2021年3月28日「きょうわたしとパラダイスに」ルカ23:33〜43
序−社会では、暴言、陰口によるイジメが横行しています。日本では言葉の暴力は罪にならないとDVの被害者が訴えています。罵りや嘲りは、身体的暴力よりも、心に大きな傷を与えます。子どもの場合、暴言に接すると暴力に接する場合の6倍も、脳へのダメージが大きいそうです。イエス様の十字架の場面は、まさに罵りと嘲りに満ちていました。
T−罵り嘲る人々のためのとりなし−33〜39
イエス様は、強盗と一緒に十字架刑につけられました。33節。その光景を見ながら、そこにいた者たちが、イエス様を罵り、嘲っています。35~39節。イエス様を十字架にかけるようにさせたエルサレムの指導者たちは、イエス様の活躍を妬み、イエス様を嫌いました。救い主に対して、「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」と皮肉を言います。人を罵り、嘲る者は、悪口雑言を浴びる人にとって心が痛くなるようなことをわざと言うのです。しかし、イエス様は、十字架にかかることで、神の選ばれた救い主としての働きをしておられたのです。
また、兵士たちが「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言い、「これはユダヤ人の王」と書いた札を頭上につけたのも、嫌がらせのためです。あだ名を付けて、この罪状書は、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれたもので、大勢の人々がそれを見ました。ヨハネ19:20。嘲りのためにつけられた名もまた、イエス様が復活を通して、すべての民の王となられることを示すことになりました。
指導者たちと兵士たちの嘲りが終わったら、一緒に十字架につけられていた強盗までもが、イエス様の悪口を言い、罵りました。39節。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」といいました。同じ十字架刑にされ、人々の目にさらされている立場なのに、なぜ、悪口を言えるのでしょうか。罪の性質は、自分がされた嫌なことなのに、人にもしてしまうのです。この強盗は、十字架上でもがき苦しんでおり、その苦しみをイエス様にぶつけているようです。しかし、強盗の嘲りの言うように、イエス様はキリスト救い主でした。
救い主がこのような嘲りや罵りを受けるのことは、苦難のしもべの箇所でも預言されていたことでした。イザヤ53:3〜8。人々の嘲りや罵りを受けるのも救い主としての姿でした。救い主は、人々のために苦しみを受けてくださったからです。私たちの大きな苦しみの一つは、人から嘲られ罵られること、悪口や陰口を言われることです。それをイエス様も受けられた、私たちのためにその痛みを受けられたのです。どれほど、私たちの慰めとなることでしょうか。
このようなイエス様を嘲り、罵る人々に対して、イエス様は何とおっしゃっていましたか。34節。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」とは、彼らの罪の赦しをとりなし祈っておられたのです。何と言う愛なのでしょうか。彼らは、神の御子救い主を十字架にかけてしまうという罪を犯したにもかかわらず、彼らの無知をあわれみ、悔い改めと罪の赦しへ招いてくださったのです。
確かに、世において、悪口や嘲りを言う者たちは、それを受けた人がどれほど痛み、苦しむのが知らないのです。まさにイエス様が祈られたように、悪口や嘲りを言う者は、自分が何をしているのか分からないのです。私たちが、悪口や罵りを受けたならば、このイエス様の御言葉を思い出しましょう。あの人は自分が何をしているのか分からないあわれな人なのだと思い、主に委ねるのです。
U−御国で私を思い出してください−40〜42
強盗というのは、人の心にある欲望そのままに生きた結果です。しかし、罪人(つみびと)は、彼らだけでなく、救い主を十字架につけ、嘲り、罵っていた指導者や兵士たち、十字架につけろと叫んだ群集も、そうです。圧力の単位になっている物理学者パスカルは、「すべての人が罪人です。ただ、自分が罪人であることを知らない罪人と自分が罪人であることを知っている罪人がいるだけです。自分が罪人であるのを知らない者は希望がない罪人で、知っている者は希望がある罪人であるだけです」と言いました。
そうです。私たちも、罪人です。世の人々も罪人です。神の御前に立たされるなら、誰も自分に罪がないとは言えません。人間の強欲があふれる現代社会は、まさに人の罪が社会を混乱させ、人々の心を疲弊させています。罪に気付かないからです。でも、罪に気付けば、希望があります。
おそらく少し前までは一緒にイエス様を嘲っていたもう一人の強盗の心に、変化が起きました。40~41節。イエス様に悪口を言う強盗をたしなめます。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか」と責めました。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と、この人は、自分の罪を認めていました。私たちはどうでしょう。
