2021年2月28日「イエス様に似た者となる」使徒6:8〜7:60
序−虎は死して皮を留め、人は死して名を残すと言いますが、人は普段人生をどう生きるかを考えていません。今日の箇所には、高潔で崇高な人生を残した人物の最期が記されています。初代教会を駆け抜けて行った人物の美しい人生を学び、私たち自身の人生を考えましょう。
T−御霊に満たされた人−6:8〜15,7:54〜55
その人物とは、先の配給の仕事に選ばれた7人の中の1人ステパノです。6:8。ステパノという名前は、王冠、冠を意味します。両親は、世で王冠を受けるような人になることを望んで名付けたのでしょう。ギリシャ文化の中で育ったのですが、救い主イエス様を信じるようになり、世の王冠ではなく、命の冠、義の栄光の冠を受ける人生を生きるようになりました。
どんな人物なのでしょうか。ステパノに付いている表現は、聖霊に満たされていたことでした。55節,6:3,5。聖霊に満たされていたということは、聖霊にあふれていたということです。ステパノは、その心に信仰の恵みと力があふれていた人でした。6:8。人は、その心の中に満ちていることが口からあふれて来るようになります。つぶやきやため息、批判や非難の声、失望や否定の声は、心に満ちた不平不満、不信や悲観の思いがあふれて声となって出て来たものです。
ステパノは、配給の奉仕や職場での仕事もあり、忙しさや疲れもあったでしょうが、聖霊に満たされていたので、信仰の恵みで生きていました。何と、その顔は「御使いの顔のように見えた」というのです。6:15。迫害する者の尋問の中でそのような顔だったというのですから、驚きです。一方、ステパノを迫害する者たちは、「はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした」というのです。7:54。どんな形相をしていたのでしょうか。人が肉の思いで人を見ると肉の感情があふれて来ます。心に肉の思いが満ちていると、悪い感情が声や顔にあふれて来るのです。
この時、ステパノは、歯ぎしりする人々を見ないで、天を見つめていました。55節。神の栄光とイエス様を見ていました。人ではなく、神を覚えれば、聖霊に満たされて来ます。人を相手にしないというのではなく、天を見上げて神を覚えれば、歯ぎしりするような人を見ても、自分の感情が傷付かないで守られるからです。イエス様を信じるということは、このような肉の性質も新しい人に変えられて行きます。コロサイ3:10。人のために肉の感情にあふれて倒されることのないように、天を見つめ、主を覚えて、聖霊に満たされることを願います。
聖霊に満たされるのか、肉の感情に満たされるのかは、何を重要としているのかによります。歯ぎしりする人々は、自分の立場、肉のプライドが重要でした。自分の立場や肉のプライドにとらわれると、肉の感情があふれて来ます。ステパノは、神の栄光、聖霊の満たしが自分の立場や肉のプライドより重要でした。神の栄光や臨在を意識したら、心が傷付くことなく、自分の感情を治めることができます。57節。彼らが耳をおおったのは、相手の声をまったく聞かないということです。意思疎通はできません。自分の立場が重要で感情が傷付いた人は、相手との間が断絶します。
人は、肉の感情におおわれると、感情的に解決しようとして、相手を攻撃します。58節。やがては、自分を破壊することになるでしょう。しかし、ステパノは、肉の感情で反応するのはではなく、自分の心を主に任せて、解決しようとしました。59節。聖霊に満たされるからできることです。自分の肉の感情で解決しようとする人は相手を攻撃しますが、感情を神に委ねる人は、自分を攻撃し、殺そうとする人まで赦すようになるというのです。60節。驚くべき姿です。ただ神のなせる御業と言う他ありません。
U−御言葉を証しした人−7:2〜53
聖霊に満たされたステパノが、人々の間で素晴らしい働きをしていると、権力者たちが、偽りの証人を立てて、ステパノを訴えさせ、裁判に引き出しました。6:11〜14。議会に引き出されたステパノに大祭司は弁明の機会を与えます。1節。彼らは、イエス様にも同じような質問をしています。マタイ26:61〜62。ステパノは、それを自分を弁明する機会とせず、イエス様を証しする機会としました。
ステパノは、2〜50節にかけて、旧約聖書全体を要約しています。一言で言えば、その伝えるところの核心は、民が神の恵みで救われたということです。まず、彼らの信仰の父アブラハムは、メソポタミヤの地で望みなく偶像に仕えて生きていたのに、神の一方的な神の恵みによって救い出されて、約束をいただいて生きました。ヨセフも、エジプトの奴隷であるしかなかったのに、神の恵みにより患難から救い出されて大臣となり、一族を助けました。モーセもナイル川に投げ込まれるしかなかったのに、神の恵みによって救い出され、エジプトのすべての学問と行政を身につけて、出エジプトを導きました。そのようにすべてのことが神の恵みによって導かれたのが、民の歴史でした。
それなのに、民はあたかも自分たちが立派で選ばれた民だと思っていたのです。民の指導者たちは皆、神の恵みで救い出され、神の一方的な恵みで選ばれて、民の指導者として用いられました。それなのに、民は、指導者たちに敵対し、預言者たちを殺しました。ついに、神の御子が救い主として来られたのに、イエス様を十字架にかけてしまいました。51〜52節。
