2021年7月18日「天地の造り主に立ち返る」使徒14:8〜18
序−西欧の文化のもとになった1つとされているBC1世紀末オウディウス作「変身物語」があります。その中に、ギリシャ神話のゼウスとヘルメスが今のトルコ中部に貧しい旅人のなりをして来た時、貧しい老夫婦だけが親切に迎えたので洪水から救われたというもてなしの道徳訓です。この物語が、今日の箇所にある騒動の背景となっています。
T−救われる信仰−8〜10
パウロの一行は、イコニオムから難を逃れて、ルステラという町に来ました。ここにはユダヤ人の会堂はなかったようです。外で福音を語っていたところ、パウロは、聞いていた人々の中で一人の足の不自由な人に目がとまりました。8〜9節。外だったからこそ、おそらく物乞いをしていたこの人が聞くことができました。
1節の紹介文に注目してください。足の不自由な人、生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかったと3度も繰り返し、強調されています。なぜでしょう。この生まれつき足が不自由な人は、何の希望もなく物乞いをしながら何とか生きていました。この繰り返しは、この人の絶望感が表されています。肉体的障害に留まらず、精神的な障害が強調されています。人は、様々な理由で、心に不安や恐れ、絶望感を抱いています。精神的障害は、あまりにも悲惨です。この足の不自由な人も、その時までは絶望感に陥っていたのです。
しかし、この時はそうではありません。パウロの話す福音に耳を傾けていたというのです。9節。意識して集中して傾聴していたという言葉です。それも、未完了形ですから、ずっと熱心に聴いていたということです。だから、パウロの目にとまりました。いやされる信仰、救われる信仰があると看做されたのです。信仰は、聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるといわれるとおりです。ローマ10:17。
ここから、絶望に陥っていたこの人の人生が変わります。10節。パウロの「自分の足で立ちなさい」という言葉を聞いて、歩き出しました。奇跡は、福音伝播のために起こるものです。ですから、それよりも、神の言葉を聞いて絶望感から立ち上がったという精神的変化に注目しなければなりません。この人は、福音を聞いて、信じて、救われたのです。絶望感に陥っている者は、救い主イエス様に出会って、イエス様を信じたならば、絶望感から立ち上がることができます。
U−ルステラの騒動と一般啓示−11〜18
こんなに素晴らしい救いが起こっていたのに、因習と伝説に縛られていた町の人々は大きな勘違いをして、騒動が起こりました。11〜13節。「変身物語」の中にある老夫婦が神々をもてなすという物語は、この地での伝説として人々に記憶されていました。威厳のあるバルナバがゼウス、説教していたパウロがゼウスのメッセンジャーであったヘルメスと受け取ったのです。物語では、老夫婦のようによくもてなしをしなかった者たちは罰を受けました。それを怖れて、人々は急いで二人を祭ることにしたのです。
この時の人々がどんなに驚いたかは、リカオニヤ語という現地語で叫んでいるところに表れています。現地語を理解できなかったパウロたちでしたが、彼らが騒いでいる理由が分かると、急いで止めさせました。14〜18節。衣を裂いたというのは、ユダヤ人が大きな悲しみや怒りを表現したものです。自分たちを神として祭ろうとするのは真の神を冒涜することだからです。そのようにするしかなかった人々の姿を悲しんだからです。
この人を癒やし、救ったのは神の力であり、神の愛とあわれみでした。このことを知らせるために、パウロは、いわゆる「一般啓示」と言われることを語っています。15〜17節。パウロは、自分たちが福音を宣べ伝えているのは、人々が「このような空しいことから離れて、天と地と海、またその中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返る」ためだと語っています。神を離れた人々の姿は、罪のために葛藤と混乱、悲しみと苦しみの中を生きるようになります。妬みや争いに引き込まれ、不安や恐れを抱きます。重い心で生きるようになります。
創造主なる神様は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。イエス様を通して神様の救いがあきらかにされるまでは、そんな人々をあわれんでくださったからです。それでも、創造主なる真の神様は、ご自身を知らせなかったわけではありません。異邦人に対しても、誰に対しても、「天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びとであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられた」そのようにして天地の神を知らせていたというのです。これが、いわゆる一般啓示です。
ですから、人は誰でも自然界の不思議、その広大さ、ものすごい変化と力を知って、神を思うようになります。偉大な自然に圧倒されれば、神への恐れを覚えます。余りにも美しい自然を見る時、造られた神の存在を考えます。昔の人も、お天道様が見ておられるなどの神観は持っていました。自然を通して、漠然と感謝する気持ちが与えられています。そこから、自然を通して食物と喜びを与え、心を満たして恵みを施してくださる天地の造り主を覚え、感謝するように望まれています。
考えてみてください。私たちが生きて生活しているすべて、空気や食べ物から、家族や友人、学校や職場、仕事や健康などまでが与えられ、備えられています。人々が当たり前だと思っている生存に必須のものも、真の神を知っている者にとっては、当たり前ではなく、神の恵みです。神の守りと導きの中にあることです。それなら、真の神を知らない者ではなく、創造主なる神様を知っている私たちは、どれほど感謝しなければならないでしょうか。どれほど恵まれていることでしょうか。まさに、神様はご自分のひとみのように、私たちを守られるのです。申命記32:10。
