2021年10月3日「偶像でいっぱいなのを見て」使徒17:16〜21
序−観光地で漫然と建物や風景を見るのとその歴史や由来を知って見るのとでは、感じることは大きく違うものです。物事をどう見るかで、受け止め方も対処の仕方も変わります。ギリシヤ文明の地アテネに行ったパウロは、そこで何を見て、何を感じて、どうしたのでしょうか。
T−偶像に満ちていたアテネ−16
皆さんは、アテネと聞けば、何を思い浮かべるでしょうか。ギリシヤ哲学や神話、オリンピック、あるいは壮大な建築や華麗な彫刻でしょうか。当時のギリシヤ地域は、ローマ帝国の属州ではあっても、文化と学問的にはローマを凌駕していました。その中心地アテネは、ギリシヤ文明の栄光が残っており、アテネ人はそれを誇りとしていました。パウロが育ったタルソもギリシャ文化の中にありました。ギリシヤ文化に触れた人々にとっては、アテネは憧れの的でした。パウロも、そうだったでしょう。
そのアテネにベレアでの迫害を逃れて来ました。15節。シラスやテモテを待つ間、主の不思議な導きを覚えながら、町の中を見ていたようです。町の中を散策しながら、ギリシヤ文化を聞いて学んで育ったパウロは、アテネの建物や彫刻に見て感激し、そこを歩いたであろう哲学者を思い出し、感慨に耽ったのでしょうか。
パウロの目に飛び込んで来たのは、別のものでした。16節。パウロは、クリスチャンです。宣教師としてアテネを見た時、そこに多くの偶像があるのを見たのです。目に入って来たのです。現代でも、アクロポリスの丘の上にあるパルテノン神殿の遺跡が有名です。当時はそこに12mものアテナ像があり、アテネという名前自体、ギリシヤ神話の女神アテナに由来しています。他にも多くの神殿があり、多くの彫像がありました。
パウロの目には、アテネは、素晴らしい洗練された文化と芸術、建築と哲学に満ちた都市ではなく、偶像崇拝に囚われた、退廃的な霊的には死んでいる都市に見えたのです。ローマ1:21〜23,25。町が偶像でいっぱいというのは、人々の心が偶像で覆われている、偶像に支配されているということです。アテネを観光で見る人は、美しい彫刻と素晴らしい建築群に圧倒されたのでしょうが、パウロには、高度な文化と哲学を誇りにしていた町の人々が、偶像と迷信に支配されていると見えたのでした。
これは、現代の都市に通じることです。奇妙なことに、科学技術と高度な学問が発達した現代都市において、偶像と迷信が幅を利かせているのです。資本主義の負の部分が大きくなり、格差と拝金主義、物質主義が蔓延し、社会の混乱と精神の退廃が加速しています。多くの人々が希望を失い、空しさと苦しみの中にあります。
驚くことに、現代社会も昔のアテネと同じなのです。高度に発達した現代社会においても、偶像や迷信に支配されていることは、変わらないのです。アテネの人々も現代の人々も変わりありません。人はすべて堕落した罪人だからです。ローマ3:9,23。確かに現代人は、高度に発達し、物質あふれる社会を誇り、生活を楽しんでいるように見えます。しかし、どうでしょうか。私たちの目には、この社会や人々の姿がどのように見えているのでしょうか。どのように見るのでしょうか。
U−心に憤りを覚えた−16
では、このような偶像に覆われていたアテネを見たパウロは、何を感じたのでしょうか。「心に憤りを覚えた」というのです。16節。憤りを覚えたというと、怒ったという印象を持つかもしれません。しかし、その原語の意味は、心刺激された、感情をかきたてられたということです。心が辛くなった、苦しくなったという訳もあります。
つまり、高度な文化と学問がありながら、偶像と迷信に支配され、かき回されているのを見て、辛くて、苦しさを覚えたのです。残念でならないという憤りを覚えたのです。イエス様も、人々が希望を失い、悲しんでいるのをご覧になられて、聖なる憤りを覚えられました。ヨハネ11:33,38。憧れたアテネが偶像に覆われて、人々の心が偶像と迷信に囚われているのを見て、心に痛みを感じ、苦しみを覚えたのです。そういう姿であることを知ることもない姿に、残念でならないという憤りを覚えたのです。
私たちは、人の罪の姿に接したと時に、怒りや憤慨を覚えるでしょう。しかし、罪に囚われている姿を見て、聖なる憤りを覚えたいのです。したくない悪をその人の罪が行わせているからです。ローマ7:15〜17。感情のまま怒るのではなく、罪に囚われ、引き回されている姿を見て、聖なる憤りを覚えたいのです。そのような姿を見て、心を痛め、心が辛く感じるのです。私たちは、人の姿をどのように見ているのでしょうか。
私たちの目には、時には羨ましく見え、妬みさえ覚えることがあるでしょう。しかし、その人々の心はどうなのでしょう。華やかな文化に満ちていたアテネは一見そのように見えるのですが、パウロの目にはどう見えたのですか。人は、どんなに所有していても、自分勝手にできても、どんなに科学や学問があっても、誰でも罪に支配され、偶像と迷信に囚われています。本当の魂の平安はありません。
人がどう見えるか、人をどう見るか、これは大事なことです。私たちの霊の眼で見なければなりません。私たちの目が肉の思いで曇っていれば、表面的しか見えないでしょう。間違って見てしまうでしょう。そして、人は見えたように感じるものです。華やかに見えたとしても、心の中の痛みや苦しみを感じ取り、深い同情心を持ちたいのです。コロサイ3:12。
V−イエスと復活を宣べ伝えた−17〜21
偶像だらけのアテネの姿に心痛め、聖なる憤りを覚えたパウロは、どう行動したのでしょうか。17節。いつものようにユダヤ人の会堂に行って福音を伝え、論じ合いました。それだけでなく、町の広場にいた人たちと論じ合いました。これは、アテネでの特徴です。広場とは、アゴラという語で、他の箇所では市場と訳されています。ただし、アテネでは、ただ物を売り買いするだけでなく、集会や討論の場ともされていました。
