2021年5月2日「思い込み、偏見を超えて」使徒10:9〜48

序−人は思い込みの中で生きていると学者たちが言っています。思い込みの類似語に、先入観、固定観念、偏見があります。思い込みが凝り固まったものが固定観念であり、それが間違っているものを偏見と言うようです。私たちは、どうでしょうか。今日の箇所に登場する人々を通して、思い込み、偏見をどのようにして乗り越えていくのか教えてくれます。

T−思い込み、固定観念に囚われて−9〜20
 学者たちの言うように、人々は多くの思い込みの中で生きています。神の子どもである聖徒たちも例外ではありません。何と、使徒ペテロが、固定観念に囚われていて、偏見を持っていたのです。前回の箇所で、ローマ軍の百人隊長コルネリオに対して、幻を通して神様はペテロを招くようにと言われました。神様は、ペテロに対しても、幻を見せてコルネリオに会う準備をさせます。
 こんな幻です。9〜16節。皆さんは、空腹で寝ていたら、食べる夢を見るのでしょうか。四隅が吊るされた大きなシーツのようなものに様々な動物が入ったものが降りて来て、みな食べなさいという声が聞こえたというのです。ペテロは、「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と食べることを拒否します。好き嫌いで拒否したのではなく、きよくない物や汚れた物と表現されていたように、律法によるユダヤ人の慣習で食べてはならないとされた動物が含まれていたからです。レビ記11:1〜19。
 おそらく、これらの規定は、病気の蔓延や食中毒の防止のためだったのでしょう。とにかく、それらの規定は、ユダヤ人の独善的な固定観念となりました。それらの肉を食べたら汚れると思い込んでいたのです。ここに選民意識が加わり、異邦人は汚れた者たちだ、交わってはいけないとしていたのです。ひどい偏見を持っていたのです。
 イエス様は、はっきりと食べ物が人を汚すのではなく、人から出るものが汚すと言われました。マルコ7:18〜23。それにも関わらず、ペテロはまだこの固定観念を持っており、偏見に囚われていたのです。こんなことが三回あったのは、それだけこの偏見、固定観念が強かったためです。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と厳しく言われました。私たちには、どんな固定観念や偏見があるのでしょうか。
 なぜ、こんな幻を繰り返されたのでしょうか。それは、そのままであったら、ローマ人であるコルネリオの招きに応じることがないからです。ユダヤ人の慣習では、異邦人の家に入るのもけがれると思い込んでいたからです。この固定観念、思い込みは、神様がきよいと言っても、聞かないくらいでした。律法を与えた神様が言っても聞かないのです。ここまで来ると、神様を信じているのか、自分たちの慣習を信じているのか、どっちなのだということになります。
 望みがあるのは、思い込みや固定観念を持っていたペテロではあっても、否定したままだったのではなかったということです。17節と19節を見てみましょう。「幻はいったいどういうことだろうと思い惑っていた」「幻について思い巡らしていた」というのです。だれでも思い込みはあります。固定観念が作られます。でも、それでいいのかと思い惑い、どうすればいいのかと思い巡らすことがあればいいのです。聖書ではどう言っているのだろうか、と黙想することが大事です。
 何か事が起こったら、これはどういうことなのかと思い惑い、どうすればいいのだろうかと思い巡らすのです。御言葉を読み、祈り、黙想してみるのです。信仰で考えることが必要です。箴言16:9,マタイ1:20。

