2021年3月21日「目からうろこが落ちて」使徒9:1〜19

序−古典から様々な慣用句ができていますが、聖書由来の慣用句もけっこうあります。その中の一つが「目からうろこ」です。今日の箇所がその語源となった箇所です。慣用句の元となった出来事には、どんなメッセージが込められているのでしょうか。

T−目にうろこがかかっていた−1〜4,8
 語源となった出来事は、サウロ、後のパウロに関することです。1〜2節。サウロは、初代教会への迫害が始まると、教会を荒らし、聖徒たちを捕まえて、牢に入れました。使徒8:3。さらには、外国まで行って、そこにいる聖徒たちを捕まえようと、大祭司から捕縛する権限を得て、今ダマスコに向かっている途中です。いったいなぜそこまでするのでしょうか。サウロは、狂った迫害者なのでしょうか。
 サウロは、どんな人なのでしょうか。彼自身の紹介を見てみましょう。ピリピ3:3〜5。一言で言えばエリートです。氏素性、学歴業績申し分なしというところです。サウロ自身そのことを誇りとしていました。律法を熱心に研究し、神への熱心のあまり旧約聖書の示すメシヤがイエス様だとは知らずに、教会を迫害していたのです。でも、彼のしていたことは神に敵対することでした。そういう意味で、目にうろこがかかっていたのです。
 薄いうろこが目にかかっていて、物事や人のことがよく見えていないという感じです。サウロは、自分の学んで来たことやって来たことに自信を持っていました。その誇りとしていた知識や経験がうろことなっていました。私たちにとってのうろこは、何でしょうか。どんなうろこがかかっているのでしょうか。黙想してみましょう。肉の自信、肉のプライドがうろこになり易いということが、サウロの例から教えられています。自分はこれでやって来たのだという自信が、救いの必要を妨げ、福音を受け入れさせなくさせてしまうのです。
 人には、先入観や固定観念があります。ユダヤ人にあった、ナザレから何の良いものが出るだろうという先入観、メシヤは王国を再建してくれるはずだという固定観念が、サウロの目にうろこをかけ、イエス様を来るべきメシヤとは思わせなかったのです。ヨハネ1:46,使徒1:6。私たちにも、先入観や固定観念があるでしょう。色眼鏡をかけて見てしまうなら、目にうろこがかかっていることになります。自分の目にうろこがかかっている姿を想像してみてください。
 サウロは、目にうろこがかかって見えていなかったことを強烈に分からせられる体験をすることになります。3〜4節。天からの光が彼を巡り照らしたので、その威厳に圧倒され、倒れました。目が見えなくなりました。地に倒れて、恐れ、戸惑っています。それまでの自信満々のサウロは、そこにはいません。
 そんなサウロの耳に、厳かな慈愛に満ちたイエス様の声が聞こえて来ました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というのです。5節。震えながら、「主よ。あなたはどなたですか」と聞くのが精一杯でした。そうしたら、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われたのです。びっくりしたでしょう。今まで聖徒たちを迫害していたつもりでいたのに、イエス様を迫害していたのだということが分かったからです。この瞬間、人格的にイエス様と出会ったのです。
 目が見えないサウロは、同行の人々が彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行ってもらうしかありませんでした。8節。そこには、それまでの血気盛んなサウロはいません。それまであったサウロの肉の自信はなくなり、それまで持っていた固定観念や先入観が崩れてしまいました。

