2017年11月26日「わたしについて来なさい」マルコ1:16〜20
序−現代社会は、豊かで、平和で、生活の質も高いのに、なぜか生きにくい、働きにくい世の中になっていると言われています。人々に余裕がなく、何かぎすぎすしていて、何か追われているようで、とても生きにくいと多くの人々が感じています。そして、私たちもその影響の中にあるでしょう。いったい聖徒たちは、どのように生きる者なのでしょうか。
T−あなたを呼ばれるイエス様−16〜17a,19〜20a
宣教を開始されたイエス様は、まず弟子たちを呼ばれました。16〜17節前半。ガリラヤ湖には、当時の記録によれば330隻ほどの舟があったそうです。現代も魚が多いです。漁師たちの生活は、今と比べようもないほど厳しい労働で不安定なものでした。事実、この時も、彼らは、一晩中漁をしていたが一匹もとれませんでした。ルカ5:4〜5。そんな時には、不安も覚えたでしょう。そんな生活の繰り返しに倦怠感もあったでしょう。
今日もまた、景気の停滞、競争の激化、派遣規制緩和、リストラ、ブラック企業の増加といった労働状況は厳しく、雇用環境も不安定です。現代社会も、人々の生活も厳しく、苦しいです。仕事に追われ、心に余裕がなく、人間関係の軋轢もある、そうした環境の中で、不安や悩みで心や体の病気になる人も多いです。
そんな環境にいたガリラヤの漁師シモンとアンデレに対して、イエス様は「わたしについて来なさい」言われました。ヤコブとヨハネも同じように呼ばれました。19〜20節前半。これが、イエス様との出会いの瞬間です。誰でも、イエス様を知って、信じて救われたなら、このイエス様の召しを聞いたということです。教会に来て、福音を聞いたなら、イエス様に出会い、この召しを心で聞いてください。今この箇所を通して、私たち一人一人に対しても、「わたしについて来なさい」と呼んでくださいます。
では、「わたしについて来なさい」とはどういうことなのでしょうか。それは、生き方を変えなさいということです。ローマ12:1〜2。イエス様を信じてクリスチャンになっても、生き方も考え方も変わらないなら、それは古い人のままです。「わたしについて来なさい」と、今再び呼んでくださいます。その意味は、生活の方向を変えなさいということです。彼らは、ガリラヤ湖の漁師という職場で、自分のために家族のために、生きるために懸命に働いていました。生活の豊かさだけが幸福の目当てでした。自分のために生きるだけが幸せだとしたら、満足はありません。
幸福は、やりがいと生きがいにあります。自分のためだけに生きていたのでは、やりがいと生きがいはありません。競争社会の中で勝ち組負け組みなどと言って、他人を踏みつけ、妬み、争っている生活に何の幸せがあるでしょうか。聖書は、そのような生活を罪と言っています。なぜなら、人は、神の栄光をあらわし、互いに愛し、仕えるために造られた者だからです。イエス様御自身も、人々に仕えるために来られました。マルコ10:45。
新しい生活への決断が必要です。イエス様について行くためには、以前の生活を変えなければならないでしょう。「網を捨て置いて従った」というのは、そういうことを意味しています。競争原理や肉の原理、罪の思いのままで人々に仕え、主の栄光を表すことができるでしょうか。私たちは、罪を悔い改め、かつての生活を清算して、イエス様に従います。
U−イエス様の弟子、人をとる漁師となる、−17節後半、マタイ28:19
イエス様について行く、イエス様に従うというのは、イエス様の弟子になるということです。イエス様は、人々がイエス様を信じて救われるようにすることを、「すべての人を弟子としなさい」と言われました。マタイ28:19。イエス様が「わたしについて来なさい」と言われたのは、ちょっと来て、恵みを受け、生活の問題を解決するだけに呼ばれたのではありません。「ついて来なさい」というのは、人生を通して、イエス様に学べということです。イエス様の十字架と復活を学び、イエス様の言葉と思い、そのご人格と生涯を真似て行くのが、イエス様の弟子です。Tコリント11:1。
人は、イエス様の恵みだけ受けることを望みます。イエス様の祝福だけ好みます。それでは、恵みや祝福を受けることはできません。イエス様の十字架と苦難、献身と犠牲を学ぶことで、復活の栄光と恵みを体験することができます。そのような体験をすることで、幸いを覚えます。献身と犠牲を通して幸福を味わうことができます。イエス様は、「受けるよりも与える方が幸いです」と言われました。使徒20:35。私たちが、一生涯イエス様の全人格と生涯を学んで、イエス様の弟子となりますように、共にイエス様に似た者となって行くことを願います。
では、イエス様は、弟子を召された時、弟子とされた者に何をさせようとして召されましたか。17節後半。「人間をとる漁師にする」ために召されました。この譬えに注目しましょう。イエス様は、彼らが弟子となってイエス様に従う時、違う人になるのでなく、今までと同じ漁師だけれども、取る対象だけが変わると言われました。魚を捕まえる漁師ではなくて、人を捕まえる漁師になれというのです。
