2017年10月29日「新たに生まれた」マルコ1:9-11
序-私たちは、誕生日が2つあります。世に生まれ出た誕生日とイエス様 を信じて新たに生まれた誕生日です。はじめの誕生日は覚えて、祝うのに、 意識して決断して迎えた誕生日の方は、どうしているのでしょうか。今日
は、私たちが新しく誕生した記念、洗礼について顧みましょう。
T-洗礼とはガリラヤのナザレから来られ-9
イエス様の働きは、洗礼を受けることから始まりました。9節。罪のな いお方が、なぜ罪の赦しのしるしである洗礼を受けたのでしょう。イエス 様は私たちのために私たちの罪をその身に負って十字架にかかられました。
ですから、イエス様は、私たちのために罪の赦しのしるしである洗礼も受 けられたということです。洗礼は、イエス様を救い主として信じた者が受 ける儀式です。信じて救われたことを確認することです。ですから、洗礼
は信仰で受けるならば、感激的な儀式となります。
ですから、洗礼に込められた意味を理解することが大切です。洗礼は、 古い人が死んで、新しい人として生きる決断がされる時です。ローマ6:3~4。 洗礼は、罪の中にした自分の古い人が十字架と共に死んだのだということ
を象徴することです。同時に、洗礼は、新しく生きる新しい出発をあらわ しています。これからは、イエス様と生きて、神様に喜ばれる人生を生き て行くのだという決断と願いを示すのが洗礼です。古い人は死んで、新た
に生まれるのですから、洗礼は、誕生日です。精神的に新に生まれた第二 の誕生日です。洗礼を受けた方は、自分の古い人は死んで、新しい人に生まれたのだということを覚えてください。
わざわざ、イエス様は、ガリラヤのナザレから来られて、バプテスマを お受けになったと記されています。「ガリラヤのナザレ」とは、どんなとこ ろでしょう。イザヤ9:1~2。異邦人のガリラヤと呼ばれ、はずかしめを受け
た地であり、苦しみと闇があった所だと言われていました。異なる民族が 貿易をするために通過する地域であったため、頻繁に戦いと争いが起きた 所です。互いの間の違いが理解され、受け入れ合うことがなければ、争い
や憎しみが生じます。その地の人々は互いに憎み、彼らには妬みや嫉妬、 批判と中傷がありました。そこは、まさに現代の私たちが住んでいる世です。私たちのかつての心のようです。
「ナザレから何の良いものが出るだろう」とまで言われたところです。 ヨハネ1:46。それは、ナザレは、当時重要視考されておらず、罪の場所だった ということです。ガリラヤは、苦しみと闇、憎みや妬み、批判と中傷があ
った所です。そのガリラヤのナザレから出て来て、洗礼を受けられたとい うところに、深い真理があります。誰にとっても、ガリラヤのナザレがあ ります。おいたちの傷があります。イエス様を信じて洗礼を受けるという
のは、それぞれのガリラヤのナザレから出て来ることを意味しています。 今も、そのような所から出てくることが必要です。 イエス様の洗礼は、私たちが妬みと憎しみの罪の中から抜け出し、悲し
みと苦しみとやみのガリラヤから離れて、主が恵みと祝福を施される場所 に出て来なさいということを示唆しています。「そうだ、私はガリラヤのナ ザレに住んでいたのだ。だから私はあのように辛く苦しく、空しい生活を
送っていたのだ。ヨルダン川に行こう」と言って、主のもとへ立ち返るの を主は臨んでおられます。躊躇しないでください。
U-古い自分が死んで、新しく生まれ変った-10
新たに生まれたことだけに満足するならば、信仰の年数は増え ていく精神的な子供に留まってしまうでしょう。新たに生まれたならば、 後は成長することが必要です。イエス様によって新たに生まれたことの意
味を覚えて、神の子どもにふさわしい生活をして行くのです。そして、主 イエスに似た者となることを目指して、新しく造り変えられて行くのです。 そのためには、以前の罪に支配された生活、肉の価値観や習慣を捨てて、
聖書的な価値観と習慣を育てて行かなければなりません。
新に生まれたにもかかわらず、怒りや妬みの習慣、自分中心の価値観、 肉の思いや憎しみを持ち続けるのであれば、悲惨な生活を続けることにな るでしょう。新しい命と価値観に生きることがなければ、せっかく信じて
救われたのに、救いの恵みを享受することはできません。周りに幸いを与 えることもできません。躓きを与えることになるでしょう。
私たちにも、これらの聖なる決意と願いが再び起きるように祈ります。 もちろん、私たちの霊的成長や造り変えは、私たちの努力によるのであり、
ません。新に生まれて、霊的成長することは、御言葉の約束です。イエス様が洗礼を受けられた時、何が起こっていますか。10節。聖霊が降りまし た。ですから、信じて救われた私たちにも、聖霊が臨まれるということで
す。洗礼を受けたならば、御霊がその人のうちに住んでいてくださいます。 ヨハネ14:16~17。イエス様が聖霊のパプテスマを授けられると言っているの は、そういうことです。8節。
クリスチャンは、お金の力や権力、肉の力で世を生きて行くのではあり ません。心の内におられる聖霊の力によって生きて行くのです。聖霊と共 に生きる人生とそうでない人生とは、天と地の差です。憎しみと怒りにと
らわれて、不平と恨みを吐き出す人生か、喜びと感謝を覚え、希望と夢の ある人生かの違いです。
私たちが信仰で働き、生きる時に、自分の力でするのではなく、神様が 供給して与えてくださる聖霊の力によります。職場や家庭での働きにおい ても、御霊が共にいて私たちを助けてくださいます。すべてのことは、主
