民の心をずたずたにする意図がありました。まさに、嫌がらせ、いじめです。いなごの害より、ユダの民にとっては辛く、苦しいことでした。深い悲しみと絶望におおわれたことでしょう。
今日、経済的な破綻、厳しい労働環境、社会的混乱の中で、人々の心が疲弊し、展望がもてない逼塞間の中で、嫌がらせやいじめが横行しています。30数種類のハラスメントが取り沙汰されているのは、あなたは〜ハラをしていないかという警告の意味があります。それだけ多くなっている、行っていることに気付かない、野放しになっている社会環境だからです。
私たちは、どうでしょうか。どんな嫌がらせやいじめに会っているでしょうか。職場や学校、家庭や近所と言った身近な環境で起こっています。人間関係のある所に生じています。ハラスメントを与えた側は、受けた者がどれほど精神的苦痛を受けているのか分からないのでしょうが、受けた側の心の痛みや悲しみは深いのです。そこから抜け出すには、どうしたらよいのでしょうか。癒される手立てが何かあるのでしょうか。
U−報復は主のなさること−1〜2,4,7〜8
深い悲しみと苦しみの中であった神の民に対して、神様はどうしてくださるというのでしょうか。民をいじめた彼らのしたことに応じて、彼らを裁くと言われます。2節。彼らが神の民に酷いことをしたので、それに対して報復すると言われます。4節。彼らがユダの民を奴隷に売って散らしたので、主もまた彼らをそうしようと言われます。7〜8節。
いじめられた者は、いじめた者が罰を受けるならば、溜飲が下がるでしょう。しかし、報復を勧めているのではありません。これには、深い意味があります。ユダがそれらの国々に仕返しをしたということはありません。報復するのは、民ではなく、神様だということです。でも、いじめを受けた民の心の痛みは大きく、そのままではいられないでしょう。憎しみや悔しさも増大するでしょう。
神様は、民や私たちに報復などはさせたくないから、「わたしが報復する」と言われたのです。裁きは神様の領分です。「復讐はわたしのすること」と神様は言われます。申命記32:35。イエス様も、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。これが、私たちの従うべき模範です。Tペテロ2:21〜23。
御言葉が繰り返し言っていることは、自分の力で問題を解決しようとしないで、主の下に走って来なさいということです。自分の頭だけで考え、自分の力でしようとすれば、もっと深くその問題に陥り、悩むようになるからです。ただ神様が自分に願われることは何かを考えて、それをしなさいということです。私たちは、一つのことに心と思いが没頭すると、それに囚われてしまいます。その時の状況や自分の心情が思い出されて、その時に傷に結びついてしまうからです。
報復って言葉だけじゃないかという民の声もあるでしょう。ですから、神様は、「彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で裁く」と言われます。2節。かつてユダ王国が周囲の国々から攻められた時、ヨシャパテ王が神様を信じて賛美するように命じると、主が伏兵を置いて勝利させ、同士打ちをさせたという出来事がありました。U歴代20:20〜26。ヨシャパテという名前自体、「主は裁かれた」という意味です。
ヨシャパテの谷と聞いて、いつか主が裁いてくださると理解したことでしょう。そして、神様に委ね、任せるのです。心が痛んでいる時、悩みや悲しみに沈んでいる時、神様は私を見ておられないのでは、私の苦しみを知らないのではと思います。しかし、主は、悩む私を見ておられ、私の叫びを聞いておられ、私の痛みを知っておられます。出エジプト3:7。慰めの言葉をかけてくださいます。イザヤ40:1〜2。
V−わたしの民わたしの地−2〜4
なぜ、このように主がユダの民を顧み、報復されるとまで言われたのか、もう一つの理由があります。繰り返し、「わたしの民」に「わたしのゆずりの地」で酷い仕打ちをしたからと言っています。ユダの民をいじめる周辺国に対して、「おまえたちは、わたしに何をしようとするのか」(4節)と言われたのは、痛みを受けている聖徒たちと神様ご自分を一致させておられたのです。彼らが聖徒たちにした酷い仕打ちは、神ご自身にしたことと同じだということです。ユダの民が酷い仕打ちを、主ご自身が一緒に受けてくださったのです。神の愛とあわれみが、こうまでされたのです。
サウロがイエス様を信じる者たちを迫害していた時、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と主が言われました。使徒9:4。サウロがイエス様を信じる者を迫害していたのは、イエス様ご自身を迫害したのと同じだというのです。イエス様は、天国を所有する者たちは、誰かというたとえ話の中で、イエス様を信じる小さな者たちにしたことがイエス様にしたことだと言われました。苦難を受ける聖徒たちとご自分を一致させておられました。マタイ25:34〜40。何と言う愛とあわれみでしょうか。
それは、苦難を受ける聖徒の救いのためにイエス様ご自身が身代わりとなられたということに行き着きます。イザヤ書に「苦難のしもべ」と言われる箇所があります。イザヤ53:2〜3。「彼には、見とれるような姿もなく、輝きもなく、見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、彼を尊ばなかった」と言われる姿こそ、イエス様の姿です。実際にイエス様は、ユダヤ社会の指導者たちに妬まれ、いじめられ、嫌がらせを受けました。
苦難のしもべの苦しみの目的は、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担うことで私たちに平安をもたらし、その打ち傷によって、私たちを癒す」ことでした。イザヤ53:4〜5。私たちも、人々からさげすまれ、ののしられ、のけ者にされ、痛め付けられ、悲しみと病を負うことがあります。いじめや嫌がらせ、ハラスメントを受けることがあるでしょう。そんな時、救い主イエス様が私の痛みを担い、私のために蔑まれ、罵られ、悲しみと病を負われたことも思い出すのです。
イエス様感謝します。イエス様は、私たちを救い、癒し、平安を与えるために、十字架にかかられ、苦しまれました。イエス様の打ち傷のゆえに、私たちは、癒されます。Tペテロ2:24〜25。イエス様を信じて救われた者は、主の民です。「わたしはあなたの受けた傷や痛みをこの身に負って十字架にかかったよ。あなたは癒されるよ」とおっしゃってくださるのです。自分のたましいの牧者である主のもとに来ましょう。
ヨエル3:1 見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、
3:2 わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。
3:3 彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。
3:4 ツロとシドンよ。おまえたちは、わたしに何をしようとするのか。ペリシテの全地域よ。おまえたちはわたしに報復しようとするのか。もしおまえたちがわたしに報復するなら、わたしはただちに、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返す。
3:5 おまえたちはわたしの銀と金とを奪い、わたしのすばらしい宝としている物をおまえたちの宮へ運んで行き、
3:6 しかも、ユダの人々とエルサレムの人々を、ギリシヤ人に売って、彼らの国から遠く離れさせたからだ。
3:7 見よ。わたしは、おまえたちが彼らを売ったその所から、彼らを呼び戻して、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返し、
3:8 おまえたちの息子、娘たちを、ユダの人々に売り渡そう。彼らはこれを、遠くの民、シェバ人に売る、と【主】は仰せられる。
Uテモテ3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
申命記32:35 復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」
ヘブル10:30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。
Tペテロ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
T列王6:13 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。
出エジプト3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
イザヤ40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
使徒9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
マタイ25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
イザヤ53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
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