2021年8月29日「心を開いて、心を留めるように」使徒16:11〜15
序−先週の箇所に出て来たマケドニヤ、近年北マケドニヤ共和国の国名問題がありましたが、昔であればアレキサンダー大王の東方遠征が有名です。その大王の父の名がつけられた都市が今日の箇所に出て来るピリピです。このヨーロッパで最初に救われたリィデヤの人生から学びます。
T−ピリピにいたリィデヤ−
聖霊に導かれてパウロの一行は、エーゲ海に望む港町トロアスまで来た時、マケドニヤ人が海を渡って来て助けてくださいという幻を見て、ただちに一行は、トロアスを出発しました。9〜12節前半。トロアスの港から船出して、途中サモトラケ島で一泊し、翌日マケドニヤのネアポリス港に着いて、それからピリピ市に来ました。帰りの場合は、5日かかっています。使徒20:6。追い風で早いのだと思いますが、「直行し」という所に、ただちにマケドニヤを目指した一行の思いが感じられます。
劇的な聖霊の導きによって、ヨーロッパに至ったパウロは、期待感を持ってマケドニヤのピリピに来ました。どんな町なのでしょうか。12節後半。ピリピは、マケドニヤ地方の中心都市であり、ローマ直轄の植民都市でした。ローマ帝国時代になって、初代皇帝となるオクタウィアヌスがこの地で、義父カエサルを暗殺したブルータスとカシウスをこの地で破ったのを記念して、多くの退役軍人を入植させ、小ローマを建設させました。ピリピは、ローマ皇帝の直轄統治を受け、軍事、交通の要衝地であり、金鉱もあり、経済的に豊かで、文化の発達した都市となりました。聖霊に導かれて来たものの、今までの町とはまったく違うものでした。
パウロたちは、このような町でどのように伝道せよと聖霊は導かれるのだろうかという思いだったでしょう。それで、パウロは、安息日に祈りをするために町の外の川岸に来ました。13節。これまでだったら、ユダヤ人のシナゴーグ会堂に行くはずですが、この町からユダヤ人が追放されていて、ほとんどいなかったからです。伝道の困難さを予感させます。しかし、そこに集まって来た女たちに話をしたところ、リィデヤという女性が話を聞いていました。13〜14節。
この女性に注目しましょう。どんな人ですか。ティアティラ市の紫布の商人です。ティアティラとは、小アジヤの都市です。紫布とは、特定の巻貝から出る分泌液で染色された、ロイヤルパープルと呼ばれた紫色の大変高価な布でした。日本でも、古代貝紫として貴族支配層に珍重されました。その分泌液を抽出して染色するには、独特な高い技術が必要でした。ですから、そのような布や服を買って着ることができるのは、富裕層であり、上流階級の人に限られていました。
リィデヤは、そのような布を売買していた実業家でした。この人自身も裕福であったか、富裕層に加わることを目指して来た人生だったでしょう。人々の羨望の的となっていたでしょうが、古代において、女性でこのようになるには、大変な努力が必要だったに違いありません。仕事に成功するためには、どれほど頑張って働いて、どんなに気を張って生きていたのだろうかと想像されます。リィデヤは、現代社会で欲望の資本主義と言われる価値観の中で生きる人々のように、富を偶像として、富を得ることを目標として生きていた人でした。
U−イエス様との出会い−
しかし、リィデヤは、裕福になって色々な物を手に入れたとしても、満足していませんでした。心は平安ではありませんでした。そのような生活をするためにどれほど精神をすり減らし、人の欲や罪が蔓延する人々の中で葛藤し、空しさを感じていたことか。商売の不況や事件の時にはどれほど不安や恐れが生じたことでしょうか。リィデヤは、たましいの平安や癒しを必要としていました。それで、旧約聖書に触れ、神を敬う者になっていたようです。14節。救いを求めていました。
主は、そんなリィデヤをピリピの初穂、ヨーロッパで最初の救いとして備えてくださいました。パウロを通して福音を聞く機会を与えてくだいました。それだけではありません。14節後半の表現に注目してください。「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」というのです。主がリィデヤの心を開いてパウロの語る福音に心を留めるようにされたのです。
御言葉を聞く者は、自分の人生の深い所を開いて聞きます。リィデヤは、世の価値観と富と追求して生きて来て、心は空しくなり、倦み疲れていました。人も羨む姿でも、心の深い所には傷と痛みがありました。そういう心の深い所を開いて御言葉を聞いたのです。イエス様は、私たちの心の扉を叩いてくださいます。イエス様の招きに応じることで心が開かれます。黙示録3:20。
パウロの話し方が素晴らしかったからよく聞いたというのではなく、主がリィデヤの心を開いて聞くことに心を留めるようにされました。私たちは、私はうまく伝えられない、人に話すなんて恥ずかしいとか思うかもしれません。しかし、主が備えられたたましいというのは、主がその人の心を開いて、証しに心を留めるようにしてくださるのです。私たちは、ただ神が用いてくださる道具に過ぎません。主が私たちを通して働かれるのです。ただ用いられることを純粋に願うだけです。この時、伝えるパウロが主役ではなく、福音を聞くリィデヤが主役です。パウロは、リィデヤの救いのために用いられに過ぎません。
