2021年7月11日「迫害の中でも進む御言葉」使徒14:1〜7
序−近年情報操作、虚偽報道、フェイクニュース等が増え、社会を混乱させています。初代教会においても、偽りの情報によって使徒たちや聖徒たちが妨害を受け、迫害されています。人の罪から出てくる常套手段です。しかし、そのような中でも御言葉は進んでいきます。
T−扇動して、悪意を抱かせ−1〜2
パウロを妬んだユダヤ人によってピシディヤのアンティオキヤから追い出されたパウロとバルナバは、近くのイコニオンという町へ行きました。使徒13:50〜51。ふたりは、意気消沈していません。悲観していません。1節。二人は、イコニオンでも、同じようにユダヤ人の会堂シナゴーグに入って、福音を伝えました。そして、大勢の人々がイエス様を信じました。しかし一方、信じようとしないユダヤ人が、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせるということが起こりました。2節。
ピシディヤのアンティオキヤで起きたようなユダヤ人の反対なのですが、ここでも特徴は、信じようとしないユダヤ人が、自分たちが信じないだけにとどまらないで、「異邦人たちを扇動して、悪意を抱かせた」ということです。異邦人にあれこれと嘘偽りを吹き込み、使徒たちに悪い感情を抱かせたのです。それは、虚偽報道、フェイクニュースです。
ピシディヤのアンティオキヤから虚偽情報が伝わっていたのでしょう。それで、彼らは、はじめから信じようとしないで、悪感情を抱いていました。パウロたちが何か悪いことをしたのでしょうか。信じた聖徒たちが何か害をもたらしたのでしょうか。町の人々は、ユダヤ人に虚偽情報に扇動されて、使徒たちに悪意を抱いたのです。
今日でも同じことが起こります。私たちの社会のそこここで、情報操作、虚偽報道、歪曲、改ざんが行われています。自分の利益のために、平気で何かをでっち上げ、事実を歪曲し、捻じ曲げて、他の人が悪い感情を抱くようにさせるのです。私たちも、そのようなことにさらされることがあるでしょう。噂話、悪口、中傷の類です。
私たちは、そんな声にさらされると、悲しくなり、心が痛くなり、憤慨もします。でも、イエス様は、何と言われておられますか。信仰のゆえに人々が私たちをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるけれども、御名のゆえにそうされたのだから幸いだと言われました。マタイ5:11。人は、自分たちと同じように悪いことをしないので、聖徒たちに悪口言うと教えています。Tペテロ4:4。
こういうことは、私たちが人間関係の中でしばしば経験することがあります。はじめから心が曲がっており、事を歪めて見て、素直に聞けない、こき下ろす人がいます。そして、周りの人にもそのように言いふらし、悪い感情を抱くようにそそのかすのです。まずは、悪く言っていることに、そそのかされないことです。御言葉に照らしてみることです。Tペテロ2:1〜2。主はどう思われるかと考えてみます。
U−恵みの言葉の証明−3
ユダヤ人が異邦人たちを扇動して、自分たちに対して悪意を抱かせたことに対して、パウロたちは、どうしたのでしょうか。気分を悪くしていますか。悲観していますか。憤慨していますか。いいえ、それでも、二人はそんな妨害に耐えて、滞在し続け、主によって大胆に語ったというのです。3節。自分の気分で対応したのでなく、主によって受け止めたので、妨害や試みに関係なく、福音を語り続けました。
私たちは、人がそそのかされて、自分に悪意を抱いて来るならば、心穏やかにはいられません。心が乱され、あれこれと思い惑うでしょう。さらには、騒いでそれを他の人にも言うようになります。それが、悪意を抱かせる人の思う壺です。その人のうしろで働くサタンの手練手管に落ちることになります。たとえ話の内容が嘘偽りでなかったとしても、人に悪意を抱かせるようなうわさ話にのってはなりません。
3節後半に注目してください。悪意の扇動に耐えて、主によって大胆に語った二人のために、主がどんなことをしてくださいましたか。主は、二人にしるしと不思議を行わせ、ともにおられることを示されました。辛い環境や苦しい状況に関係なく、信仰で生きるなら、私たちも、不思議な導きを経験し、祈りが聞かれ、主が共におられることを実感するものです。
パウロは、主の証し人として、迫害や苦難の中でも主イエス様を証しし続けました。それができたのは、主が共におられることを示してくださったからです。パウロは、強健な人だったのではなく、生涯持病を持って生きていた人だと学びました。幾多の患難の中、主の証し人として生きることができたのは、主が共におられるという思いがあったからです。マタイ28:20。主が共におられて働いてくださると確信していれば、迫害や苦難の中でも、主の証し人として生きて行くことができます。
ある人は共におられないと言います。しかし、主がともにおられないのではなく、主がともにおられることを私たちの方で意識していないということが問題なのです。主が共におられないと思うなら、私たちは、苦難や試みの中で揺れ動かされることになります。主に自分を委ねておられますか。御言葉に素直に聞き従っておられますか。私たちが、真実に御言葉に聞き従って生きてみるならば、主に自分を委ねるようになります。
このような妨害と迫害の中で証し人として生きた使徒たちの原動力は、「恵みのことば」です。3節。イエス様による救いの御言葉は、まさに恵みの御言葉です。エペソ2:5。私たちは、生きていれば、人に誤解されたり、非難されたり、悪意を抱かれたりします。苦しい、悲しい体験をするものです。使徒たちがすることは、すべて自分のために十字架にかかられた主が共にいてくださるから、できたことです。
