2021年1月31日「主の御名によって立ちなさい」使徒3:1〜26
序−目は口ほどにものを言いと言われますが、人の視線を最新の機器で記録し、分析することで犯罪捜査やマーケティングに利用できるそうです。それは、視線がその人の関心や注意の対象に向けられるからです。今日の箇所も、登場人物の視線を追うことでメッセージを知ることができます。
T−萎えた心の目が見る視線−1〜3
使徒ペテロとヨハネが祈りのためにエルサレム神殿に行った時の出来事です。1節。宮の美しの門という所に、生まれつき足のなえた人が施しを求めていました。2節。4章を見ると、40歳位ということです。歩くことができず、宮まで運んでもらっていました。この人の視線を追ってみましょう。2〜3節。ペテロとヨハネが入ってくるのを見て、施しを求めたとありますが、2人に「私たちを見なさい」と言われています。つまり、この人は、2人の顔を見ていないで、視線は下を向いたまま、施しを求めていたということです。
この人は、神殿の門で物乞いをするために、人々に運んでもらうだけでなく、日常生活で人々の助けを必要としたでしょう。どれほど負担に思っていたことしょう。何の望みもなく、施しを得て何とか生きていました。不自由な体で、貧しい辛い生活、心も萎えて、俯いていました。この人の関心と視線は、ただお金にありました。通り過ぎる人々ではなく、目の前の入れ物にいくら入れてくれるかを見ていたのです。なぜ、ここで物乞いをしていたのでしょう。町の通りや市場より、宮に来る人が施しをしてくれることを分かっていたからです。
この人は、どこにいますか。何のために人々は通り過ぎているのですか。そこは神殿の門、人々が宮に入ろうとしています。そのような場にいながら、まったく神殿に目が向いていません。そこで行われる礼拝や祈りにも関心がありません。そこに入る人々にも関心がありません。神の宮の門にいながら、彼の視線は、まったく神様に向いていなかったのです。視線は下を向きながら、己の不遇を嘆き、貧しさと不自由な暮らしを憂い、心は萎えていたのです。
この箇所を読んで、私もこの人のように癒されたい、私も奇跡を行えたらいいのにと思う人々がいるのですが、私たちの視点をこの人の心に向けさせています。強欲な資本主義の現代社会、人々の関心は、いっそう富や経済に向いています。心は貧しく、望みもなく、様々な問題で心が萎えています。まことの造り主、主なる神に心の目が向いていません。いや、神の民である私たちでさえ、ややもすると問題や自分の願いばかり見ていて、主を向いていないかもしれません。今、私たち自身の関心は何にありますか。心の視線はどこを向いているのでしょうか。
この人の前に立っている使徒ペテロ、彼も、多くの失敗をし、心が萎える歩みをして来ました。イエス様と出会ったのも、不漁のため心萎えていた時でした。イエス様に従っていながら、勝手な望みばかり見ていました。ガリラヤ湖上でイエス様を見ないで、波を見たために、沈みそうになりました。イエス様が捕まると心萎え、イエス様を否定し、十字架につけられると恐れました。聖霊を受けるまで心なえていました。失敗した時、ペテロの視線は、イエス様にありませんでした。
そんなペテロの視点が、どうして主だけを見る視点に変わったのでしょう。復活の主に出会い、聖霊を受けたからです。イエス様を信じて救われた者は、すでに聖霊を受けています。イエス様のもう一人の助け主である聖霊が自分の内に住んでいてくださいます。ヨハネ14:16〜17。内住の聖霊を意識して、聖霊の満たしを求めてください。エペソ5:18。
U−御名によって立ち上がりなさい−4〜8,16
聖霊に導かれたペテロが、物乞いをする人の前に立って、その男を見つめて「私たちを見なさい」と言いました。4〜5節。ペテロの視線は、この人の心に向けられています。多くの失敗をし、挫折を経験して来たペテロには、この人の萎えた心がよく分かります。この人は、その声に当然何かもらえると思い、目を上げました。下を向いていたこの人の視線は、ペテロに向けられました。自分を見るその人の視線は、他の人と違いました。この人は、大いに期待しました。萎えていた心が変わりました。
ところが、ペテロの言うことは、期待を超えるものでした。5節。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言うのです。この人の心が開かれていなかったら、金は無いだと、ひやかしかと憤慨して、後のことは聞き流したことでしょう。この人は、ペテロが真実を言っていると思いました。「イエス・キリストの御名によって、歩きなさい」という言葉が心に響いて来ました。この人の心の目がイエス様に向けられました。