パウロも彼らの習慣に従って、広場で人々に福音を伝え、論じ合ったのですが、そこで当時の有名な哲学者たちに会いました。18節。エピクロス派とストア派の哲学者たちです。エピクロス派は、無神論であり、物質主義で、裁きも天国も信ぜず、喜びと幸福を追求し、後に享楽主義に転落しました。ストア派も、この世は物質的であり、裁きも天国も信じませんでしたが、反対に理性を強調して、苦しい禁欲主義を提唱しました。
さぞかし哲学の知識を駆使して、哲学論議をしなければならなかったのではと思われるかもしれません。しかし、「イエスと復活を宣べ伝えていた」のです。イエス様の十字架と復活という福音を語っていたのです。哲学者と論じるのだから哲学を論じなければ、哲学を知らなければと思ってしまいます。そうではなかったのです。どこでも誰に対しても、イエス様の十字架と復活、イエス様が救い主であることを伝えていました。
これは、私たちに大きな示唆を与えています。人が自分より教養があり、社会的立場があると思うと気後れしたり、福音を伝えるのに困難を覚えたりするかもしれません。しかし、そのようなことを思う必要はありません。ただ自分の知っている福音を、自分の信じている信仰を伝えればよいということです。ただ自分の真実な信仰を見てもらい、生活に生きている信仰をみてもらうことで、人の心が開かれて行きます。テサロニケの聖徒たちのように影響を与える模範となれれば感謝です。
そういう証しの態度を見せていると、「このおしゃべりは、何が言いたいのか」と上から目線で軽んじる哲学者もいたものの、パウロをアレオパゴスという会議場に連れて行って、もっと詳しく聞きたいということになりました。19〜20節。アレオパゴスでは、貴族たちの会議所が置かれており、ローマに占領されるまでは、様々な会議が行われていました。
福音を聞こうという思いがあったわけではありませんが、パウロの伝えるイエスと復活がどんなものかに関心がありました。20節。当時のアテネ人はみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていたからです。21節。当時のアテネ人の関心事は、何か新しい学説や理論を聞き、討論することでした。
神の御子が犠牲になる救いや復活という概念は、彼らの哲学にもないことだったからです。興味本位でもいいのです。聞いてもらえる機会があれば、その人の心にニーズに触れ、救いを求める思いが起こされればいいのです。そうして、救いに導かれることを願います。
そのためには、私たちが人々をどのように見ているかということです。表面的に見ていれば、反発している、関心がないように見えるかもしれません。しかし、心の奥を見てください。誰でも罪に囚われ、偶像や迷信に動かされ、心は空しさや痛みを覚えています。このような心が見えて来たら、私たちの心も痛み、揺さぶられ、その人のために祈り、証ししないではいられなくなります。人や物事を霊的に見ることができる眼を与えられ、いつでも弁明できる用意をしておきたいと願います。Tペテロ3:15〜16。
使徒17:16 さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人たちや神を敬う人たちと論じ、広場ではそこに居合わせた人たちと毎日論じ合った。
17:18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも何人か、パウロと議論していたが、ある者たちは、「このおしゃべりは、何が言いたいのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は他国の神々の宣伝者らのようだ」と言った。パウロがイエスと復活を宣べ伝えていたからである。
17:19 そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものか、知ることができるでしょうか。
17:20 私たちには耳慣れないことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなことなのか、知りたいのです。」
17:21 アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。
ローマ1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなりました。
1:22 彼らは、自分では知者であると主張しながら、愚かになり、
1:23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
1:25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン
ローマ3:23 すべての人は、罪を犯した、栄光を受けることができず、
3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
Tペテロ3:15 むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
3:16 ただし、柔和な心で、恐れつつ、また、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしる人たちが、あなたがたを悪く言ったことで恥じるでしょう。
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