2021年6月27日「神の恵みにとどまって」使徒13:26〜43

序−私たちが信仰者として生きて行くのに必要なことは、主の恵みを覚えて反応しているかにかかっています。ですから、主の恵みをどれほど受けているか、いや恵みを知っているかが重要になって来ます。ピシデヤのアンテオケの会堂に集まっていた人々の姿を通して学びます。

T−私たちに送られている救いの言葉−26〜37
 ピシデヤのアンテオケはローマの属州となり、ローマ人とギリシャ人とユダヤ人が主に集まってできた国際都市です。今その地にある会堂でパウロの説教を聞いているのは、ユダヤ人と神を恐れる人々です。26節。ユダヤ人は、アブラハムの子孫で律法を持っていることを誇っていました。神を恐れる人々とは、退廃したローマ帝国にあって、律法にあこがれて来ている異邦人でした。
 彼らの問題は、安息日ごとに読まれる預言者のことばを聞くだけで、理解していなかったのです。27節。旧約聖書全体が来るべき救い主イエス様について預言されたものであるのに、救い主についてはまったく知らなかったのです。どうしてそんなことが起こっていたのでしょう。救いの言葉が自分たちに送られていることを自覚していなかったことです。26節。
 これは、今日の聖徒たちにも起こる問題です。御言葉を聞いていても、自分たちに送られている救いの言葉として聞いて、自分に適用していなければ、彼らと同じです。謙虚になって私に語られている御言葉だと聞き、黙想して、御言葉通り生きようとすることが大切です。
 エルサレムのユダヤ人は、安息日ごとに読まれる預言の言葉が、この地に来られた救い主イエス様を示していたにもかかわらず、そのことを信じようとしませんでした。そして、エルサレムの指導者たちは、自分たちの既得権益を侵害されると怖れて、救い主イエス様を十字架にかけてしまいました。28〜29節。驚くべきことに、救い主の苦難と死を預言した御言葉を成就させることになりました。イザヤ53:3〜11。
 しかし、神様は、救い主イエス様を死からよみがえらせてくださいました。30〜31節。イエス様が救い主として世に来られたのは、神様が人々を救うためにご自分の息子を送るという約束をされたとおりでした。32〜34節。34節は、イザヤ55:3の契約の引用です。その約束は、神様がイエス様を死者の中からよみがえらせて、永遠に朽ちない、永遠の命を持つ救い主にするというものです。35〜37節。35節は、詩篇16編10節の引用です。このように救い主イエス様が来られるのは、神の約束であり、約束どおり復活されたのです。
 ユダヤ人の会堂では、安息日ごとに御言葉が朗読されていたのですが、その意味が正しく知らされていなかったので、救い主を受け入れることができなかったのです。こうして、パウロを通して、御言葉がことごとくイエス様のことを示しており、イエス様を通して御言葉の約束を成し遂げられたことを知ることができました。御言葉が自分たちに、自分に送られていたことが分かったのです。
 どれほど衝撃的だったことでしょうか。安息日ごとに聞いていた御言葉、自慢と教養として聞いていたに過ぎなかったものが、神が自分に語られていたことだと分かったのです。漠然と求めていた救い主がイエス様のことだったと知ったのです。どんなに驚いたことでしょうか。毎週私たちが聞く御言葉もまた、私たちへ語られたものです。私たちの日常生活と人生のために示されたものです。私たちの名前を呼んで、語られたものです。どれほど衝撃的なことでしょうか。そのように聞くならば、私たちの具体的な生活の出来事、人生の問題についても適用へ導かれます。

