2021年4月18日「生きて何を残しますか」使徒9:31〜43

序−中国五代十国時代の武将、王彦章は「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」と言いました。そう言った王彦章自身、後世にその名を残しました。果たして、私たちは人生を生きて何を残せるのでしょう。今日の箇所には、そんなことを私たちに考えさせる人々が登場しています。

T−病の中でも仕えて−31〜35
 使徒の働きには、多くの奇跡があります。そんな奇跡は受け入れられないと話全体を斥けてしまう人がいます。奇跡は、神様の救いの恵みを広げるためになされる神様のあわれみの手段であって、それ自体が目的ではありません。今日の箇所でもそうです。35,42節。奇跡そのものよりも、もっと大切なことに目を向けさせてくれます。
 31節にあるように、エルサレムから散らされた聖徒たちが、行く先々で福音を宣べ伝え、信仰共同体を形成して行ったようです。そうした中で、使徒ペテロが巡回しており、ルダという町に来ました。32節。ルダとは、エルサレムから地中海に向かって42kmほど西にある町です。賛美にも出てくる美しいシャロン平野にある町です。この町に、アイネヤという8年間、中風を病んでいた人がいました。33節。症状は、ほとんどベットに横たわっている状態であり、不自由な生活を余儀なくされていました。
 アイネヤという名が記されているということは、ルダで有名な聖徒であったことがうかがわれます。聖徒たちによってペテロが尋ねるようにされていることからしても、このアイネヤという人は、聖徒たちから慕われ、尊敬されていたことが分かります。本人も、信仰生活に喜びがあり、しっかり生きていたようです。なぜ、病床にあった人が、主人公になっているのでしょうか。
 人々の救いに仕え、教会に仕えていたからでしょう。身動きできない体でどのようにしていたのでしょう。もちろん、名前をあげて、とりなしの祈りをしていたことでしょう。集会には、人々に連れて行ってもらい、そこで人々と交わり、励ましてくれたのでしょう。手紙を書き送ることもできたのかもしれません。体育教師だった星野富弘さんは、事故で首から下が動かすことができなくなりましたが、三浦綾子さんの作品を通してクリスチャンとなり、口で素晴らしい文と絵を描き、キリストを証しし、多くの人々に励ましと感動を与えています。
 アイネヤも、どんな境遇にあっても、主の栄光をあらわすことができることを教えてくれる姿です。その後、イエス様の御名によって癒されました。34節。でも、癒される以前から、すでに、中風で病んでいた時からこの人に主の救いの力が及んでいたのです。
 聖書は、人に仕え方として、主のしもべとして、主に仕えるように、イエス様の愛を持って仕えるようにと教えています。エペソ6:6〜7,24。私たちは、イエス様に救われ、主の愛を受けています。ですから、イエス様を愛し、イエス様に仕えようとします。その愛を持って人を愛し、主に仕えるように人に仕えるのです。その心があれば、仕えることができます。どう仕えればよいか主が教えてくださいます。
 人は、ややもすれば人にしてもらっていないことばかり考えて不満に思い、期待通りしてくれないと不平を言うものです。人に仕えるなど、よっぽど余裕がないとやれない、力がないとできないと思いがちです。自分の状態に不満があれば、仕えることなど考えもしません。しかし、人は、反対に人に仕えることで生きる喜びと確かさが与えられ、人に仕えることが地上の生涯を生きた証しとなります。

