2021年9月12日「他の人のことも顧みなさい」使徒16:26〜40
序−私たちの社会は、他人を思いやる人が多い社会ではありましたが、近年そうでない人々も増えて来たと言われます。そもそも、ほかの人のことも顧みなさいというのは聖書の教えです。今日の箇所を通して、その教えの実際の例を学びます。
T−地下牢での看守との出会い−25〜29
パウロたちは、地下牢で神様を信頼して賛美していたのですが、神様はどのようにしてくださるのでしょうか。26節。大きな地震が起きたとありますが、牢獄の扉が全部開き、すべての囚人の鎖が外れたというのは、ただの地震ではなかったということです。普通の地震だったら、逆に地下牢は崩れてしまったでしょう。これが、備えられた脱出の道かと思うでしょうが、そうではありません。別の目的のためです。
それは、何でしょうか。その証拠としてパウロたちは、牢獄の扉も開き、鎖が外れたのに逃げていません。27〜28節。囚人たちが逃げてしまったと思った看守は、責任を問われるのを恐れて自害しようとしたので、パウロが止めました。パウロたちは、自分たちが地下牢から逃げられるように祈っていたのではなかったということです。神のご計画と導きを信頼して賛美したのです。
その賛美に聞き入っていた他の囚人たちは、自分の境遇を嘆き、誰かを恨み、社会を呪っていた自分を省みさせられていたことでしょう。そして、彼らは、地震はこの賛美をしていた人たちによることだと思い、この只ならぬ出来事に驚き、恐れ、そこに留まっていたようです。信仰生活、御言葉によって生きるということは、自分だけのことではなくて、他の人に影響を与えていることを知らなければなりません。
看守は、パウロの声に驚き、明かりを持って牢内に入って見ると、確かに足かせも鎖も外れているのに、毅然としてそこにいるパウロたちを見ました。看守は、大変衝撃を受けました。囚人が逃げていないのです。パウロが自分を恨むことなく、自分の命を救おうとしてくれたのです。看守は二人の態度に圧倒され、思わず震えながら二人の前にひれ伏しました。
そして、衝撃的な言葉が彼の口から発せられました。30節。二人を牢から出して、官舎に連れて行きます。先生方と訳された原語は、キュリオス、主、主人です。ローマの軍人が主と呼ぶのは、皇帝だけです。それだけ、看守はこの二人の信仰に真実さを感じたのです。そして、「ご主人様、救われるためには、何をしなければなりませんか」と言ったのです。
この時の看守の言葉を考えてみてください。この場面、自害から助けてくれてありがとうございますとか、足かせをさせ地下牢に閉じ込めてすみせんでしたとか言うのではないでしょうか。このような質問をしたということは、救いを求めていた、備えられていた魂だということです。いつも、救いについて考えていた、この質問が心の中にあったということです。
ローマ兵であれば、幾多の戦争で、人の死を見て来て、自分も戦いの中をかろうじて生き残ったという体験があります。看守として、多くの囚人たちの罪とその末路を見て来ました。自分が人の死にかかわって来たという意識も、重くのしかかっていたことでしょう。人の罪の姿、命のはかなさ、人生について常日頃考えていたのです。これは、救われる以前の私たちの姿でもあります。私たちも、人生について考え、救いを求めていました。だから、救いへの導かれたのです。
U−看守とその家族の救い−31〜34
看守の質問に対して、パウロは何と答えたのでしょうか。31節。これは、聖徒たちに好まれ、覚えられている聖句の一つです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という一文に、救いの大事な要素が入っています。
「イエスを信じなさい」だけでなく、「主イエスを信じなさい」と言っています。もちろん、主には定冠詞がついています。唯一の主ということです。イエス様を信じるからには、もう「主」と呼べる方はお一人だけ、まことの救い主イエス様だということです。皇帝に命を預けて、皇帝のために生きるのではなく、イエス様から罪赦された新しい命をいただいて、イエス様に生かされて生きる人生になるということです。明治初期の士族キリスト者が、「これまでは殿のために死ぬことを本分としていたが、これからはイエス様を主として仕えて生きるのだ」と言ったそうです。
この一節がなぜ聖徒たちに好まれるかというと、自分がイエス様を信じれば家族も救われることを願うからです。確かに自分だけ救われるのではなく、自分を通して家族が救われるようになります。しかし、自動的に残りの家族も救われるとは言っていません。不思議なことに、この節の原文を読むと、「あなたもあなたの家族も救われます」の主語は複数なのに、救われるという動詞は、単数形なのです。一人ひとりがイエス様を信じなければならないということを意味しているのです。しかし、一人が救われるのは、家族の救いへの大きな力となります。私たちはこの約束を信じればこそ、懸命に信仰に生きて、証しして、家族の救いのために祈ります。それによって、家族が救われて行くということが起こるのです。
その後を読むと、看守の家族がみな救われて、洗礼を受けています。33〜34節。えっ、自動的に家族が救われているではないかと見えますか。もちろん、自動的ではなく、それだけの理由があります。32節を見ると、看守は、家族がパウロから主のことばを聞くようにしています。家族は、地下牢で起こった劇的な出来事を知り、福音を聞いたのです。家族の救いのためには、教会に導き、福音を聞く機会を持つことが必要です。
それから、看守同様家族もまた、備えられた魂であったからだと思われます。家族も看守の人生を通して、人の命のはかなさ、人の罪の姿をよく知っていました。看守が救いを求めていたように、家族も救いを求めていたのです。こうして、イエス様を信じて救われた看守とその家族は、罪と滅びから解放され、罪の赦しと天国への命をいただきました。ローマ6:23。パウロとシラスが、鞭打たれ、足かせをかけられて地下牢に入れられ苦しみを受けたのは、このためだったのです。
V−今後のために−35〜40
