2017年12月31日「わたしの心だ。きよくなれ」マルコ1:40〜45
序−霊的病いの特徴の一つに無感覚症があります。精神的な感覚がにぶくなって、自分の心の状況が深刻であるにもかかわらず、神様に懇願しないのです。体の健康は気にしても、たましいの健康を気にしないのです。一人の悲惨な病気の人を通して、たましいの癒しの必要を学びましょう。
T−苦難と悲しみの中から主の前に−40
ツァラアトとは、特定の病気の名前に訳した時代もありましたが、重い皮膚病やカビ菌類による症状まで含んでいるものなので、ヘブル語の音のまま記されています。この病気の伝染性が心配され、宗教的にも汚れているとされたので、この病気にかかっているとされた人は、仕事をやめ、家を出て、町の外の決められた所に住まなければなりませんでした。人々がいる所を通る時には、「汚れている、汚れている」と言わなければなりませんでした。どんなに悲しく辛いことだったでしょうか。
つまり、この病気だとされた人は、その症状の酷さばかりでなく、人々から引き離され、社会から追放され、罪人同然の扱いを受け、悲惨な人生を過ごすことになりました。この人のそういう心情に心を向けましょう。この病気の人々は、私は治らない、ずっと酷い状態のままだ、人から見捨てられ、私には何もない、あまりにも悲しい、辛いと思っていたでしょう。当然、そんな境遇にさせた人々や社会への恨みや憎しみも抱き、そのような心がその人自身をさらに痛めつけました。私たちも、ある状況によっては、そのような心情になる時があるかもしれません。
人には、幾つかの基本的な欠乏欲求があります。社会心理学者マズローは、欠乏欲求の中の生理と安全欲求が満たされれば、社会的所属と愛の欲求、さらに承認(尊重)の欲求の欠乏が現れると言っています。この病気の人々は、何とか生きることはできましたが、社会生活と人々との交わりから隔絶され、社会的所属感はなく、愛されることもなく、尊厳を受けることはありませんでした。それが一番苦しく、悲しかったのです。私たちの欲求は、どうですか。欠乏していますか。満たされていますか。
では、この人は、どうしましたか。イエス様のところに来ました。40節。人々がいる所へは出て来てはいけないとされていましたが、信仰をもってイエス様の御前に出て来ました。人々が自分を忌み嫌い、遠ざけても、イエス様はあわれんでくださると信じていたので、危険を冒して来ました。人生に問題のない人はいません。家庭、仕事、学校での問題があります。しかし、問題をイエス様の御前に持って来ていますか。リトリートの祈りをしていますか。いくら聖書の知識があっても、イエス様の御前に出なければ、信仰がないと同じです。助けを求めて主の前に出ましょう。ヘブル4:16。
苦難と悲しみの中にある人々に御言葉は何と言っていますか。詩篇42:5, 50:15。主を呼び求め、神様の助けを待ち望みなさいと言っています。なぜでしょう。イエス様を私たちの救い主として世に送り、十字架に渡されるほど、神様は私たちを愛しておられるからです。ヨハネ3:16。この人は、イエス様の御前に出て、跪いて癒しを懇願しています。「お心一つで、私をきよくしていただけます」とは、癒しの主権がイエス様にあることを信じて、謙遜に主のあわれみを求めています。これは、彼の信仰告白です。
U−あわれんで、愛して、癒してくださった主−41〜42
イエス様は、この人をあわれんで、癒してくださいました。41〜42節。この人の求めとイエス様の答えに共通する特別な表現に目を留めましょう。この人は、「お心一つで、私をきよくしていただけます」(40節)と言い、イエス様は、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。この人は、自分が「単に治療されることを望んだのでなく、体と心が「きよくされる」ことを望みました。
この人は、その病気のために、罪人のように人々と社会から切り離され、神の前に汚れた者だとされていたからです。その回復を願って「きよくしていただけます」と願ったのです。実際、この人の心の中には、人々や社会への恨みや憎しみが渦を巻いていたでしょう。そんな境遇になっていることで、神様への恨み辛みもわいていたでしょう。信じている人でも、辛い境遇になれば、人への不満や恨み、神様への文句や反発も生じて来るのです。その心が、イエス様によってきよめられなければなりません。
罪の聖めは、何によって可能なのですか。私たちの努力や善行ですか。いいえ、罪の結果は死なのですから、身代わりの死、犠牲が必要でした。ですから、罪のない神の御子イエス様が、私たちのために十字架にかかってくださったのです。Tペテロ3:18。ここに救いの道があります。ヨハネ14:6。
イエス様は、その人を「深くあわれんで」くださいました。悲しく辛い境遇にあったその人の心の痛み、悲しみをご自分のものとして深くあわれんでくださったということです。人は、苦しみや悲しみの中で、他人は私の苦しみを分かるはずがないと言いますが、イエス様は私たちのために苦しみや悲しみを経験されました。ヘブル4:15〜16。この時、イエス様は怒られたと訳する学者もいます。古い写本の中には、あわれみの代わりに「怒った」と記されているものがあるからです。イエス様は、この人を悲惨な境遇にしていることに怒り、憤られたということに頷けます。