U−目からうろこが落ちて−
 サウロは、三日間、目が見えず、何も食べずに祈っていました。9,11節。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という主の声が彼の頭を巡っていたでしょう。それまでの人生が走馬灯のように流れていたでしょう。劇的に主が自分と出会ってくださった意味を思い巡らしたことでしょう。そして、旧約聖書がイエス様の十字架を通して罪の赦しと救いを預言していたのだと悟りました。今までの自分の恐ろしい罪が認識されました。イエス様がそのために十字架にかかられたことが分かり、涙を流して悔い改めました。
 アナニヤというダマスコの聖徒に、主が幻の中に現れて、サウロを助けるように言われました。10〜12節。そこで、アナニヤは出かけて行って、サウロのために祈ってあげました。17節。するとたちまち、サウロの目からうろこのような物が落ちて、見えるようになりました。18節。これは、サウロの人生が変わった劇的な瞬間です。新しい人に生まれ変わったところです。Uコリント5:17。新しい人生を見る目が開かれました。あらゆるものが新しく見えて来たでしょう。霊的目が開かれました。
 彼の心が変わり、価値観が変わり、人生が変わったからです。価値観の変化を、以前の自分と比較して告白しています。ピリピ3:7〜8。以前誇っていたことを損と思うようになった、ちりあくたのようだと言っています。素晴らしい救い主イエス様が自分と会ってくださったからです。この主の一方的な愛がある限り、私たちは変わることができるのです。
 私たちも、サウロのような変化が必要です。劇的でなくても、霊的な目が開かれ、価値観が変わり、心が変わり、人生が変わって行くことを願います。頭だけの信仰、浮き沈みの信仰という言葉があります。信じてはいても、生まれ変わった体験がありません。以前の知恵と経験のまま生きています。肉の自信と以前の価値観のままです。どうすれば、いいのでしょうか。サウロのように、イエス様と人格的に出会うことです。そうすれば、目を覆っているうろこが落ちて、見えるようになります。18節。
 ダマスコ途上、突然天からの光が彼を巡り照らしたとありますが、主の働きは、突然始まったのではありません。それ以前からサウロの心に主は働きかけておられたのです。最も大きなことは、ステパノの殉教でしょう。ステパノを石打ちする人々の服の番をしながら、ステパノの様子を見、ステパノの言葉を聞きました。使徒7:58〜60。御使いのような顔と「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」という声は、サウロの心に深く残っていたでしょう。ああ、確かにそのとりなしのお陰でこんな私が罪赦されて、新しい命を与えられたとしみじみ感謝したのです。
 自分が捕縛し牢に入れた聖徒たちの姿も浮かんで来たでしょう。迫害する自分に対して向けられたのは、憎しみの目やののしりの声ではなかったのです。なぜ、どうしてという思いが心に増していたのです。自分のして来たこと生き方に疑問が生じて来ていたのです。私たちの心にも、主の働きは行なわれています。聞いた御言葉や経験した信仰の出来事が心に残り、私たちの心を導いてくれるのです。

V−選びの器−6,15
 目からうろこが落ちたサウロは、どのように変化したのでしょうか。それは、アナニヤを通して教えられました。15節。サウロが「主の御名を人々の前に運ぶ、主の選びの器」となるというのです。これは、サウロが迫害を止めて回心したから、この時選びの器になったというのではありません。主の選びというのは、どういうことでしょう。エペソ1:4〜5。創造のはじめから主の選びの中にあったというのです。選びの教理です。だからこそ、以前は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者であったとしても、悔い改めて、信じる者へと変えられたのです。Tテモテ1:13。誰よりも献身した人だから、選ばれた器になったのでもありません。救われたのは、主のあわれみなのです。
 私たちも、主の選びの器です。人は、何でも自分の考えと力で歩んでいるように思うかもしれませんが、創造のはじめから主の選びの中にあるというのです。この厳粛な事実を忘れないでください。主がそのご計画によって導き、用いることができるように、私たちも準備していることができますように願います。救われた者すべてが、選ばれた器です。素晴らしいですね。これを意識したら、生き方が変わります。
 私は主の選びの器だというアイデンティティーが薄れれば、その器の中身は、まったく別物でいっぱいになってしまうでしょう。主の選びの器は何に満たされるのでしょうか。御霊で満たされる必要があります。17節。サウロは、主の器とされたその後半生、聖霊によって用いられました。その成し遂げたことを見ても、人の力によるものではありません。聖霊が用いられたからできたことでした。
 器とは、道具のことです。私たちは、主の器でない者はいません。ただ、その器の形や用いられ方が違うだけです。比べる必要はありません。主の選びの器なのですから、イエス様の道具となり、用いられるのです。イエス様の手となり、腕となり、足となって福音のために用いられるのです。教会は、イエス様の体であり、かしらはイエス様です。私たちは、その一つ一つの器が私たちです。私たちも主に用いられる器に相応しく整えられ、造り変えられることを願います。
 信仰は、目が開かれることです。私たちも、目をおおっているうろこが落ちて、霊的にものを見ることができる成熟した信仰となりますように祈ります。Tコリント15:9〜10。



使徒9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。


Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ピリピ3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

使徒7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

Tテモテ1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

エペソ1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

Tコリント15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。


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