2017年10月15日「荒野で始まる福音」マルコ1:1〜8
序−断捨離という言葉があります。それは、「必要のないものを断ち、捨てて、執着することから離れる」という意味をあらわす整理法の一つです。そういうことを実践することで、生活スタイルや生き方まで影響があるそうです。今日の聖書の箇所にも、断捨離のような人物が登場して来ます。信仰者の姿をそこから学びます。
T−荒野で叫ぶ声−1〜3
マルコによる福音書の原文は、「アルケー、はじめ」という言葉が最初に記されています。イエス・キリストの福音のはじめという書き出しです。1節。福音とは、良い知らせという意味です。救い主が来られるという良い知らせです。では、その福音のはじまりは、どこからはじまっていたのでしょうか。エルサレムでもベツレヘムでもありません。何と荒野でした。3〜4節。何もない荒野で、バプテスマのヨハネが悔い改めのメッセージを宣べ伝えることからはじまりました。
バプテスマのヨハネは、旧約のイザヤの書に預言されていたように、荒野で叫ぶ者の声として、主の道をまっすぐにする偉大な伝道の使命を受けて、神様から遣わされた使者でした。2〜3節。荒野には、道もありません。荒野に入れば、道を失い、迷うことになります。神様から遣わされた使者は、人生で道を失って神様を求める者たちに、生きる道を案内したのです。このバプテスマのヨハネが、主の道を準備する者であって、道を備える者です。この叫ぶ者に会えば、荒野で進むことができます。
なぜ、福音が語り始められる所、福音の始まりが荒野なのでしょうか。イスラエルの民にとって、荒野は特別なところでした。あの出エジプトの時、エジプトから脱出して来た後、彼らが約束の地に入るまで歩んでいた所が、荒野でした。民が入って行った荒野は、水も食べ物もない所でした。家を建てることも、農業をすることもできない不毛の地でした。しかし神様は、民の荒野での経験は、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」と言われました。申命記8:3。何と、民は、40年間神の荒野で御言葉を食べて、神様に守られて生きました。
荒野は、何もありません。ホテルもコンビニもありません。モールもコーヒーショップもありません。荒野は、昼は暑くて夜は寒いところです。荒野は、明日どのように生きるか保障のない所です。ですから、荒野は人が神様のみを眺めるようにさせるところなのです。荒野は、必然的に驕慢な生活を断ち、地位や権力を捨て、囚われていた物から離れさせるところです。神様は、御自分の民を荒野に導かれて、そこで民に会ってくださいました。ですから、イスラエルの人々にとって、荒野は、神様の御言葉を聞く、福音のはじまりに相応しい所でした。
U−荒野で始まる福音−4〜6
バプテスマのヨハネという人が、どんな人なのか、紹介されています。4〜6節。彼は、神殿に仕える祭司の息子として生まれました。彼は祭司の生活をしながら尊敬を受ける人生を生きることができました。ルカ1:8〜13。しかし、この世の富貴とは無縁の荒野で叫ぶ者になりました。らくだの毛で織った物とは、当時で最も粗くて固い生地でできた着物を着ていたということです。それを皮の帯で締めているだけです。そして、食料は、いなごと野蜜でした。彼は、世のものを手にしないで、徹底して荒野に生きる人でした。彼が荒野の生活を始めた時、彼をとらえていたのは、間違いなく「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」という御言葉でした。マタイ4:4。
荒野には、何もありません。断捨離の世界です。人々が住んでいる社会から疎外されて生きる所です。会って話す人がいないことはとても寂しいことです。人は、どれほど世で出世して、人々から認められたいでしょうか。荒野は、出世も評価も無縁の世界です。人は、様々な物を手に入れ、生活を楽しむことを執拗に求めますが、荒野ではそんなことは不可能です。バプテスマのヨハネは、一人で、いなごと野蜜を食べて生きていました。ただ、神様の御言葉だけで荒野で生きていました。
荒野で叫ぶ声としての彼の働きは、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えることでした。4節。しかし、このメッセージは、必ずしも人々から歓迎されるものではありませんでした。マタイ3:7〜10。自分たちは神に選ばれた民だという自負心を持っていたユダヤ人に対して、厳しく非難しました。
そんな厳しい非難をしなければならなかった理由は、人々の罪を指摘して、彼らが悔い改めてイエス様の救いを受け入れるように準備させることが、彼の使命だったからです。バプテスマのヨハネは、悔い改めのメッセージを伝えること以外に関心がありませんでした。彼の人生は、福音を明らかにし、救い主イエス様を紹介することでした。人は、今まで自分は何のために生きて来たのだろうと思う時があります。自分の人生のアイデンティティーを知らないからです。
多くの人々が、町から遠く離れた荒野までやって来ました。それは、真実な叫び、神の福音の御言葉を聞くためでした。驚くべきことに彼の厳しいメッセージを聞いて人々は共感し、心刺され、悔い改めの洗礼を受けたのです。新しい人生をはじめました。その生き方が変わりました。