U−福音を聞いたなら−38〜41
 パウロは、旧約聖書に記されたことが、イエス様の十字架の死と復活を指し示したことであり、約束の成就であることを語った後、聞いている人々と一体どういう関係があるのか、知らせています。38〜39節。そうです。罪の赦しが、ずばり宣言されています。今パウロの説教を聞いている人々の罪の赦しが、イエス様の十字架の死と復活によって与えられるとはっきり教えています。イエス様を救い主と信じることによって、罪の赦しが与えられる、つまり信仰による義こそが福音の中心です。ローマ3:24。
 彼らは、律法を聞いていましたが、律法を守ることによっては救いを得られませんでした。律法によって、かえって罪を知るだけでした。ローマ3:20。倦み疲れていました。しかし、「あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方による」と聞いたのです。イエス様によって自分の罪の赦しが与えられるのだとはっきり分かったのです。律法も、罪の赦しのためです。罪の赦しが必要なことを教え、罪の赦しのための儀式でした。やがて来られる救い主による罪の赦しに備えさせたものでした。
 38節の「解放」は、原語では「赦し」です。罪の赦しによる罪と滅びからの解放を意味しています。人は罪の奴隷にあり、罪の結果滅ぶ者となっていました。律法で正しいことが示されていても、守れないことを知るばかり、罪があることを知るだけでした。努力すればするほど絶望感に陥ります。人々は罪の自分を知って自分を責めます。罪に翻弄される自分に空しさを感じます。罪の原語ハマルテァとは的外れです。罪の赦しは、的外れの人生から解放されるのです。罪の奴隷と滅びから解放されるのです。新しい命に生きることができるのです。どれほど素晴らしいことでしょうか。
 しかし、救いの恵みが素晴らしいだけに、これを無視することはどれほどむなしいことか、自分のために十字架に苦しみ死なれた救い主イエス様を拒むことがどれほど愚かなことか、強調されなければなりません。
 パウロは、不思議なことを言っています。40〜41節。41節は、ハバクク1:5の引用です。ハバククという預言者は、BC6世紀南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされる時に働いた人です。神の民でありながら神の御言葉に背を向けながら、勝手な願いをする民に対して、バビロン帝国すなわちカルデヤ人による南ユダの滅亡を警告しているところです。福音を無視して、拒んで、この預言者が言っているようなことを自分に招かないようにしなさいと言っているのです。
 イエス様を救い主と信じないで、福音を受け入れないことは、勿体無いどころではありません。罪と支配と滅びから解放されず、罪に翻弄されて空しく生きることになります。天国のいのちを得ることができません。ハバククが警告するのも、それまでの生き方を変えなさいというのです。パウロが福音を語った後にこの箇所を引用するのも、福音を聞いたからには、決断して、生き方を変えなさいと、信仰の決断を促しているのです。
 御言葉は、神様が私たち一人ひとりに語りかけているのですから、返答します。御言葉の具体的な適用を求めます。適用に導かれたならば、その導きに応答して生きようとするのではないですか。

V−神の恵みにとどまっているように−42〜43
 ピシデヤのアンテオケの会堂に集まった人々の反応はどうでしたか。42〜43節。今まで聞いて来た御言葉が、救いの御言葉であり、救い主を教えていたことが分かりました。イエス様が救い主であったことを知りました。イエス様の十字架の死と復活を信じることで罪の赦しを得、罪と滅びから解放されることが分かりました。イエス様を信じました。ガラテヤ2:16。ああ、そうだったのかと彼らは深い感動を覚えたのです。
 もっと福音を聞きたい、次の安息日にも話してほしいとお願いしました。聞いた福音が、御言葉の適用が彼らを変えたのです。これからは、御言葉を食べて生きたいと願ったからです。御言葉を聞く姿勢がまったく変わりました。私たちが、主の日に集まって礼拝をするというのは、主から受けた救いの恵みに応答して生きて行くことです。御言葉の適用に導かれ一週間を過ごし、御言葉を慕い求めて、次の週も礼拝に集うのです。
 パウロも、彼らが一時的な感情にとどまらないように、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めました。43節。恵みにとどまるというのは、直訳するならば、恵みの中に続けるとなります。恵みにとどまり続ける、神の恵みを持続するということです。恵みを覚える生活は、気分によってしたりしなかったりするのではありません。状況や問題の有無に関わらず、神の恵みを覚えて生活することを維持しなさいと勧めるのです。
 では、神の恵みを継続するというのは、どんな信仰生活をすれば、神の恵みにとどまって生きて行けるのでしょうか。この恵みは、神の御言葉を聞いて、応答して与えられたものです。ですから、信仰の恵みを持続して味わう生活は、神の御言葉に着実に養われて生きることによります。御言葉を自分への言葉として聞いて、自分の生活と人生への適用を黙想して、御言葉に応答して生きて行く生活です。
 信仰生活とは、御言葉を食べて、御言葉に応答して生きて行くことです。御言葉を聞いて、黙想して適用の導きを受け、それに従うことです。御言葉に養われて、霊的に成長して行くことです。そういうことをしなくても生活して行けるでしょう。でも、健康的ではありません。恵みはありません。御言葉は、霊的糧です。御言葉は、荒野のような世を生きる私たちにとって、命の泉です。暗やみで迷う時の光りです。御言葉は、嘆きと失望に陥る者への癒しです。詩篇119:18,24,105。御言葉を聞いたなら、受けた恵みに反応して生きる一人ひとりとなりますように願います。



使徒13:26 兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。
13:27 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。
13:28 そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。
13:29 こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。
13:30 しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。
13:31 イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。
13:32 私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。
13:33 神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。
13:34 神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。
13:35 ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』
13:36 ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。
13:37 しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。
13:38 ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
13:39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。
13:40 ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。
13:41 『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」
13:42 ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。
13:43 会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。


ローマ3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

ガラテヤ2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

ハバクク1:5 異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。
1:6 見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。

詩篇119:18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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