2021年10月31日「神のみこころに従って」使徒18:18〜23
序−第2回伝道旅行は、当初小アジアのエペソに行く予定であったのに、聖霊に禁じられてヨーロッパへと渡りましたが、ギリシヤへの町々を経て、ついにエペソに来ることになります。そこで、パウロは、「神のみこころなら、戻って来ます」と言いました。パウロの姿を通して、主のみこころに従って生きる聖徒の生き方を学びます。
T−請願を立てて−18
パウロは、コリントにおいて落ち込み、弱く、恐れおののいていたものの、人との出会いによって立ち上がることができ、驚くべき方法でユダヤ人の迫害から守られ、助けられ、1年半にわたる宣教を終えることができました。そして、シリアのアンティオキヤに戻ることにして、コリントのエーゲ海側の港ケンクレヤに来ました。18節。そこで髪を剃ったというのですが、普通に髪の毛を切ったのかもしれません。それよりも、なぜ、そんなことをしたのでしょうか。何の意味があったのでしょうか。
これは、ナジル人の誓いをしたのではないかと考えられています。ある期間神様に自分をささげる、聖別する誓いのことです。民数記6章。その期間は、一切の酒を飲まず、飲料水代わりのぶどう酒も飲まないで水だけ飲みます。汚れたものに触れないように自制します。そして、髪の毛を切らないで伸ばします。これらのことは、自分を神のものとして区別するということです。自分を神の前に聖別されたものとして生活しますという信仰告白なのです。自分に恵みをくださる神に栄光を帰して、自分を神にささげることを誓うのです。
聖書に出てくる神の人と呼ばれる人はみな、そのように生きた人でした。自分を神のものとしてささげるということは、神に従って生きるということです。神に仕える生き方をするということです。マタイ6:24。この誓いをしていなくても、イエス様を信じて生きる信仰者の歩みは、まず求めるものが違って来ます。イエス様は、神の国とその義とを求めるようにと言われました。マタイ6:33。
ケンクレヤで髪の毛を切ったということは、コリントにいる間は、この誓いをして髪の毛を伸ばしていたということです。コリントにいる間守れますようにと願ってしたことかもしれません。落ち込んで、弱く恐れおののいていたところから立ち上がらせていただき、助けられ、守られた恵みに対する感謝の応答と見ることもできます。一層自分を神にささげて、主に仕えて行くという信仰の思いをあらわしたものなのでしょう。
私たちは、イエス様の十字架を信じて救われた者です。神の御子が自分の救いのために身代わりに十字架にかかってくださったという驚くべき恵みに感激して、自分を神にささげ、神に仕え、神に栄光を帰するように生きようとする者です。私たちは、このケンクレヤのパウロの思いを知りながら、自分はどうだろうかと省みるのです。
コリントに来たばかりのパウロを思う時、私たち自身が、望みなくさまよっていたところから引き出され、救われた。燃え尽きて、落ち込んでいたところから立ち上がらせていただいた。弱く、不安で恐れていたが、励まされ、守られたということを思い出します。そういう恵みを覚えるなら、私たちは、主に自分をささげて、主に仕えて、イエス様を証ししながら生きたいと願うのではないでしょうか。
U−主のみこころなら−19〜21
パウロは、ケンクレヤ港から出帆して、エーゲ海を渡り、小アジア半島のエペソに着きます。19節。エペソは、第2回伝道旅行の当初目指していた所だったようです。聖霊に禁じられ、いやそういう形を通して導かれて、ヨーロッパ、ギリシヤに渡りました。神に導かれながらギリシヤの町々を巡りながら、今ようやくエペソに来たのです。これが神のご計画だったのです。パウロの計画を無視されたのではなく、このようにして導いてくださったのです。エペソが、第2回伝道旅行の最後となります。
エペソは、当時のローマ帝国4大都市の一つであり、繁栄していた町でしたから、多くのユダヤ人がいました。パウロは、エペソに着くと、自分だけユダヤ人の会堂に入って行きました。危険だからか、同行したプリスキラとアキラを残しています。気をつけて入った会堂では、どうでしたか。「論じ合った」という原語ダイアレゴマイの意味は、思考を交わして結論を得るということで、英語のダイアローグ、対話の語源になった言葉です。和やかに語り合ったという感じです。
コリントでのガリオ判決が、エペソにも影響を与えていたのでしょう。エペソのユダヤ人は、扇動する者もなく、みなパウロの聖書の解説を聞いたり、質問したり、対話したのです。心が開かれて、聖書が教えていた福音がよく分かって来ます。あの十字架にかけられたイエス様が救い主キリストなのかと思うようになります。
そうすると、彼らにどんな変化があらわれましたか。20節。もっと長くとどまるように頼んだというのです。驚きです。パウロは、これが主の導きだったのだと分かりました。伝道旅行のはじめのエペソ行きを聖霊が禁じられたのは、ギリシャの町々を巡ってからエペソに来るためだったのだと。私たちも、後であのことはこのためだったのかと分かることがあります。その時には分からなくても、主を信頼することが大切です。
この時、もっと長くいてくださいと頼まれたのをパウロは喜んで、感謝したと思います。それなのに、聞き入れませんでした。20〜21節。「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って、去って行ったというのです。これは、来ることができるかどうか分からないというのではなく、神は必ず戻してくださるという思いで言っているようです。神様の深い導きの中でエペソに来ることができたので、「神のみこころなら」と言ったのでしょう。
