2021年5月16日「キリスト者と呼ばれた」使徒11:19〜30

序−何か困難や試練が起こると、マイナスイメージで見てしまいます。悲観的、否定的になります。しかし、御言葉は、「神を愛する人々のためには、神がすべてもことを働かせて益としてくださる」と約束しています。はじめて異邦人教会ができて行く中で、そのことを見せてくれています。

T−迫害によって散らされて−19〜21
 事の起こりは、ステパノの死から迫害が起こって、多くの聖徒たちが、エルサレムから迫害を逃れて行き、行く先々でユダヤ人に福音を伝えたことからです。19〜20節。そのうち、ローマ帝国3番目の大都市であるアンテオケまで逃れて来た人々が、ギリシヤ人にもイエス様のことを語るようになりました。そして、大勢の異邦人がイエス様を信じるようになるという驚くべきことが起こったのです。
 注目すべきことは、エルサレムでの迫害という患難をきっかけとして、異邦人にも福音が伝えられるようになったということです。イエス様の御言葉が実現して行きます。使徒1:8。迫害によってエルサレムから散らされた人にとって、大変辛く悲しい、不安な状況です。新しい所で生きて行かなければなりません。そのような中で、彼らは一層信仰に生きるようになり、ユダヤ人以外にも福音を伝えるようになったのです。それが、また彼らの心を励まし、恵みを覚えることとなりました。
 うまく事が運び、願う通りになる時、信仰に生きるようになり、信仰が成長するとは限りません。かえって、患難に会って信仰に目覚め、苦しい中で信仰に生きるようになることがあります。迫害によってアンテオケまで散らされた聖徒たちが、そうだったのです。最初は、危険を避けて散って行ったのですが、何のために散らされたのかと考えた時、こうして福音が広がって行くということを知ったのでしょう。
 ここから教えられることは、私たちに起こる理解できない苦難や問題にも、神様の驚くべきご計画や働きがあるということです。私たちの知らない目的や意図が隠されているというのです。ローマ8:28。酷い目にあった、望みもないと落胆するよりは、神は私を救うためにイエス様を十字架に渡されたのだから、見捨てない、すべてのことを益としてくださると信じるのです。
 ですから、彼らは迫害によって散らされるという患難を通して、信仰が変えられ、成長し、成熟しました。信仰が変えられた彼らは、ユダヤ人の言い伝えを乗り越えて、異邦人にも福音を語るようになったのです。患難や試練という出来事は、かえって信仰が変えられ、霊的に成長する機会ともなります。
 こうして、最初の異邦人教会の礎を築いたのは、迫害によって散らされた人々でした。そんな無名の人々によってアンテオケ教会が作られ、その教会が、迫害によって散らされた彼ら自身を育む教会となりました。辛い悲しい状況でひたすら主を信頼して行ったところ、主に用いられて、異邦人宣教の始まりを担ったのでした。21節を見てください。「主の御手が彼らとともにあったので」とあります。患難の中で、主に信頼し続けたから、主の御手が彼らとともにあったのです。困難や試練の中にある時の私たちも、そうではありませんか。