これで、この事件は終わりではありません。35〜36節。次の日長官から釈放の知らせが来たのです。おそらく、訴えが偽りであるのを知りながら、群衆の騒ぎを恐れた長官は、裁判もなしに鞭打たせ、牢獄に入れたのでしょう。看守も喜んで釈放を伝えました。ということは、またパウロたちは地下牢に戻っていたということです。これは、看守が罰を受けないためです。看守のために、ここまでしているのです。その時まで釈放のことは知りませんでした。
自分の身のことよりも、看守のことを心配したのです。看守は罰を覚悟して二人を牢から連れ出したのに、二人は夜明け前に、地下牢に戻ったのです。どれほどほかの人のことを顧みているのでしょうか。看守はその配慮に感謝しつつも、辛かったに違いありません。ですから、喜んで「安心してお行きください」と言ったのです。安心したのは、看守の方です。主は、ほかの人を顧みる信仰に対して、長官からの釈放命令という導きを与えてくださいました。舌を巻くような絶妙な主の導きです。ローマ8:28。
ところが、パウロは喜んでいません。何と、パウロは牢を出ようとしません。37節。裁判もなしに鞭打ち、牢に入れたことを問題にし、長官みずから来て、釈放すべきだというのです。酷いことをしたのを怒って、憎んでいたのでしょうか。ローマ市民権まで持ち出して、謝罪しろとごねていたのでしょうか。違法に投獄されたのですから、長官が来て釈放することで、無罪であったことが町の人々に明らかにされることになります。38〜39節。ひそかに去ったのでは、人々が知らないままです。
このこともまた、他の人のためということです。40節。牢を出た二人は、すぐにリディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから立ち去りました。つまり、長官が来て釈放するようにさせたのは、ピリピ教会を思ってのこと、聖徒たちの信仰生活が守られるようにというためでした。そのまま去ったのでは、ピリピ教会の聖徒たちが騒乱の徒と看做され、迫害を受ける恐れがあったからです。これから福音を信じる人の障害にならないようにしたのです。長官自らパウロたちを解放したということが町の人々に知られることで、その害を防ぐことができます。
どこまでもほかの人のことを顧みて行動したパウロでした。御言葉は、私たちが霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきだと教えています。ローマ15:1〜2。すべては人の救いのために、霊的な成長のためにし、自分を喜ばせるより隣人を喜ばせるべきだというのです。ピリピを出て行ったのはパウロとシラスの二人だけで、ルカとテモテは残っていますから、安心です。
今日の箇所はことごとくほかの人のことも顧みている聖徒たちの信仰の姿を見せていました。その姿はイエス様に見られるものです。ピリピ2:4〜8。イエス様は、私たちを救うためにご自分を低くし、十字架の死にまでも従われました。イエス様を信じて救われた私たちも、このイエス様のこの思いを抱いて、自分のことだけではなく、ほかの人のことも顧みて生きて行くことを願います。ピリピ2:4。
使徒16:26 すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
16:27 目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 パウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
16:29 看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
16:30 そして二人を外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
16:32 そして、彼とその家にいる者全員に、主のことばを語った。
16:33 看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
16:34 それから、二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。
16:35 夜が明けると、長官たちは警吏たちを遣わして、「あの者たちを釈放せよ」と言わせた。
16:36 そこで看守は、このことばをパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。さあ牢を出て、安心してお行きください」と言った。
16:37 しかし、パウロは、警吏たちにこう言った。「長官たちは、ローマ市民である私たちを、有罪判決を受けていないに公衆の前でむち打ち、牢に入れました。それなのに、今ひそかに私たちを去らせるのですか。それはいけない。彼ら自身が来て、私たちを外に出すべきです。」
16:38 警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、二人がローマ市民であると聞いて恐れ、
16:39 自分たちで出向いて来て、二人をなだめた。そして牢から外に出し、町から立ち去るように頼んだ。
16:40 牢を出た二人は、リディアの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから立ち去った。
ローマ6:23 罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ローマ15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さを担うべきあり、自分を喜ばせるべきではありません。
15:2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。
ピリピ2:4 それぞれ、自分のことだけではなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
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