この人が信仰でもって、「お心一つで、私をきよくしていただけます」と言ったのは、イエス様の御旨に叶いました。イエス様も、「わたしの心だ。きよくなれ」と応えてくださいました。こんな願いを私たちはするでしょうか。こんな答えを受けたでしょうか。人々が祈る時、イエス様への信頼なしに、ただ単に治してくれ、解決してくれとだけ祈らないでしょうか。祈りが聞かれている確信もありません。私たちが主に祈り求める時必要なのは、主の御心へのまったき信頼です。ルカ22:42。
「わたしの心だ」と言われたイエス様が、十字架の犠牲になられました。ですから、どんな痛み、悲しみも十字架で癒される、十字架でとかされると信じて、御前に出てください。「お心一つで、私をきよくしていただけます」と信じて、祈ってみてください。
V−たましいの癒しを願い、加えて肉体の癒してくださる−43〜45
この後、イエス様は、いくつかのことをこの人に命じています。43〜45節。祭司に見せて、きよめの供え物をしなさいというのは、この人が社会復帰できる当時の定めだったからです。これはもっとだと思うのですが、「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい」とは、どんな意味があるのでしょうか。癒されたことを喜んで知らせるのをなぜ止めるのでしょうか。結果を見ると、分かります。この人が、イエス様の言いつけを守らないで、「この出来事をふれ回り、言い広め始めた」ために、イエス様を重病も治す超能力者扱いして、人々が殺到して来て、町に入ることができなくなりました。
イエス様が「きよくなれ」と願ったことは、肉体の癒しよりも、たましいの癒しです。たましいの癒しを願い、加えて、肉体を癒してくださることを願われたのです。イエス様が世に来られた目的は何ですか。マルコ1:38。イエス様は、「福音を知らせるために来た」のです。福音とは、イエス様の十字架を自分の犠牲だと信じて、罪の赦し受け、神の子どもとなり、救いと永遠の命の祝福を受けることです。
ある人々は、イエスを信じても病気が治らなかったと文句を言い、イエスを信じていたのに病気にかかったと恨みます。病気が治らないとしても、救いと永遠の命の祝福がなくなることはありません。病気にかかったからと言って、神の子とされた恵みが取り去られるわけでもありません。病気が治らなかった、病気にかかったということが、救われた喜びを減少させることではありません。病気になられた方たちの証しを聞いても、そうだなあと思います。病気になって一時期は悲しみ、落胆しても、イエス様に信頼して、平安を与えられたと証しされています。
私たちは、イエス様を信じたこと自体が、どんなに大きな祝福であるか知っています。イエス様を信じることで、罪の赦しと天国への命を与えられ、救われた恵みの中を生きることも体験しています。ですから、どんな状況でも、イエス様を信じて、喜び感謝しながら生きてください。私たちは、イエス様を信じる時に、大きな価値観の変化が起こっています。
ところが、世の価値観は、健康で、裕福で、自分の思い通りになることです。そんな価値では、健康と富と繁栄が何よりも必要で、それがある時、人々は喜んで感謝します。そのようなものがなければ、憂鬱になり、落胆して失望します。ですから、生活の浮き沈みが激しく、ストレスが多いのです。世の価値観で生きていると、失敗したら悲観し、病気になると落ち込み、誰かの言動に傷付きます。
イエス様を信じることは、新しい命に生きる者になることです。Uコリント5:17。イエス様を信じるならば、変わります。価値観の変化が起こります。福音は、畑に隠された宝だと分かります。マタイ13:44。自分の中でイエス様が生きているのに、神様が自分の支配者になられたのに、がっかりしないでください。神の国の価値観で生きましょう。
マルコ1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
1:42 すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
1:43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
1:45 ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。
ヘブル4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
詩篇42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
詩篇50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
マルコ1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
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