2021年4月11日「彼を引き受けて」使徒9:20〜30
序−功成り名を遂げた人には、その人を助けた人々がいます。一人でそうなったわけではありません。人が自分の人生を振り返っても、必ずそういう人がいるものです。使徒パウロにも3人の人がいたと言われます。そのような人々の姿から信仰を学びます。
T−とりなしの祈り、小さな助け−20〜25,使徒7:58〜60,9:13〜17
まずは、殉教者ステパノのとりなしの祈りです。サウロは、ステパノを石打ちする人々の服の番をしながら、ステパノの様子を見、ステパノの言葉を聞きました。使徒7:58〜60。御使いのような顔と「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」というとりなしの声が、サウロの心に深く残っていました。迫害を続けていた彼の心に響いていました。
サウロは、聖徒たちを捕らえにダマスコへ行く途上、光の中で復活のイエス様に出会い、劇的な回心を遂げたのですが、それまでもずっとステパノのとりなしの祈りがサウロの心に働きかけていたのです。確かに、そのとりなしのお陰で、迫害者であったサウロは回心し、罪赦されて、新しい使命を与えられたのでした。
私たちの回心や導きのために祈ってくれた人がいます。私たちの問題や困難のためにとりなし祈っていてくれた人がいるでしょう。とりなしの祈りで信仰が導かれ、問題を乗り越えることができたのです。何よりも、イエス様が私たちのためにとりなし祈っておられます。ヘブル7:25。とりなしの祈りに感謝して、応えたいものです。
サウロの回心のために、主に用いられた人がいました。前回登場したアナニヤです。使徒9:10〜17。その時、回心したばかりのサウロは、目が見えなくなっていました。どれほど不安だったことでしょうか。おそらくアナニヤは、ダマスコで尊敬を受けていた人なのでしょう。アナニヤの祈りの中に主があらわれ、サウロを助けるように言われると、彼は、迫害者サウロを助けるなんてと拒みます。自分たちを迫害するためにダマスコに来たことも知っています。
彼が拒むのは当然でしょう。サウロは有名な迫害者だったのです。しかし、主の選びの器だ、主のご計画だというのです。彼は中々理解できなかったでしょう。でも、主のお言葉なのですから、それ以上文句を言うことなく従いました。尋ねて行って、兄弟と呼びかけています。その一言で何も見えないサウロは安心し、感動したことでしょう。アナニヤによって助けられたサウロは、目が見えるようになって、洗礼を受けました。そして、ダマスコでイエス様が神の子であることを証ししました。20節。
こうして、サウロの新しい人生が始まりましたが、当然、ユダヤ人たちは、驚き、うろたえます。21〜22節。この道の者を捕らえに来たはずなのに、イエスを救い主だと証しするなんて、なんということだ。放っておけないぞと騒ぎ出しました。23〜25節。ユダヤ人によるサウロ殺害計画が露見すると、聖徒たちは、城壁からサウロをつり降ろして逃がしました。
アナニヤのしたことは、サウロを尋ねて行って、主の言葉を伝えるという小さなことでした。けれども、不安の中にいたサウロにとってどんなにありがたかったことでしょうか。そして、後のパウロ(サウロ)のキリスト教史上に輝く活躍を思うと、彼のした小さなことがどれほど大きな重要な働きだったかということが分かります。
アナニヤの働きや存在は、キリスト教会の中であまり覚えられることはありません。でも、それは小さな働きですが、歴史を変えた働きとなりました。私たちのしているとりなしの祈りや小さな助けが、後にどんなに大きな働きとなって行くかその時は分かりません。助けたその人が、後に偉大な人になるかもしれないのです。そう思うと、私たちの小さなとりなしや助けは、大事な祈り、大きな助けなのだと示されます。ヨブ8:7。子育てもそのように思ったら、どうでしょうか。
U−引き受け、育て、導く−26〜30
ユダヤ人の暗殺を逃れることができたサウロは、やがてエルサレムに戻りました。でも、サウロを待ち受けていたのは、裏切り者への制裁です。29節。聖徒たちを迫害しているユダヤ人にとっては、サウロは裏切り者です。元のユダヤ人社会に戻ることはできません。敵となったのです。ただの聖徒たちよりももっと憎い、憎しみの対象となりました。
当然、エルサレムの聖徒たちの仲間に入ろうとしました。ところが、彼らにとって、サウロは恐ろしい迫害者のイメージが強過ぎました。26節。エルサレムの聖徒たちは、サウロの回心を信じることができず、恐れたのです。仲間入りすることができませんでした。無理のないことです。エルサレムでは、恐ろしい迫害者でした。友人や家族がサウロの手によって牢に入れられた者もいたのです。まったくの孤立無援、四面楚歌です。何かの失敗や誤解のために、四方から責められ、敵対されたら、どんなに辛いことでしょう。新しい歩みを始めたのに、孤立無援、誰も助けてくれないということであったら、どれほど心細いことでしょうか。
そこに、バルナバが登場します。27節。他の聖徒たちが信じない時にサウロを信じてくれて、引き受けてくれて、保証してくれたのです。サウロのダマスコでの回心や福音を伝えたことなどを聖徒たちに説明しました。「彼を引き受けて」と訳された原語は、つかんで、手を取ってという意味です。まさに、手を取って助け、導いてくれたのです。その結果、聖徒たちの仲間入りをすることができました。28〜29節。
バルナバは、主の道具として用いられました。実は、彼の本名はヨセフであり、バルナバとは彼の人となりから付けられたニックネームです。使徒4:36。その意味は、慰めの子です。人々の心を癒し、慰め、励ましを与えていた人だったからそう呼ばれたのでしょう。このようなバルナバがサウロを引き受けてくれたので、聖徒たちも受け入れることができました。