V−救い主イエス様という特別啓示−使徒17:30〜31
どうすれば、神に立ち返ることができるのでしょうか。イエス様を信じることです。イエス様だけが、神に立ち返る唯一の道です。ヨハネ14:6。過ぎ去った時代は、そのままにされましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、救い主イエス様を世に与えてくださったからです。使徒17:30〜31。キリスト・イエスが、罪人を救うためにこの世に来られたからです。Tテモテ1:15。これが、特別啓示です。
今日の箇所でも、パウロが福音を語りました。9節。神の御子イエス様が救い主として世に来られ、十字架にかかってくださったということです。この方が私たちの罪と滅びの代わりに十字架に死なれ、復活されました。このお方を信じる者は誰でも、罪赦され、天国への命を与えられると伝えました。パウロは、救い主イエス・キリストのこと、十字架による救い以外は語らないと言っているくらいです。Tコリント2:2。
この足の不自由な人が絶望に陥っていたから、イエス様による福音を聞いて、救いを求めたのですが、この人をこのように救われたのは、神様の恵みによることです。ユダヤ人の会堂ではなく、この人がいた所でパウロが福音を語ったのも、神様の導きです。この人が信じるように心を開いてくださったのも、神様の愛とあわれみによります。これが、神の恵みであり、癒やしの奇跡よりも大きな神様の働きです。
ルステラの人々に天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びとで心を満たすなど恵みを施してくださいましたが、この足の不自由な人に起こったことは、彼一人だけに与えられた特別啓示なのです。一般啓示は、多くの人に与えられる神の恵みですが、たましいの救いは、一人一人に起こる神の恵みです。私たちがイエス様に出会って、信じて救われるというのは、本当に特別な恵みです。
私たちクリスチャンの特徴は、イエス様の十字架による救いという特別な恵みに与った者ということです。この特別な救いに導かれたということを思えば、感謝せずにはいられません。イエス様の十字架によって救われたということが、どれほど感謝なことでしょうか。イエス様の救いを求めるようにされていることだけでも、感謝なことです。
救われただけではありません。救われた恵みに付随して、様々な恵みや祝福を受け、享受しています。この人のように奇跡のような取り扱いを受けることもあるでしょう。こうして、救い主を与えてくださった創造主を覚え、礼拝し、生ける御言葉に養われているということがどんなに大きな恵みでしょうか。そのような恵みと祝福に感謝して、応答して生きて行くならば、信頼して行くならば、さらに神の導きと守りの中に生かされます。私たちは、イエス様の十字架によって救われて、新しい命を与えられ、天国人として生きるようにされた特別な恵みを覚えて生きて行く時、天国の前味を味わう信仰生活を体験するでしょう。
もし、今私たちが与えられている環境を感謝することがないとしたら、神の恵みを知らない世の人々より薄情者、愚か者と言わざるをえません。当然のように受けるばかりで、不平不満、文句ばかりだとしたら、何と勿体無いことでしょう。世の人々と同じように与えられている一般恩寵にも感謝して生きましょう。そして、何よりもイエス様による救いという特別な恵みを受けていることに感謝して、主に信頼して生きる私たち一人一人となることを願います。使徒17:30〜31。
使徒14:8 さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
14:9 彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。
14:11群衆はパウロのしたことを見て、声を張り上げ、リカオニヤ語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
14:13 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。
14:14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて群衆の中に駆け込んで行き、叫んだ。
14:15 「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またその中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。
14:16 神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
14:17 それでも、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びとであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」
14:18 こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。
ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ローマ1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
使徒17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
Tテモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
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