2021年9月19日「模範となった聖徒たち」使徒17:1〜9
序−高慢になって自分を立派に見せようとする人がいます。また、自分はだめだと劣等感に陥っている人もいます。高慢も劣等感も繋がっていると言われます。聖書は、高慢でも劣等感でもなく生きる姿を教えています。テサロニケで救われた人々の信仰から学びます。
T−謙遜に熱心に福音を聞いたテサロニケの人々−1〜4
ピリピで地下牢から釈放されたものの、退去命令を受けたパウロたちは、イグナティア街道を西へと進み、幾つかの町を経て、テサロニケに来ました。1節。鞭打たれた体で、160kmほど歩いてテサロニケに至り、その姿は体も服装もぼろぼろでした。しかし、賛美の中で奇跡を体験し、看守の家族の救いを通して心は燃えていました。苦しみながらも、宣教への情熱でもってここに来たのです。Tテサロニケ2:1〜2。
なぜ、この町に来たのでしょう。属州マケドニヤの州都で、政治経済の中心地、人口20万を超える大都市でした。自由都市であり、5人か6人の行政長官が治める自治都市でした。税金が優遇されていたので多くの商人や裕福な人々が多く集っていました。人々は、ギリシヤの文学や哲学をたしなんでいました。ローマ帝国の有名な哲学者、政治家であったキケロは、「我らの領土の心」とまで言いました。町のユダヤ人の会堂シナゴーグには、そのような人々が集っていたようです。
そういう町だったので、ここでのパウロの宣教には、今までと違った特徴があります。2〜4節。一方的に福音を語るだけでなく、人々と「聖書に基づいて、論じ合い」、福音を「説明、論証」しました。そして、そのようにしたので、人々が「納得」して福音を信じました。人々は、外見はぼろぼろでも情熱にあふれて語る聖書の教えに謙虚に耳を傾け、質問し、語り合いました。会堂にいたギリシヤ人は、教養のある人々が多く、謙遜に人としての生き方を求めていた彼らは、パウロの説明する聖書の教えに納得したのです。4節。
そのようにして伝えられた内容は、3節「キリストは、苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそ、キリスト、すなわち救い主なのです」という福音の核心です。福音は、単純で誰でも理解できるものです。私たちが福音を伝える時も、イエス様は、私たちのために十字架に苦しみ、死なれ、復活されたと証しします。会堂にいたユダヤ人の一部と大勢のギリシヤ人は納得して、イエス様が救い主であることを信じました。
律法によれば木にかけられて死んだ者は神にのろわれた者だとみなされていたので、ユダヤ人の多くは、十字架にかけられたイエス様を信じようとしませんでした。でも、まさにイエス様がのろわれた者として十字架にかかられたのは、私たちの罪と滅びの身代わりだったからです。ですから、パウロは回心し、迫害や苦しみにあったにもかかわらず、情熱をもって福音を伝えたのです。
なぜ、キリストは死からよみがえらなければならなかったのでしょうか。私たちの罪の代価を支払うために死なれたのに、死で終わってしまったら、イエス・キリストを信じる私たちも、死んで終わりでしかならないからです。しかし、イエス様が死を打ち破って復活されることで、私たちに死を越える永遠の命を与えることができるのです。
会堂にいた多くのギリシヤ人と少数のユダヤ人は、ぼろぼろの姿でも情熱を持って伝えるパウロの話を真剣に謙遜に聞きました。だから、納得して、信じたのです。元々、この人々は、社会的地位があり裕福であったとしても、高慢になることなく、謙遜に真理を求めて、生き方を求めて、ユダヤ人の会堂に来て、聖書を学んでいたからです。
U−ねたみに駆られた人々−5〜8
ところが、多くのユダヤ人は、そうではありませんでした。確かに、商売をして裕福なユダヤ人が多かったでしょう。しかし、謙遜ではありません。とりわけ指導的立場にいるユダヤ人たちは、とても高慢でした。結果、パウロの伝える福音を聞いた反応は、まったく違いました。5〜7節。
彼らは、パウロに反発しました。パウロの伝えた内容に反発して、騒いだわけではありません。そこにいた大勢のギリシヤ人がパウロを通してイエス様を信じたことに妬みを覚えたからです。彼らは、普段その社会的地位や財力をもって、他の人に対して高慢でした。ところが、貧しそうなぼろぼろのパウロの言うことを人々がよく聞き、尊敬されているのを見たから、彼らのプライドが傷つき、強く妬みを覚えたのです。高慢と劣等感はつながっていると言われます。自分より劣っているとみなす人々の前では高慢になり、自分より偉いとされる人の前では劣等感を感じるのです。
妬みは恐ろしいです。怒りや憎しみまで生じ、攻撃にまで至ります。町のならず者を集めて騒ぎを起こさせ、パウロたちがいたヤソンの家を襲いますが、パウロたちがいないので、ヤソンを代わりに町の役人たちのところへ引き出して、偽りの理由をあげて訴えました。妬みという罪は、次々と別の罪を引き起こします。
世界中を騒がしているとか別の王がいると言ってカイザルの詔勅にそむいているとかというのは、反逆罪にあたることであり、ローマ帝国では最も恐れることでした。テサロニケの行政長官たちですから、動揺はしましたが、偽りの訴えであることを見抜き、ヤソンたちから保証金を取ったうえで釈放しました。8〜9節。的確な対応です。
パウロたちがテサロニケに留まって福音を語り、御言葉を教えていた間に、ヤソンとその家族も信じるようになりました。家にパウロを招いてもてなし、彼の家に聖徒たちが集っていたようです。ヤソンの謙遜で誠実な態度に、役人たちも、かえって訴えたユダヤ人の方が偽りだと分かったのでしょう。
パウロが去った後も、ユダヤ人はテサロニケの聖徒たちを苦しめました。その知らせを受けたパウロは、テサロニケを再訪したいと思いましたが、ヤソンたち聖徒たちに害が及ぶのを恐れて、断念したようです。Tテサロニケ2:18。その代わり、テモテを送って、テサロニケの聖徒たちを励ましています。Tテサロニケ3:2。二度も手紙を送っています。後には、テモテと一緒に同労者の中にヤソンの名があげられています。ローマ16:21。
V−模範となった聖徒たち−9,Tテサロニケ1:5〜8