が任せてくださったことです。御霊の力に頼って、柔和な心で平和を作り、 私たちに与えられた仕事を果たす必要があります。
聖霊が注がれていても、聖霊が働くためには、聖霊に満たされていなけ ればなりません。私たちの中におられる聖霊が自分の中で働くように、聖 霊の満たしを慕い求めてください。エペソ5:18 聖霊様を慕い、聖霊様の御
声に耳を傾け、従うようにしてください。
イエス様が洗礼を受けて、聖霊が下る時、天が裂けたとありますが、「裂 ける」という言葉は、マルコ書では、イエス様が十字架に死なれた時神殿 の幕が「裂けた」と所と二箇所しか使われていません。マルコ15:38。 聖霊は、
人と神と遮るものを取り除き、障害物を越えて私たちに来られた神の愛の あらわれです。聖霊と訳された原語パラクレートスは、助け主という意味 です。私たちを助けるために来られた聖霊に気付かないならば、御霊と同
行しないのであれば、何と残念なことでしょうか。
V-わたしの愛する子、新しい自我像、自己像-11
信じて救われて、新にされた私たちは、存在そのものが変わりました。 イエス様が洗礼を受け、聖霊が降られた時、何が起こりましたか。11節。 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という天の声が
ありました。イエス様が神の御子であられ救い主メシヤ、キリストであることが宣言されています。イエス様が誰であるかのアイデンティティーが 明らかになった時が、まさにイエス様の洗礼でした。
私たちも同じです。私たちが洗礼を受ける時も、「あなたはわたしの愛す。 る娘、息子だ。わたしはあなたを喜ぶ」と言ってくださるのです。洗礼を 受けた者は、「信仰によって、神の子どもです」ガラテヤ3:26~27。何と言う
恵み、どのほどの祝福でしょうか。主が、私自身に向かって、愛する子、 愛する娘と言ってくださるのです。ここに私たちのアイデンティティーが あります。自画像でなく自我像と言ったらいいでしょうか。洗礼によって
神の息子、娘として生まれたなら、本当に神の息子、娘になって行かなけ ればならなりません。私たちが新に生まれた人として生きて行くとき、主 はご自分の愛する息子、娘とされた私たちを喜んでくださいます。
人は、どのようなアイデンティティーを持つかによって、その生き方、 考え方と行動が違って来ます。アイデンティティーの変化は行動を変えて います。いや人生自体を変化させます。アイデンティティーは何よりもま
ず心に影響を与えます。心構えは言動に影響を与え、繰り返される言語と 行動が習慣を作り、最終的には習慣が繰り返されると、人生が決定される わけです。否定的な自我像は、生きることを非常に困難にします。現代社
会は、常に比較して競争させて、否定的な自我像を持たせます。おいたち の傷は、否定的な自我像を作らせます。皆さんは、どんな自我像をイメー ジされていますか。
私たちは、アイデンティティーを根本的に新たに持つ必要があります。 自我像を完全に新しくする必要があります。まさに洗礼がその働きをしま す。クリスチャンは、洗礼によって昔の人を捨て、新しい人を着た人です。
ガラテヤ3:26~27。洗礼によってキリストの中で新しく造られた人です。です から、イエス様を信じて救われた人は、自分の真の姿を新たに発見できる 人です。自分を「神様が愛する子」であり、「神が喜んでくださる子」だ
と自覚できる人です。クリスチャンは、過去の否定的な自我像を脱いでし まうことができる人です。
洗礼を受けたことは素晴らしいことです。洗礼を受けたことを大切に思 ってください。イエス様の十字架を信じて救われた者は、罪に対しては死 んだ者であり、イエスにあって生きた者となりました。ローマ 6:11。新しく
生まれた者です。新しい人として生きましょう。
マルコ
1:9
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
ローマ6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
イザヤ9:1
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。9:2やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
ヨハネ1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
エペソ5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 5:19
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
マルコ15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
3:27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
ローマ6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
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