悔い改めとは何でしょうか。どのようにすることですか。「メタノイア」という単語は、メタは「別な方法で」ノイアは「考えること」つまり根本的に考えや観念を変えること、心の方向を変えるという意味です。今まで当たり前に生きて来た方向を変えるということです。その結果、生活の方向、行動が変わることです。 福音を知って、イエス様の十字架の意味を知ってからは、それまでの悪い習慣を断ち、罪を捨てて、腐敗したものから離れて、御言葉によって生きる生活スタイルに変わります。
バプテスマのヨハネがイエス様の道を準備してまっすぐにするためにしたことは、人々に悔い改めを促すことでした。高慢で、罪に支配された心、誤った考えや姿勢で固まってしまった心、神の御心と考えから離れた心が、神の考えに変わります。信仰的な考えは、負の心を肯定的な心に変えてくれます。働き主の通られる道をまっすぐにせよというのは、イエス様に向かってまっすぐな素朴な信仰を持ちなさいということです。心が迷路のようになって、イエス様への道を失うことがないようにということです。
V−荒野で育てられる信仰−7〜8
ユダヤの全土から、バプテスマのヨハネの名声を求めて、人々がこの荒野へやって来ました。5節。そのように有名になったり、偉大な働きができたりしたら、人はどうなるでしょうか。私たちだったら、木に登ってしまうでしょうか。威張ったり、高慢になるでしょうか。バプテスマのヨハネは、違いました。7〜8節。ただ福音とイエス様を伝えることが彼の使命であって、自分を誇ったりしていません。キリストを迎える準備をする者にすぎない、ただの荒野で叫ぶ声にすぎないまで言うのです。
それどころか、彼は自分の弱さや限界をよく知っていた人です。何という神の人でしょうか。サンダルのような靴の紐を解くのは、使用人の役目でした。イエス様の靴ひもを解く役目をする価値のない者だと言い、自分がしている洗礼は、悔い改めのしるしとしての水の洗礼に過ぎず、イエス様は聖霊の洗礼を授けてくださると自分を低めています。やがて、大勢の人々がイエス様の方へ行くようになると、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」とまで言い放ちます。ヨハネ3:26,30。いやもう、彼は、自分がやるべきことと限界をよく知っているさわやかな人でした。だからこそ、イエス様は、バプテスマのヨハネを女性が産んだ人の中で最も偉大な人だと賞賛されました。マタイ11:11。
人は、自分を誇りたがり、高慢になりがちです。人の評価を気にし、低められることを嫌います。でも、この偉大な働きをしたヨハネの姿を見ると恥ずかしくなります。低く見られてもけっこう、自分のなすべきことをして、信仰者としても責任を果たせればいいのです。功績を積み、評価されたとしても、自分を通して謙遜に主の栄光をあらわすことを求めます。
バプテスマのヨハネのように、人々の心を神に変える働きをする方が報われることを願います。否定的な考え方が、肯定的な考え方に変わる人生を享受することを願います。心や思いを柔らかくする方が報われることを願います。ただ主だけを高める精神を持つことができるように願います。
私たちの荒野はどこですか。私たちが問題で傷み、困難で不安を覚え、不遇だと思う所です。荒野のような所に置かれていますか。不毛な道を歩まされていますか。恐れないでください。荒野は不便で辛い所ですが、荒野のようなそこが神様と出会う所です。福音が聞こえて来る所です。驚くべき神の恵みを体験する所です。詩篇119:71, Tコリント10:13。
今日の箇所には、あなたの道、主の道、主の通られる道と繰り返されています。初代教会の信徒たちのニックネームは「この道の者」でした。使徒9:2。自分の救いのために十字架に犠牲になられたイエス様を信じる道です。バプテスマのヨハネは、イエス様の道を認めて受け入れ、自分の人生の道とし、人々にその道を証ししました。今私たちの前にこの道があります。天国へ続く道です。この道を歩もうではありませんか。ヨハネ14:6。
マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
申命記8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
マタイ11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
マタイ3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
ヨハネ3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
イザヤ40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
詩篇119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
Tコリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
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