そのようなテサロニケの聖徒たちの信仰は、テサロニケ人への手紙を読むとよく分かります。何と、その信仰は、マケドニヤ州とアカイヤ州の聖徒たちに影響を与え、模範となったというのです。Tテサロニケ1:7〜8。信じただけに留まらず、その忠実な信仰の姿は成長し、互いに励まし、互いの徳を高めるものとなりました。Tテサロニケ5:11。テサロニケの聖徒たちの信仰は、成長し、その生き方が変わりました。
テサロニケの聖徒たちの信仰が、マケドニヤとアカイヤのすべての信者の模範となったというその特徴の基は何でしょう。福音を伝えてくれたパウロたちと何よりもイエス様に倣う者になっていたということです。Tテサロニケ1:6。苦しみに耐え情熱をもって宣教したパウロの信仰に倣って、彼らも、御言葉と聖霊の導きを受けて、迫害を克服し、信仰を前進させました。パウロや主に倣っている彼らの信仰に、パウロも励まされています。Tテサロニケ1:3。後にパウロは、彼らの「信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、主イエス・キリストに対する望み」を思い起こしています。
パウロ自身も、コリント教会やピリピ教会の聖徒に自分に倣う者になってほしいと言っています。Tコリント4:16,ピリピ3:17。一見自信過剰、高慢と見えますが、自分の信仰が他の人の模範となることを意識し、願っていた人でした。パウロがイエス様に倣っているように、彼らもパウロに倣ってほしいと言っています。Tコリント11:1。自分が立派だからではなく、不十分ではあっても、懸命にイエス様にならって生きようとしている信仰の姿にならってほしいと言っているのです。これなら、私たちも言えるのではないでしょうか。いや、そう言えるようにしたいのです。
テサロニケの聖徒たちは、福音を聞いて信じただけでなく、イエス様にならって生きていたパウロたちの姿に倣って、信仰生活をしていたのです。こうして、パウロや主に倣っていたテサロニケの信仰が、マケドニヤやアカイヤの聖徒たちの模範になるのは必然的なことです。イエス様に倣って生きて行けば、そこに主の恵みと力が注がれないはずはありません。どんなに知識や経験を積んだとしても、霊的な模範とはなれません。ただ欠けや弱さがあったとしても、主に倣っている人に倣って信仰して行くならば、その人の姿勢が他の人の模範となるのです。
Tテサロニケ1:7で「模範」と訳された原語は、貨幣に刻印され像を意味しています。イエス様を信じて救われた聖徒たちには、イエス様の像が刻印されているのです。ガラテヤ6:17,Uコリント1:22。また、この模範は、単数形です。おそらく模範となる聖徒たちの共同体、模範となった教会という意味なのでしょう。私たちの教会も、模範となることができます。御言葉による養育、セルグループ、御言葉の適用に生きて行く信仰など、他の教会や聖徒たちがならってくだされば、感謝です。そのためには、私たち自身が、救われた恵みに応答して、イエス様と他の聖徒たちにならって生きていくことが必要です。Tテサロニケ1:6〜7。
使徒17:1 パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。
17:2 パウロは、いつもしているように、人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。
17:3 そして、「キリストは、苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそ、キリストなのです」と説明し、論証した。
17:4 彼らのうちある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大ぜいのギリシヤ人がたちや、かなしの数の有力な婦人たちも同様であった。
17:5 ところが、ユダヤ人は、ねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そして、ヤソンの家を襲い、二人を捜して集った会衆の前に引き出そうとした。
17:6 しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たちの何人かを、町の役人たちのところへ引いて行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。
17:7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしているのです。」
17:8 これを聞いた群衆と町の役人たちは動揺した。
17:9 役人たちは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。
Tテサロニケ2:1 兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄にはなりませんでした。
2:2 それどころか、ご存知のように、私たちはまずピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。
Tテサロニケ3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、
Tテサロニケ1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主とに倣う者になりました。
1:7 その結果、あなたがたは、マケドニヤとアカイヤにいるすべての信者の模範になったのです。
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出て、マケドニヤとアカイヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要はありません。
Tテサロニケ5:11 ですから、あなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
Tテサロニケ1:3 私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。
Tコリント11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。
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