主が共におれることを意識していた二人は、扇動し、悪意を抱かせる人々を見ていないようです。意識していないようです。逆に、そんな人の声や姿ばかり見て、意識するから、心が乱され、痛み、苦しむのです。もし、パウロたちが悪意を抱く者たちを見ていたら、不満や文句、失望が多かったことでしょう。なぜ反対するのか、どうして関係ない人にまで悪意を持たせるのか、何も知らないのに扇動されるなんてひどいなどと言って、恨みつらみでいっぱいになるでしょう。
どうして問題がある時、試みに会う時、主を見ないで扇動する者を見るのですか。なぜ、主の御声を聞かないで、悪意に満ちた偽りの声を聞くのですか。人間関係の中で主を見てください。職場や家庭の中で神の恵みの言葉を聞いてください。イエス様を見てから人を見れば、人の姿が分かります。人を愛することができます。
V−難を避けて、宣教を続けた−4〜7
そんな妨害にも関わらず、福音を聞くと、信じる人が起こされました。4節。人々を扇動して悪意を抱かせたにも関わらず、町の半分の人々が使徒たちの側に立つのを見た悪意のユダヤ人と異邦人は、町の権力者を引き込んで、パウロたちを殺そうと企んだのです。5節。
こうなっては、イコニオンに留まることはできません。6節。その地方の近くの町へ避難しました。「難を避け」ということばを直訳すれば、「逃げた」ということです。逃げるというと、何かマイナスイメージですね。仕方なくという思いがそこにはあります。しかし、避難先での二人の行動を見ると、逃げたのではなく、難を避けて他の町に行ったにすぎないことが分かります。7節。そこで福音の宣教を続けたのです。イエス様も、そのように勧めておられました。マタイ10:23。
何と言うことでしょう。考えてみてください。悪意を抱く者たちが二人を迫害しなければ、その町々へ行く必要はありませんでした。悪意を抱く者の扇動と謀略の結果、その町々へ福音が伝わり、人々が救われるようになります。ここでもまた、扇動と殺害の企ての中でも、福音は伝えられ、御言葉は進んで行ったのです。私たちが出会う苦難と試みの中でも、信仰は停滞するのではなく、かえって進んで行くのです。
ユダヤ人の妬みによってピシディヤのアンティオキヤから追い出されてイコニオンへ、イコニオンでも悪意を抱く者の扇動と迫害によってリカオニヤの町々へ難を避けました。その結果、次々と避難して行った先々に福音が広がりました。驚くべき神の摂理の御手を覚えます。この後も、扇動や迫害、悪意と罵りにさらされるパウロですが、何度も自分の思いとは別に宣教の人生は展開して行くのです。
私たちがここまで歩んで来たのも、そうではないですか。自分の計画とは関係なく、進んで来たことがあるでしょう。問題によって意図しないことに押し出され、妨害によって仕方なく行かされたこともあるでしょう。でも、振り返ってみて、そこに神のご計画があり、意味があったと悟ることができるのです。試みや苦難の中でも、信仰が進んで来たのです。
パウロは、そのような神の摂理の御手に喜んで自分の人生を委ねて、生涯を走りました。使徒20:24。限りある私たちの地上の生涯ですが、永遠の神様に用いられ、導かれて歩む人生よりも貴重な人生はありません。妨害や試みによって自分の意志とは無関係に展開して行く時、絶望したり、怖れたりするのではなく、救われている恵みを覚え、御言葉を握りながら、主と共に歩みたく願います。Tペテロ2:1〜2。
使徒14:1 イコニオンでも、同じことが起こった。二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大勢の人々が信じた。
14:2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
14:3 それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によって、しるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。
14:4 すると、町の人々は二派に分かれ、一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒たちの側についた。
14:5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになり、二人を辱めて、石打ちにしようと企てたとき、
14:6 ふたりはそれを知って、リカオニヤの町であるリステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
14:7 そこで福音の宣教を続けた。
マタイ5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
Tペテロ4:4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
Tペテロ2:1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
マタイ10:23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
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