小グループで聖書を学ぶ

15.(Tペテロ3:13〜17)

「心の門を開いて」

 前の段落で、「悪をもって悪に報いず、かえって祝福を返しなさい」と勧められましたが、それを聞いた聖徒たちに、そんなことができるのか、そんなことで効果があるのかなどという疑問や不安が生じて来たことでしょう。きょうの箇所は、そんな思いに対する勧めのようです。

「御言葉の種を蒔こう」

1 「仕返しするな」どころか、「祝福しなさい、善を行いなさい」と言われても、そんなことできない、したとしてもうまく行くはずがない、あの人には通じないと考えて、行動しないのです。このような疑問や不安について、何と言われていますか。
・/13節。


2 人々は、悪や侮辱を受けたら、自分たちがしているように、敵対したり、ののしったりして仕返しするはずだと思うのです。ところが、クリスチャンが、悪や侮辱を受けても、なおも相変わらず良くして、善を行うとしたらどうでしょう。結局、心動かされて、思いが変えられて、心の門を開くようになるというのです。御言葉に従う前に、そんなことできるはずがない、やっても無駄ではないか、とあれこれ思う人がいます。どんな態度が必要ですか。
・ルカ5:5/


3 霊的工事中にある時には、悪や侮辱に対して善や祝福を返すような気持ちになれず、助けることもできないでしょう。でも、信仰や環境が整って来たら、そのような心を持つことができるようになります。私たちが続けて善を行っていくならば、どんなに自分勝手な人でも、頑なな心が溶けるようになります。なぜ、私たちの方から心の門を開けるのですか。
・Tペテロ2:24/


4 私たちがどんなに善を行ったとしても、敵対や侮辱がなくならないこともあります。祝福を返しても、苦難を受けることがあるでしょう。そんな場合、どう勧めていますか。
・14,17節/

5 私たちが信仰でやってみる時、期待値は高いものがありますが、現実的にうまく行かないと、悲観的になってしまいます。「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いだ」というのです。なぜ、そんなことが言えるのでしょう。
・マタイ5:11〜12/


6 「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけない」と言っていますが、善を行っても害を受けるならば、動揺するでしょう。敵対されたり、攻められたりするなら、恐れが生じ、心が痛みます。どんな時に恐れたり、動揺したりしますか。



7 「悪をもって悪に報いず、かえって祝福を返しなさい」ということを自分の肉の力だけでは、中々できないでしょう。そのようにできる原動力は何だと言っていますか。どのようにして力を得ると教えていますか。
15節/


8 イエス様を主と崇めることが、苦難に勝利する秘訣です。イエス様に救われていることで、すでに私たちは勝利しています。悪や侮辱に対して、かえって祝福を返すことができる原動力は、福音です。イエス様に救われた恵みが、悪をもって悪に報いないで、善を行うことができる秘訣です。このことを認めますか。原動力になっていますか。
・Tヨハネ5:4〜5/


9 クリスチャンが、悪や侮辱に対して祝福と善をもって返すならば、世の人々は、なぜ憎まないでいられるのか、どうして善をなし、良くしてあげられるのですか、と聞いて来るようになるでしょう。どこに望みがあるのか、と不思議に思うでしょう。そのような問いに対して、どんな用意をしていなければなりませんか。(参考/使徒16:30〜31)
・15〜16節/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちの望みは、十字架にかかって私たちの罪と滅びを解決してくださった救い主イエス様にあります。私たちは、何のために存在しているのでしょうか。このイエス様が救い主であることを証しするためです。悪や侮辱をなす人も救いが必要であり、求めているかもしれません。ですから、悪に対して善をもって返し、自分の救いの希望について、いつでも誰に対しても証しする備えをして行くのです。今日の学びで導かれた決心や恵みを分かち合いましょう。ヘブル10:23。

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