U−サウロを捜しにタルソへ−22〜26
 この素晴らしいニュースを聞いたエルサレムの使徒たちは、バルナバをアンテオケに遣わすことにしました。22節。バルナバと言えば、サウロの回心のときに登場した、慰めの子という名をもって呼ばれていたヨセフです。使徒9:27。迫害で散らされた人々に慰めと励ましを与えたことでしょう。聖霊と信仰に満ちていたりっぱな人物であったバルナバは、このような群れをまとめるには、ぴったりの人でした。22〜24節。
 バルナバによって慰めと励ましを受け、アンテオケ教会はますます大きくなりました。24節。そうすると、バルナバ1人で奉仕することは、困難になって来ました。教会を整えるには、御言葉の養育が必要だと悟らされました。そこで思い出されたのが、あのサウロです。使徒9:27。パウロを捜しにタルソに行きました。25節。
 サウロは、どうして生まれ故郷のタルソにいたのでしょう。そもそも、サウロはどんな人でしたか。ステパノの殺害に賛成していた人であり、教会を迫害していた急先鋒で、聖徒たちを捕まえては、牢屋に入れていました。使徒8:1〜3。聖徒たちが散らされた原因の1人でした。ところが、ダマスコまで聖徒たちを捕まえに行く途中、幻の中でイエス様に出会い、回心したのです。使徒9:1〜5。ところが、回心したサウロがエルサレムに戻ると、ユダヤ教の人々は裏切り者としてサウロを殺そうとし、聖徒たちは疑い恐れていました。その時、バルナバの助けによって、聖徒たちの仲間入りを果たすことができました。使徒9:27〜28。
 でも、その後すぐには活躍できなかったのです。そのせいなのか、殺害計画から逃れるためか、とにかく、賜物に恵まれ、活動的なサウロは、挫折して故郷タルソに引きこもっていたのです。誇りとしたものが崩れてしまいました。ピリピ3:4〜6。この期間、学者によっては2年間あるいは12年間、タルソに引きこもっていたというのです。せっかく回心したのに、どうして用いられないのだろう、人はなぜ分かってくれないのだろう、自分はどうすれば、そんな思いの中に沈んでいたのかもしれません。
 私たちにも、そんな期間があるかもしれません。挫折を味わい、引き下がる時があるでしょう。左遷され、仕事が干される時もあるでしょう。中々活躍できない、用いられない、人から認められない、評価されない、そんな思いに沈む時があるでしょう。賜物がないからなのですか。いいえ、聖書によれば、それぞれ賜物をいただいています。Tペテロ4:10。
 バルナバは、引きこもっていたサウロに一緒に奉仕しようと誘います。エルサレムでのように、あれこれ言う人はいません。命をねらう人もいません。安心して活躍できる所です。そもそも、異邦人宣教は、イエス様からの使命でした。使徒9:15。そうです。パウロが用いられる時がこの時であり、用いられる場所がアンテオケだったのです。誰にも、主の時と主の場所があるのです。その主の導きをキャッチしてください。
 その間、迫害した人々の痛みを思いやったり、主がどのように用いてくださるか黙想したり、福音で旧約聖書を学び直したり、そんな期間ともなったでしょう。無駄な期間ではなく、用いられる備えの期間だったのです。ですから、すぐに用いられなかったのも意味があり、挫折も意味があったのです。時至って、主がバルナバを遣わしてくださいました。神がすべてのことを働かせてくださって、この時を迎えたのです。ローマ8:28。

V−初めて、キリスト者と呼ばれるように−26
 このようにサウロが活躍できるようになったのも、バルバナのお陰、いやバルナバを用いられた主の導きです。バルナバは、謙遜な人です。人との関係を取り持ち、人々の痛みや悩みにより添う賜物であるバルナバは、新しい教会を御言葉の養育で建て上げるには、御言葉の養育の賜物のあるサウロが必要でした。自分の役目は、サウロを引き受けて仲間入りをさせ、サウロを捜し出して、共に教会に仕えさせることだとわきまえていました。しかし、このようなバルナバの存在なくしては、サウロ、のちのパウロはありません。
 26節の「まる一年の間、彼らは教会に集まり、大勢の人たちを教えた」というのは、まさに御言葉の養育、弟子訓練です。私たちの教会のNLSも、このような初代教会に倣って行なわれていることです。こうして、整えられ、霊的にも成長したアンテオケ教会は、ユダヤ地方にききんが起こった時、エルサレム教会を支援するまでになりました。28〜30節。
 そのように整えられ、成熟した聖徒たちが、何と呼ばれるようになったのでしょう。26節。「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」というのです。これまでは、弟子たち、聖徒たち、兄弟たちとか呼ばれていました。アンテオケ教会の聖徒たちが、世の人々からキリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったことは、重要な意義あることです。
 原語クリスティアノスとは、キリストに属する者、キリストの追従者という意味です。聖徒たちが、いつもキリストだけのことを考えて、キリストのために働き、いつもキリストに従い、キリスト中心の生活を送っていたので、町の人々は、聖徒たちをクリスチャンと呼んだのです。キリスト狂いのイメージを持った揶揄した呼び方だったのでしょうが、聖徒たちにとっては、誇らしい名前となりました。今日、私たちはクリスチャンと呼ばれるなら、アンテオケの聖徒たちを思い出し、果たして自分はそういうキリスト中心の生き方をしているのだろうかと省みます。
 イエス様のために迫害を受け、困難を受けながらも、イエス様を愛して、イエス様の十字架による救いを感謝して生きた時、イエス様に似た者となって行きました。そして、世の人々から、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったのです。始まりは、迫害によって散らされ、痛みや不安の中から主に信頼することからでした。失望落胆して引きこもっていた所から引き出されたからでした。苦難や試練を乗り越えて、私たちも、彼らのようにキリスト者、クリスチャンと呼ばれたく願います。ローマ8:28。



使徒11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。


ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

使徒9:27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
9:28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

使徒9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

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