U−物心両面で仕えて−36〜39
 もう一人の仕える人は、その仕えた様子がはっきり記されています。ルダからさらに18kmほど下って行くと、ヨッパという港町に着きます。その意味が美しいという町です。その町に、タビタ、ギリシヤ語でドルカスという名の女性がいました。36節。名前の意味は鹿であり、美しさをあらわしています。
 「女弟子」という名称が付いているくらい、福音に献身して、そのために人々によく仕えていた聖徒であったことが分かります。生涯を通して、救い主イエス様をあらわして生きていました。その内容は、「多くの良いわざと施しをしていた」と記されています。良いわざは、体を使って仕えていたことであり、施しは物質でもって仕えていたということです。
 元々社会には、昔からおすそ分けやお福分けの習慣があります。ですから、よくいただいた物や持っている物をくださる人がいます。また自分で作った物や食べ物を分けてくださる人がいます。タビタさんも、そういうことを特に心がけていた人だったということです。具体的には、下着や上着を貧しい人々に作ってあげていたのです。39節。私たちの周りにも、裁縫、ソーイングが得意な方がいらっしゃいます。自分のできることで体を使って仕えていたということです。昔のことですから、衣服は簡単に手に入れることができない、とても貴重な物だったでしょうから、いただいた人にとっては、とてもありがたかったのです。
 ただ衣服をあげるというだけだったら、こんなにも感謝されないでしょう。女弟子という名称が付いているのですから、信仰でしていたということです。たとえば、寸法を取る時でも、色々話ができたでしょう。やもめの心情や生活の様子を聞き、慰めや励ましを与えてくれたことでしょう。そして、その人の必要を覚えて助けてくれたのです。ここにも、スポンサー・スポンシーの姿があります。助けて、仕える人々の霊的スポンサーの働きをしていたのです。
 その名前から、鹿のように目が美しい女性だったようですが、霊的な目が美しかったのです。タビタさんは、困難な状況にある人や不幸な境遇にある人に目が留まりました。やもめや弱い人が目に入ると、放って置けませんでした。自分にできることは何かと考えました。衣服に困っている人には下着や上着を作ってあげて、孤独な人には話し相手になりました。そのようにして、人々に仕えたようです。
 タビタさんは、どうしてこのような生き方をするようになったのでしょうか。このような姿は、私たちの救い主イエス様が示してくださった姿です。マルコ10:45。神の御子であるイエス様は、私たちに仕えるために来たと言い、私たちの救いのために十字架の犠牲になられました。ですから、このイエス様の贖いを受けた者は、自分にできることを通して、人々に仕えて行くのです。タビタさんは、イエス様の救いを受けて、自分がどのように生きればよいか示されたので、このように生きて来たのです。

V−聖徒は生きて信仰を残す−40〜43
 ところが、その頃タビタさんが病気になり、死んでしまいました。37節。聖徒たちは、すぐに埋葬する気になれず、すずしい屋上の間に遺体を安置して、ルダにいた使徒ペテロを呼んで来ました。38節。屋上の間に案内されたペテロに、やもめたちが泣きながら、タビタさんに作ってもらった下着や上着を見せるのでした。39節。この場面が圧巻です。「ねね、これタビタさんが作ってくれたの」「私も、これを」などと、口々に言う場面が目に浮かぶようです。これが、まさにタビタさんの残したものです。タビタさんの仕えたことの証し、信仰の足跡です。いや、そのように服を見せて、タビタさんのことを話す人々に心に、タビタさんの信仰が残されたのです。私たちは、何を残すのでしょうか。
 ペテロが「タビタ。起きなさい」と言うと、起き上がりました。40節。つまり、イエス様によって生かされたということです。マルコ5:41。このことでヨッパの人々が大勢信じました。42節。タビタの証しがなされたということです。アイネヤの場合も、そうでした。35節。病気を癒されたり、生かされたりした後も、イエス様の救いを証しし続けたということが重要です。
 言ってみれば、イエス様に救われた人は、心を癒され、新しい命をいただいた者です。ガラテヤ2:20。ですから、新しい命、新しい人生をもって人々に仕え、それでもってイエス様の救いを証しして行く者となるのです。救われた私たちも、アイネヤやタビタのように人々に仕えて、イエス様の救いを証ししたいと願います。
 men for othersという言葉があります。欧米では「他者のための人であれ」という理念が、キリスト教の伝統の中で教えられて来ました。私たちの救いのために十字架にかかられたイエス様は、まさにそのような地上での生涯でした。マルコ10:45。今日ますます資本主義の強欲さが、社会を混乱させ退廃へ向かわせています。他の人のことを考えない利己主義が蔓延しています。ですから、そんな社会で生きている私たちは、まず自分の周りで人々に仕える生き方をして行かなければと思わされます。
 道徳的に学んだからできることではないでしょう。人を愛し、人に仕えるというのは、イエス様が私を十字架に犠牲になられるほど愛してくださり、仕えてくださったという救いの体験が導いてくれます。私たちは、地上の生涯を生きて何を残せるのでしょうか、何を残すのでしょうか。私たちは、信仰でもってそれぞれ自分にできることで世に仕え、人々に仕えたいのです。そのように信仰で生きた足跡を残したいのです。信仰は行いとともに働き、残ります。残すべきものは、信仰の生涯です。ヤコブ2:22。




使徒9:31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
9:32 さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。
9:33 彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。
9:34 ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。
9:35 ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。
9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
9:37 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
9:38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。
9:39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
9:40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
9:42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
9:43 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。


エペソ6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ヤコブ2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、


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