神のみこころについて考えてみましょう。パウロは、この伝道旅行を通して、神のみこころに従うということを学びました。徹底して神のみこころに従う生き方をするようになりました。どこに行って福音を伝えるのか、どれくらい留まって活動するのかということを自分の考えに執着するのではなく、自分に対する神のみこころはどこにあるのかを聞き、神が自分に望まれている道を見つけ出して、従って来ました。
私たちの人生も、そうなのです。私たちも、自分に向けられた神のみこころを尋ねながら生きる者なのです。イエス様を信じて救われたのなら、天地万物をお造りなった神が私の神であり、すべてをご支配されて神が自分を導いてくださるのです。みこころを聞かないで、どうするのですか。私たちの賜物、時間、富、機会などすべてのものを用いる時、それを与えてくださる神のみこころを求めて行うのが、当然ではないでしょうか。
私たちの姿は、どうですか。私たちは、神のみこころを尋ねているでしょうか。神のみこころに従って生きる者となっているでしょうか。自分の気分のおもむくままでありませんか。思うようにならない時、困った時だけ、助けを求めて騒ぐことがないでしょうか。主なる神は、今も私たちに周りの人や出来事を通して、自分に対する神のみこころを悟り、それに従って行くことを望んでおられます。ローマ12:2。
V−弟子たちを力づけた−22〜23
留まってほしいという願いを聞き入れないで、パウロが向かったところはどこでしょう。22〜23節。エペソからイスラエルのカイザリヤに行き、エルサレムに上り、アンティオキヤに下り、そこにしばらく滞在した後、再びガラテヤの地方およびフリュギアを次々に巡りました。何をしたのでしょう。行く先々で聖徒たちの安否を問い、伝道旅行の様子を報告しました。
パウロは、その目的を一言で言っています。「弟子たちを力づける」ことでした。励ました、堅固にしたという意味です。パウロは、聖徒たちがイエス様の弟子として信仰に堅く立って生きることができるように励まし、力づけたのです。パウロは、コリントで弱く恐れ、落ち込んでいた時、テサロニケ教会の聖徒たちの様子を聞いて、「慰めを受け、喜びを与えられた」と証ししていました。Tテサロニケ3:7〜9。ですから、ギリシャ人たちの救いや信仰を聞いて、イスラエルやアジアの聖徒たちが慰めや励ましを受け、喜びを与えられることを願ったのです。パウロは、自分が落ち込んでいる時、励まされたので、自分も聖徒たちを励まし、信仰に堅く立つように仕えたかったのです。ルカ22:32。
主に導かれて信仰に歩む聖徒たちが互いに信仰を分かち合う生活は、互いの信仰を堅く立たせ、成長させるためにどれほど有益で重要なことでしょうか。主の日にともに礼拝をささげる互いの姿が、世で享受できない励ましや力をどれほど与えてくれていることでしょうか。互いの信仰生活の姿から霊的エネルギーを供給されなければなりません。
イエス様は、ご自分に対する父なる神のみこころに従い、全人類の救いのために歩まれました。ピリピ2:6〜8。そして、十字架に向かう時にも、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈られました。ルカ22:42。私たちは、この神のみこころのままに十字架にまで従われたイエス様の十字架の御業によって救われた者です。私たちも、パウロのように御国に召される瞬間まで、自分に対する神のみこころを尋ねて従う献身の人生を生きていこうと願います。ローマ12:2。
使徒18:18 パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪を剃った。
18:19 彼らがエペソに着くと、パウロは二人を残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じ合った。
18:20 人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、彼は聞き入れず、
18:21 「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。
18:22 それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンティオキヤに下って行った。
18:23 パウロはアンティオキヤにしばらく滞在した後、また出発し、ガラテヤの地方およびフリュギアを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。
マタイ6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。
マタイ6:33 まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、これに加えて与えられます。
ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新にすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ルカ22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
ルカ22:42 「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
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