2017年10月8日「裁きの日か、救いの日か」ヨエル3:9〜21

序−RAS(網様体賦活系)という脳科学の用語があります。脳の中にあるフィルターシステムの事です。必要でない情報と必要な情報を振り分けている脳の重要な働きです。その基準は、「自分が重要だと判断した事」です。そのために勘違いや錯覚が起こります。見えているのに見えない、知らされているのに気付かないのです。人は、裁きについても、自己中心性のために思い違いをしています。

T−裁きの谷に集まれ−9〜15
 ヨエル書は3章しかない短い書です。この短い書の中に「主の日」という表現が繰り返し出てきます。主の日が臨むことを何度も繰り返し強調しています。なぜこのように繰り返して、主の日が臨むことを強調しなければならないのでしょうか。人々が主の日は来ないと思い違いをしていたからです。裁きなんてあるはずがない、裁きがないほうが都合がいいという自己中心の思いが、裁きが来ないと判断させたのです。それで、民は、神から離れて自分勝手に生きて、罪を犯し、悪を行うようになりました。
 預言者ヨエルが伝えるのは、世界の国々に対して、武装してヨシャパテの谷に集まれと宣言しています。9〜12節前。それは、裁きのためだと言っています。12〜15節。ヨシャパテの谷とは、南ユダ王国に近隣諸国が攻撃して来た時、神は、ヨシャパテ王に聖歌隊を前面に出して戦うように言われました。そのようにすると、近隣諸国連合軍は、互いに同士打ちしてユダ王国は勝利することができたことを思い出させています。U歴代20:20〜23。神様が、敵を裁いてくださった象徴的出来事でした。ヨシャパテという名の意味自体が、「神が裁かれた」という意味でした。
 ですから、ヨシャパテの谷とは、具体的な谷というのではなくて、神様の裁きがなされる所だということです。14節では、「さばきの谷」と言っています。刈り入れや収穫は、神の裁きを表しています。黙示録14:14〜20。旧約の預言は、新約時代を預言したものです。新約時代は、異邦人にも、福音の知らせと光が臨みました。しかし、イエス様は、その福音の時代が世の裁きの時代ともなると言われました。ヨハネ12:31。ですから、ヨシャパテの谷の裁きは、一日に行われるのではなく、新約時代にも続く裁きであり、この裁きは異邦人とユダヤ人がすべての人々が対象となるのです。
 すでに、裁きについては、ノアの洪水という例が示されていました。創世記6章。裁きについては、知らされていたのに、ユダの民は考えていなかったのです。ロダンの「考える人」という有名な彫刻があります。実は、この作品は、元は地獄の門という大作の一部です。考える人が考えていたのは、裁きのことだと言えるでしょう。「私はどのように生きて来たのか」、「神は果たしてどんな判決を下されるのか」、「私はどう生きればよいのだろうか」このようなことを考えていたのでしょうか。この世は永遠のように思えても、そうではありません。私たちの人生もそうです。ヘブル9:27。私たちも考えなければなりません。

U−主の日は、救いの日−16〜21
 主の日はさばきの日と言っていますが、同時に救いの日でもあります。16〜21節。「だが」という言葉が、強調されています。16,21節。イエス・キリストを信じる人々は、神の救いの恵みを受けて、裁きを免れるということです。イエス様を信じて救われた人は、イエス様が私たちの受けるべき裁きを十字架によって代わりに受けてくださったので、裁きが会うことがありません。ヨハネ5:24。イエス様の十字架の犠牲は、私たちに罪の赦しと天国のいのちが与えられるためだけでなく、私たちが裁きに会うことがないようにしてくださるためだったのです。何と言う恵みでしょう。
 神様は、ご自分を信じて頼る民の避難所となられ、救われた民は聖なる民となり、神の聖徒たちに完全な満足を与えると言われました。16〜18節。18節のシティム渓谷の様子は、黙示録の天国を彷彿とさせる姿です。黙示録22:1〜2。永遠の命をいただいて、主とともに永遠に一緒にいる希望が与えられるとは、何とすばらしい祝福でしょうか。20〜21節。
 使徒17:30〜31のパウロの説教は、ヨシャパテの谷の裁きが新約的には何なのかを示しています。新約の時代は、イエス様の福音を受けて、私たちに救いがもたらされるようになりました。同時に、福音を受けるという恵みは、受ける者に責任があるようになったということです。すなわち、福音は受け入れる人には救いという祝福が与えられますが、そうでなければ裁きに至るということです。ヨエル3章で言うヨシャパテの谷の裁きは、福音による人々の救いか裁きかという壮大な真理の預言なのです。
 使徒パウロは、ルステラで福音を証ししながら同じことを語っています。使徒14:15〜17。新約時代には、すべての人々に、神様に立ち返って、イエス様を信じて、罪の赦しを受けるようにと、福音のメッセージが使徒たちを通して証しされているので、この機会を退けるならば裁きに会うようになるというのが、さばきの谷の新約的な意味です。
 さばきの谷は、判決の谷とも訳されています。イエス様を信じる者は、判決に勝利することができます。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになります。ローマ14:10。神の裁きの座の前に立って、尋問を受けることを想像したら、しどろもどろになってしまうでしょうか。判決を恐れるしかないでしょう。しかし、そこへ、イエス様が来られて、「この人は十分ではありません。立派にはできませんでした。でも、この人はわたしを信じて生きて来ました」というように私たちを弁護してくださいます。Tヨハネ2:1。私たちのために十字架にかかられたイエス様だけが、私たちを判決の谷から解放することができます。イエス様を信じてください。
 出エジプトの時、エジプトに裁きが下りましたが、小羊の血を家のかもいと門柱に塗った民だけが裁きを免れました。救い主イエス様の十字架の血が私たちを救います。他に私たちが救われる道はありません。私たちがイエス様を信じるならば、主の日は裁きの日ではなく、救いの日となります。Uコリント6:2。私たちは、思い違いをしてはなりません。決して人間の日が永遠なのではありません。必ず主の日が臨みます。裁きが臨みます。裁きを逃れる道はただ一つ、イエス様を信じて、主の民になることです。そうすれば、主の日は、救い日、祝福の日となります。