十字架刑は、ローマ市民権を持つ者が受けることのない極刑でした。凶悪な犯罪人しか受けない者でした。だから、人々は、十字架につけられた者を嘲ります。イエス様は何の罪もなく十字架につけられてのですが、強盗である自分は、十字架につけられて当たり前だというのです。強盗が救われるのは、自分の罪を認めていたからです。
この人は、自分の隣で十字架にかけられたイエス様が自分たちと同じではないと気付きました。イエス様が罪のない方であると分かりました。イエス様は、痛めつけられ、罵られ、嘲られても、黙っていました。自分たちのそむきの罪のために苦しめられ、罰せられたのだと分かりました。その姿は、苦難のしもべそのものでした。イザヤ53:5〜6。ですから、このお方が救い主なのだ、このお方が救ってくださると信じたのです。
そして、「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言うのでした。42節。これは、驚くべき信仰告白です。この一言に、信仰そのものが込められています。イエス様の御国、天の御国を確信していました。死を超えて永遠に存在する天国に入ることを望んだのです。自分のような者も、悔い改めさえすれば救われることを信じました。御国に入るのは、ただイエス様によるのだと信じていました。
なぜ、この人は変わったのでしょう。あのとりなしの祈りが、心に響いていたのです。34節。とりなしの祈りを聞いて、自分のして来たことに気付き、悔い改めたのです。一つの御言葉が人を変え、人生を変えます。
V−きょう、わたしとともにパラダイスにいます−43
この強盗の信仰告白に対して、イエス様が驚くべき恵みの約束をしてくださいました。43節。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と宣言されました。この人の魂は、その日イエス様と一緒にパラダイスにあるというのです。どんなに素晴らしい、驚くべき恵みでしょうか。今は、十字架で言いようもないほど苦しみを受けていますが、しばらくすれば、イエス様と交わりをしながら安息と喜びの中にいるようになるというのです。主にあって召される者は、その日から天国でイエス様と交わりながら過ごすのです。
イエス様は、この信仰告白をする人に対して、どんな罪を犯して来たのか、なぜ罪を犯したのかなどと問うておられません。善行や努力も要求されていません。イエス様が救い主だという信仰の告白を聞いて、瞬時に天国の民として受け入れてくださったのです。「きょう」という言葉に、救いの即効性があらわれています。
この強盗の信仰告白を聞いた時、瞬時にイエス様は、「きょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。考えておきますとかは言っていません。この人は、信仰告白したその瞬間、素晴らしい約束をイエス様からいただいたのです。
こうして、2人の強盗は、同じ境遇でイエス様の言葉を聞いたのですが、一人は、最期までイエス様を嘲り続けながら、むなしく死にました。しかし、もう一人は、素晴らしい信仰を告白しまし、瞬時に天国の約束をいただきました。御言葉への応答の違いが、2人の強盗の間に、途方も無い違う結果をもたらすことになりました。これは、この2人だけの問題ではありません。福音を聞く一人一人にとっての問題です。
このパラダイスという言葉は、70人訳ギリシャ語旧約聖書では、エデンの園に用いられています。イザヤ51:3でも使われています。楽園のイメージです。イエス様を信じた者は、召されたら天国へ入るのです。ですから、聖徒たちの国籍は、天にあるというのです。ピリピ3:20。今でも、聖徒たちは、精神的には楽園の生活をすることができるということになります。私たちがイエス様と一緒にいるならば、エデンの園のような平安と喜びを享受できるのです。
十字架刑の強盗の信仰告白と願いを聞いてくださって、「きょう、わたしとともにパラダイスにいます」と約束してくださったことは、私たちに希望を与えてくれます。強盗は最期の死の淵から悔い改めて、イエス様を信じて救われ、天国に入ることができました。きょうという日に信仰告白をするのです。今は恵みの時、今は救いの日です。Uコリント6:2。私たちも、素晴らしい約束を受けている恵みを確信して歩みましょう。43節。
ルカ23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
イザヤ51:3 まことに【主】はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を【主】の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
ピリピ3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
Uコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
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