信じて救われたからと言って、一人で礼拝して、信仰生活をすることができるのでしょうか。聖徒たちと一緒に礼拝をささげ、信仰の交わりを通して整えられ、成長して行くものです。新しい歩みを始めた時は、分からないことが多く、一人では不安があります。助けて、導いてくれる人が必要です。私たちにも、そういう人がいるでしょうか。
バルナバは、後には、故郷のタルソに引っ込んでいたサウロをアンテオケ教会に連れて来て、奉仕させ、御言葉で養育して、共に宣教へ遣わされるようにしてくれました。使徒11:25〜26,13:2〜3。
V−バルナバミニストリー−
後のパウロ(サウロ)は初代教会の偉大な宣教師です。偉大な人物の周りには、その人を偉大な人に押し上げた人々がいます。功成り名を遂げた人は、自分一人で成し遂げたように思ってはなりません。パウロの場合は、ステパノやアナニヤ、そしてバルナバがいました。とりわけ、彼を引き受けて、エルサレムの聖徒たちの仲間入りをさせ、郷里に引っ込んでいたサウロを連れ出し、訓練し、世界宣教師へ導いてくれたバルナバがいてこそのパウロでした。
ですから、昔からそのバルナバのような働き人を育成することをバルナバミニストリーと言っています。クリスチャンコーチングとも言います。「時として助けられ、また時としては助け手になる」という考えは、初代教会の人間関係の基本的な原則でした。バルナバによってパウロは成長し、世界宣教師として活躍して行きます。バルナバは、パウロと別れた後は、マルコを助け、導き、養育の働きをするようになります。
クリスチャンは、一人でいると、時には試みを受けて信仰が弱り、問題に翻弄されて落胆し、聖書の原理でなく世の肉の原理で生きてしまう時があります。ローマ8:4〜5。それは、サタンの策略です。ですから、私たちの霊的成長には、信仰の先輩による助けやフォローを受けることが非常に大切です。先輩メンバーや自分を導いてくれた人、信仰の友等が、信仰の回復と前進のために親しく、助けてくれます。
そのような養育の働きをしてくれる助け手、補佐役を「スポンサー」と呼びます。そして、その助け、導きを受ける人を「スポンシー」と呼びます。スポンサーは定期的にスポンシーと会ってくれて、時間を一緒に過ごし、分かち合い、とりなしの祈りをするなど、霊的な補佐をしてくれます。スポンサーの主な務めは、スポンシーの必要を聴き、継続して祈りに覚え、示された励ましの御言葉などをスポンシーに伝えたりすることです。
そのような関係の中で、信仰が整えられ、養育され、信仰生活の素晴らしさを味わうことになります。スポンシーがやがて他の兄弟姉妹のスポンサーとなり、用いられて行くようになります。こうして、信仰の養育、建て上げが行なわれます。バルナバのとりなしの働きを受けて行くうちに、バルナバのとりなしの心はパウロのものとなり、他の弟子たちのために、心砕いて、養育の働きをするようになりました。
私たちも、かつては兄弟姉妹のとりなしの恩恵を受けた者です。今も受けているでしょう。私たちは、互いに「時として助けられ、また時としては助け手になる」関係を持ちましょう。そして、私たちの助けやとりなしを必要とする誰かのためにとりなし祈り、助け、励まし、信仰の養育の働きをして行くのです。労苦があったとしても、後にはその人たちが自分の誉れ、誇りの冠となるでしょう。Tテサロニケ2:19。
使徒9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
9:21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
9:23 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
9:24 その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。
9:25 そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。
9:26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
9:27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
9:28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。
9:29 そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
9:30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。
使徒7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
使徒9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
ヨブ8:7 あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。
使徒11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
Tテサニケ2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
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