V−判定するのは、人でも自分でもない−Tコリント4:1〜4
 私たちは、勘違いしているのは、この神の判決、判定を忘れて、何と人や自分の判定や判断に揺れ動いていることです。私たちが人生を生きて行くのに難しいことの一つが、判断されることです。私たちは、どのような存在ですか。イエス様のしもべです。主キリストが主人です。そうしたら、当然主のしもべとして忠実に生きて、忠実に働こうとします。Tコリント4:1〜2。でも、忠実に生きようとするけれども、障害が生じます。
 私たちは、信仰生活もしながらも、人々の判断によって傷を受けます。Tコリント4:3には、2つの判定、判決があります。人々による判定と自分による判定です。私たちは、常に周りの人々の判定や判断に振り回されています。職場での上司や同僚の評価や判断を受けたり、周辺の人々から批判されたり、プライドを傷つけられたりして、傷を負います。自分をよく知りもしないくせに、他人が自分のことを勝手に判断するのも多いです。それなのに、あたかも決定的な判定のように受け止め、判決を受けたかのようにずたずたにされてしまうのです。
 自分の判定の方が、もっと問題かもしれません。他の人が自分に対してするうわさ話は、気にしないで耐えることもできます。自分で自分を裁いて自虐するのは、その害は大きいのです。自分をよく知っているがゆえに、自分で自分を打ち叩くことになることもあります。他の人が見るのに何の問題もないのに、自分だけが知っている問題で信仰生活に大きな害をもたらしてしまうこともします。
 使徒パウロは、この2つの判断について何と言っていますか。「人による判決を受けることは非常に小さなこと、自分で自分を判定もしない」としました。Tコリント4:3。かといって、人の批判を聞かず、自己反省もしないで厚顔無恥を決め込むということではありません。Tコリント4:4で言うのは、問題がないということはないが、むしろ問題はあるけれども、人の判決や自分の裁きに振り回されないで生きて行くということです。救われた者は、このことで大胆になる必要があります。
 人の判決や自分の判定に引かれていくと、決定的な害を自分に招くことになります。そうではなくて、「私をさばく方は主です」という最終的な判定者である主に委ねるのです。自分に関しても、他人に関しても主に判断を仰ぎ、主に判定を問うのです。そうすれば、謙遜に批判を聞けるし、健全に自分を受け入れ、健康な心で前進して行けます。人からの判定で受けた傷の上に自分で裁いて自分に傷を与えないでください。
 あなたは、イエス様を信じて救われているのです。裁きから開放されています。イエス様を信じたあなたを、イエス様が弁護してくださいます。今は恵みの時、今は救いの日です。Uコリント6:2。



ヨエル3:9 諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。
3:10 あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。
3:11 回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。──【主】よ。あなたの勇士たちを下してください──
3:12 諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。
3:13 かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。
3:14 さばきの谷には、群集また群集。【主】の日がさばきの谷に近づくからだ。
3:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
3:16 【主】はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、【主】は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。
3:17 あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。
3:18 その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、【主】の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。
3:19 エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。
3:20 だが、ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。
3:21 わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。【主】はシオンに住む。



ヘブル9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

使徒17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

使徒14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。
14:16 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
14:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

黙示録22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

ローマ14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

Uコリント5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

Tヨハネ2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。

Uコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

Tコリント4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
4:2 この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。
4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

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