魚を捕まえることと人々を取らえることの間には、多くの似た点があります。漁師たちは、漁のこと、すなわち魚の特性や漁場のことをよく知り、舟や網も必要です。同じように私たちは、人のことを良く知るだけでなく、福音のことも伝道の仕方についてもよく学び、福音を伝え、救いに導くためには、神の愛と御言葉も必要です。福音に生きている聖徒たちの姿も見せなければなりません。魚を取るのは魚を殺すためで、人を取る漁は人を生かすためです。人を育てることに最も価値があり意味があります。
ですから、イエス様の弟子になるということは、教師であれば、御言葉による救いと生き方を教える教師になり、保育者であれば、イエス様の愛で保育する保育者になり、学生であれば、御言葉によって成長する姿を見せる学生になります。ただ契約を取る営業マンではなく、信頼を得て人を取る営業マンになるというようなことでしょう。
ですから、私たちがそれぞれの職業や立場で、「人を取る漁師になる」焦点は、人を生かすことです。人を生かすことに焦点をあわせてください。漁師は魚をとるために毎日網を投げます。生活のためだけにするのは疲れが出て来ます。それなりの楽しみもあるでしょうが、根本的な望みはありません。主は、私たちをそれぞれの働きを通して、人を生かそう、人を救おうとされておられます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」という主の声を聞いてください。
V−召しに応答して、イエス様について行く−
自分の能力を心配しないでください。イエス様が、人をとる漁師に、人を生かす働き人に育ててくださいます。それには、何が必要でしょうか。「わたしについて来なさい」というイエス様の召しに対して、彼らは、どう応答しましたか。18,20節。彼らは、すぐに従いました。原文でもすぐにという意味の同じことばが文頭に使われています。損得を躊躇しないで、少しも遅れることなく決断していることが強調されています。
イエス様に従うことが最も価値あることだと思ったからです。イエス様が育てて、イエス様が用いてくださるからです。イエス様が自分を生かしてくださるからです。イエス様の召しに応えて、イエス様を信じて、イエス様の弟子となって従って行く人生は、魅力的です。主婦であろうと、会社員であろうと、学生であろうと、イエス様を信じて救われた者は、イエス様の弟子になったのです。イエス様が同行してくださる人生となりました。イエス様が、その働きや場所で主の弟子として用いられる者となりました。そのために、イエス様に倣い、イエス様に学び、御言葉によって造り変えられなければなりません。
私たち自身に能力や価値があるのではありません。イエス様に召されて、召しに応じたことに価値があります。ここで召し出された弟子たちは、みな一介の漁師です。弟子たちは、どんな人だと言われていますか。Tコリント1:27〜28。愚かな者や弱い者、取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者を召してくださいました。それが人をとる漁師へ変えられるのです。大変なことです。イエス様は、召してくださった者を養ってくださり、育ててくださり、最良の道へ導いてくださいます。
その結果、愚かな者を知恵ある者のように、弱い者を強い者のように、取るに足りない者を価値ある者に、見下されている者を偉大な者に、無に等しい者を有能な者にしてくださいます。事実、イエス様が昇天された後、みごとに弟子たちは変えられ、確かに用いられました。鍵は、召しに応えたことです。私たちも、召しに応じて、イエスに従って行くことです。私たちも造り変えられ、成長し、用いられ、人生が変わります。
一度しかない大切な人生をどう生きますか。みなさん、幸せな人生を生きたいですか。夜通し漁をしても一匹も取れなかったシモンが失望して網を洗っていた時、イエス様のお言葉に従って網を降ろしたらどうなりましたか。ルカ5:4〜6。網が破れるほども魚を捕まえることができました。イエス様の弟子として生きるには、御言葉にどれほど従うかにかかっています。すべてのことは、主に任せて、すべての心配と不安を捨てて、従って来ることをイエス様は望んでおられます。もう無駄な歳月はやめましょう。いつ世を離れるのか私たちは分りません。今充実して、イエス様の弟子として生きることを祈ります。Tペテロ2:9。
マルコ1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
ルカ5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
マタイ28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
Tコリント11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
使徒20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
Tコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
Tペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
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