こうして主に導かれてパウロとリィデヤがピリピで出会います。リィデヤの出身地はどこでしたか。14節。ティアティラ市はどこにあるかと地図を見ると、何と聖霊に行くことを禁じられたアジヤ州ではありませんか。リィデヤが商売でピリピに来ていなければ、パウロを通して福音を聞くことはできませんでした。ここピリピで二人が出会ったというのも、神の驚くべき節理と導きなのです。同じように、私たちも一人のたましいの救いのために用いられる者として人々と出会っているのかもしれません。いや、そうでしょう。その人と出会っているのは、偶然ではなく、主の導きの中にあることなのですから。
そして、リィデヤは、パウロを通して福音を聞き、救い主イエス様に出会ったのです。イエス様が自分の代わりに十字架に死んでよみがえってくださった、それによって自分の罪が赦され、罪から解放され、天国への命が与えられたのです。Tペテロ3:18。どんなに喜び、感謝したことでしょうか。空しい欲と罪の価値観の中で、富を追求して生きるのではなく、神に愛された存在として、神に生かされ、用いられる人生に変えられたのです。Uコリント5:17。
V−変えられえ生き方−
救われたリィデヤは、新しい命が与えられ、人生が変わりました。今までは、自分の肉の欲を満足させ、世の価値観によって生きていましたが、これからは、自分を愛して、自分のために十字架にかかられたイエス様を信じる信仰によって生きる者となりました。ガラテヤ2:20。ですから、イエス様に喜ばれるように生きたい、これからは主に用いられて歩みたいと願うようになりました。
イエス様を信じたリィデヤは、その後どうしましたか。15節。信じて変えられたリィデヤは、救われたことで感激し、感謝して、すぐに家族にも福音を聞いてもらい、結果共に洗礼を受けるようになりました。これまでも家族の中でも神を敬う生き方をして来たリィデヤでしたが、イエス様を信じて、大きく変化したのを目の当たりにした家族は、リィデヤの証しを通しても信じたのです。
それから、パウロたちに自分の家に泊まってくださいと懇願し、無理やりそうさせました。15節。何とかパウロたちの宣教を支援したかったのです。リィデヤの家がパウロのピリピでの活動拠点となります。富を用いてパウロの宣教を助け、継続的に支援しました。ピリピ教会形成にも仕えました。リィデヤの仕事の経験と人脈も、そのために用いられたでしょう。信仰によって懸命に働き、証しの生活をしました。人は、救われて、造り変えられると、賜物が神の国のために豊かに用いられるようになります。私たちもそうです。
こうして、リィデヤの家が後のピリピ教会の基礎となります。リィデヤの信仰と生き方が基礎となりました。ピリピ書を読むと、パウロとピリピ教会に愛の心があったことが分かります。例えば、ピリピ1:3〜5。ピリピ教会がどれほどパウロを愛して助け、励ましたか、パウロがどれほどピリピ教会を愛して励ましたかが分かります。この手紙をパウロは、ローマの地下牢で書いています。そんな中でも、ピリピ教会の聖徒たちを思い出す度に、パウロの心に喜びと感謝があふれて来たのです。
今日の箇所で強調されているのは、聖霊の働きです。ピリピでの宣教を導かれたのも聖霊であり、川岸でパウロに語らせ、リィデヤの心を開き、福音に心を留めるように導かれたのも主です。私たちは、もっと主の働きを意識して、聖霊の導きを求めて祈りましょう。
ヨーロッパ伝道の初穂、ピリピ教会の礎となったリィデヤのように、私たちも、聖霊に導かれて、用いられる人となり、次の世代の信仰の礎となるように歩みたいと願います。ヘブル13:7。
使徒16:11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 それからピリピに行った。この町はマケドニヤのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
16:13 そして、安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
16:14 リィデヤという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。
黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
ピリピ4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。
ピリピ1:3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、
1:4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。
ヘブル13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
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