U−御言葉、導きに聞き従って−21〜32
 ペテロが幻について思い惑っていた「ちょうどそのとき」、コルネリオの使者が到着しました。17節。思い巡らしていた時、「ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです」と聖霊が教えてくれました。19節。ドラマのようですね。信仰生活をしていると、よくこういうことが起きます。思い惑っていると、理解させる出来事が起こったり、祈っていると、その人から連絡が来たりするのです。
 大事なことは、この後です。せっかく異邦人であるローマ軍百人隊長との会合が準備されていたのに、それに応じなければ、その後の進展はまったくありません。そんなこと言われても、異邦人との交わりは許されていません。ローマ兵に会いに行くなんてありえませんと拒んだら、話はそこで終わりです。固定観念と偏見を乗り越えなければ、受け止めることはできないことでした。
 しかし、ペテロは降りて行って、使者たちと会い、用件を聞きました。21〜22節。聞けば、忌むべき偶像崇拝している異邦人ではなく、神を恐れて、ユダヤ人以上に律法を守っている人だということが分かりました。それで、翌日「ためらわず」にコルネリオの家へ出かけました。29節。その結果、異邦人とユダヤ人の感動的な出会いとなります。24〜28節。28節は、ペテロが思い込みや固定観念を乗り越えた姿があらわされています。今までペテロ自身が固定観念や偏見を持っていたことが分かりました。その固定観念や偏見が間違っているという神様の指摘を受け入れました。
 私たちが、人と出会い、人と交わる時、固定観念や偏見を持ったままだと、躓きや衝突が起こりやすいでしょう。夫婦の場合でも、まったく違う環境で育ち、それぞれ違う生活習慣や考え方を持っている2人が生活をともにするのですから、思い込みや固定観念を一つ一つクリアーして行かなければなりません。人間関係の躓きや争いの元は、はじめは小さな思い込みや固定観念のせいです。これを押し付け合うから、関係がこじれて行くのです。どうしてなのかなと思い巡らし、どうすればいいのかなと考えるのです。主に祈り、御言葉に聞くのです。
 そして、示されたならば、素直に従うのです。頑ななままだと前進しません。改まりません。もう一方のコルネリオは、とても、ユダヤ人の律法や慣習をよく知っていたので、自分は異邦人だし、ユダヤ人を家に招くことはできない、直接話を聞くことはできないと思い込んでいたのでしょう。ですから、幻を通して神様がペテロを招くように言われなければしなかったです。でも、コルネリオは、もっと従順でした。29〜33節。幻を見たら、「すぐに」ペテロに使者を遣わしています。私たちも、主の導きが分かったら、なすべきことは、導きに聞き従うことです。

V−神の御前に−33〜48
 固定観念や偏見を乗り越えたペテロは、コルネリオがなぜ自分を招いたかその理由を知って、神様が何のために出会わせたか、はっきりと分かりました。34節。この神を恐れ、御言葉を守り、救いを求める異邦人に、福音を伝えるために、イエス様の救いを知らせるために主は出会わせたのだと分かったのです。35〜36節。どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられる、救い主イエス・キリストはすべての人の主ですとはっきり宣言しています。ユダヤ人としての固定観念を乗り越え、偏見から解放された者として、福音を語っています。これが、幻を見せた目的でした。
 こうして、ユダヤで始まった救い主イエス様の福音は、異邦人のローマに伝わることになります。福音を伝えるということは、民族の伝統と文化を乗り越えることです。人々の思い込みや固定観念を乗り越えることです。この人は聞いてくれない、あの人は無理だろうという思い込みを超えてこそ、証しできるのです。福音を信じることも、それまでの固定観念や偏見を超えてこそ、罪の生活習慣を悔い改めてこそ、信じることができます。ヨハネ1:46。
 ペテロは、イエス様がユダヤ人の待っていた救い主であり、その十字架の死と復活を簡潔に説明しました。40〜41節。そして、イエス様の十字架の死が自分の罪と滅びの犠牲であると信じる者には、罪の赦しが与えられると福音を証ししてくれました。42〜43節。これが、福音の核心です。聖書の中心です。罪の代償は死です。イエス様が復活されたのは、罪の代償が完全に支払われた証拠です。救われた者は、もう罪に囚われてはいません。罪と裁きから解放されていることを確信してください。
 この時、福音を聞いていた者たちに聖霊が下りました。43節。イエス様を救い主と信じたことが分かると、洗礼を受けるように促しました。47〜48節。実際に異邦人が福音を聞いて信じるようになると、ペテロは驚きました。45節。福音を話しているペテロ自身、聞いている異邦人が救われるのを見て、非常に驚いたのです。これが、聖霊の働きです。聖霊の働きに従順になった結果です。
 この時のコルネリオの態度に注目しましょう。33節。「伺おうとして、みな神の御前に出ております」というのです。実際には、コルネリオはペテロの前に立っています。ペテロを見ています。しかし、心は神の御前に出ているというのです。素晴らしいですね。御言葉を読み、聞く時、神の前に出ていると思うのです。だからこそ、聖霊が働いて、福音を聞いて、イエス様を救い主と信じることができ、罪の赦しを受けることができました。私たちは、どんな思い込みや固定観念を持っているのでしょう。固定観念や偏見を乗り越えて、主の前に出ましょう。ローマ14:14〜15。



使徒10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。
10:18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。
10:19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
10:20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
10:21 そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」
10:22 すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」
10:23 それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。
10:24 その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。
10:25 ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。
10:26 するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言った。
10:27 それから、コルネリオとことばをかわしながら家に入り、多くの人が集まっているのを見て、
10:28 彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
10:29 それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」
10:30 するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、
10:31 こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。
10:32 それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』
10:33 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。


箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは【主】である。

マルコ7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。

ローマ14:14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

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