開かれた彼の心は、信仰を持ってこの言葉を聞きました。だからこそ、ペテロに手を取って引かれた時、立ち上がることができました。16節を見てください。イエス様によって与えられた信仰が、この人を癒しました。イエスの御名が、この人を立たせたのです。救い主イエス様の御名を信じて、拠り頼むところに奇跡が起きたのです。
「歩きなさい」だけでなく、原文では、「立ち上がって、歩きなさい」となっています。人は、どんなことでどんな時に心が萎えてしまうのでしょう。ほんのちょっと注意されただけなのに、なぜか気持ちが不安定になり、心が萎えてしまうことがあります。体も変調をきたすようになります。問題や事件で大きな衝撃を受けるならば、心萎えて、立っていることもできなくなり、病んでしまいます。今、心萎えた者に対しても、「イエス様の御名によって立ち上がってみなさい」と御言葉は語りかけています。
今まで、この物乞いは、お金だけを考えて生きていましたが、今は、ただイエス様の御名を考えて立ち上がり、イエス様の御名を目的として歩き出しました。7〜8節。驚くべき姿が描かれています。うれしくて、感謝して、歩いたり、はねたりしています。以前宮に目もくれなかった人が、今や感激して神を賛美しています。私たちも、この信仰をいただいているのです。イエス様を信頼して、立ち上がってみましょう。
私たち自身、この信仰によって立ち上がることができるだけでなく、私たちにお金や力がなくても、心萎えて、希望を失っている人に対して、自分にあるものを与えることができます。「イエス・キリストの名によって、立ち上がって歩きなさい」を言うことができるからです。
堂々と「金銀は私にはない、しかし、私にあるものを上げよう。イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言うことができたペテロ、その理由は何でしょう。ペテロの視線は、金や銀よりも貴重な確かなお方に向けられていました。救い主イエス様を見ていたからです。
V−視線をイエス・キリストへ−9〜26
宮の中で、美しの門で物乞いをしていたあの男が、歩いて賛美しているのを見た人々が騒ぎ始め、ペテロとヨハネの所に集まって来ました。9〜11節。この時ここに集まった人々の視線は、ペテロとヨハネに向けられています。この2人があの物乞いを癒したのか、この者たちにそんな力があるのか、彼らは一体何者なのかというような視線でした。
ですから、12節。「なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」、この人を癒されたイエス様でしょう。注目すべきは、イエス様でしょうということです。
ですから、人々の視線をイエス様に向けさせるために、ペテロは、救い主イエス様について話します。13〜26節。この人を癒されたのは、あなたがたが総督に引渡し、釈放しようとしたピラトに十字架につけろと要求して、殺してしまったイエス・キリストなのですと言うのです。ペテロの話を聞きながら、人々の視線は、イエス様に向けられました。そして、イエス様を十字架につけた自分たちの罪に目が向くようになりました。
それも無知であったためなのですから、悔い改めて神に立ち返りなさいと言って、罪の赦しのためにイエス様を遣わしてくださった神様に心を向けさせています。19節。悔い改めとは、神様の前で自分の罪を分かっているという面だけでなく、方向を変えて、神に向かうという面があります。悔い改めるならば、罪を拭い取っていただけるのです。
もし、この物乞いの人のような境遇だったら、人々は、自分は被害者だという思いで、社会を憎み、親を恨み、自分の人生を悲観し、悔い改めることなどしないでしょう。人は、問題や事件で心が萎える時、被害者意識でいっぱいになります。今社会は被害者意識が覆っていると言われます。みな被害者意識を抱き、不満と怒りを募らせているそうです。何でも他人のせいにする総他責社会になりつつあると言うのです。でも、他に向けられたその視線を自分に向けてみます。神の前に自分の心を見てみれば、罪を知り、悔い改めに導かれざるを得ません。そうして、被害者意識から立ち上がることができ、新しい歩みが始まります。
私たちも、視点をイエス様に向ける時、悔い改めて、神に立ち返ります。この物乞いの人が根本的に変化をしたように、私たちも立ち上がり、新しい人生を味わえます。イエス様の御名によって立ち上がり、喜び踊りながら賛美するようになることを願います。ヨハネ20:31。
使徒3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
ヨハネ20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
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