ステパノが次々とこのような例を取り上げたのは、今議場にいる権力者たちはじめ人々が神の恵みで神の民とされていることを忘れて、高慢になっていたからでした。イエス様を十字架にかけてしまったことを悔い改めてほしいからです。使徒2:37。今私たちがこうして生かされているのも、神の恵みによることです。今こうして礼拝をする者とされているのは、神の恵みによって導かれたからです。誰でも、自分で世に生まれて、自分の力だけで生きて来たかのように思うことはできません。
このように核心を突くメッセージを聞く人々が心を刺されて悔い改めればよいのですが、いのちの危険を顧みることなく伝えました。人々を愛し、滅び行くたましいをあわれむ心からしました。まさにイエス様の心と同じでした。ステパノが立っている所にイエス様も立って尋問を受けました。脅しと偽証の中で堂々と悔い改めを求めたのも同じでした。ですから、イエス様と同じく殺されることを覚悟したのでしょう。
V−イエス様のように生きた人−
最期の場面でも、ますますイエス様に似て来ます。ステパノの命をかけて伝えた御言葉を聞いた人々は、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしました。54節。大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到し、ステパノを石で打ち殺しました。57〜58節。ステパノの最期の姿に、人が生きるべき信仰の人生が示されています。
まず、56節「天を見つめて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言いました。余りにも感動的な言葉です。ここで、なぜ人の子と呼んでいるのでしょうか。ステパノも人の子であり、イエス様も人の子として十字架で苦しみを受け、死んでよみがえられたように、私も復活するという確信に満ちた信仰告白なのです。イエス様が立っておられるというのは、死ぬステパノをイエス様が天国に迎えてくださるということです。私たちも、同じ確信を持つことができます。
また、59節「主イエスよ。私の霊をお受けください」と言いました。私たちも、自分の人生、生と死をイエス様に任せる信仰が必要です。ステパノは、痛みの中で死んで行く時、自分のたましいをイエス様が受けてくださると告白しています。今まで生きて来た人生だけでなく、これからもイエス様に委ねているのです。私たちも、死んで後天国でもイエス様に委ねることができるのです。何と素晴らしい救いの恵みでしょうか。ですから、信頼してイエス様に自分の人生を委ねて、従って生きましょう。
ステパノのイエス様の姿に似たところは、自分を石で打ち殺す人々の罪を赦してくれるように祈っている姿も同じです。60節。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と言って、眠りにつきました。何という素晴らしいとりなしの祈りでしょうか。イエス様も、ご自分を十字架につける人々に対して同じように言われました。ルカ23:34。そして、ステパノが「主イエスよ。私の霊をお受けください」と祈ったように、イエス様も「わが霊を御手に委ねます」と言って息を引き取られました。
このようなイエス様に似た素晴らしいステパノの最期なのですが、まだこれからという時に殉教してしまうなんて、残念だ、無駄死にだと思われるでしょうか。しかし、1人の人物がこの場にいたことを見落としてはなりません。58節。石打ちをする者たちの着物を預かったサウロとは、後の使徒パウロのことです。ステパノの最期を見ていたパウロは、後に回心し、異邦人への宣教師となります。使徒パウロという傑出した宣教師を生み出したことになります。ステパノの死は、世界宣教の元となったのです。
死は、その人の総決算と言われます。どのように生きて死ぬのかが重要です。イエス様と同じように、ステパノの死は一粒の麦となって、多くの人々のたましいを救う死となりました。もし私たちが人生を自分のためだけにだけ利己的に生きるとしたら、実に残念な人生であり、悲惨な死となるでしょう。一度しかない人生を真実に信仰に生きて、次の世代の救いのための一粒の麦となることを願います。ヨハネ12:24。
使徒6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。
6:9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
6:10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。
6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。
6:13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
6:14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
6:15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。
7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
コロサイ3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
使徒2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
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