2021年11月7日「気遣いと謙遜をもって」使徒18:24〜28
序−エジプトにあるアレキサンドリアは、ローマ帝国4大都市の1つであり、世界中のあらゆる蔵書70万冊を集めた世界最大の大図書館があり、多くの学者たちが集っていました。ここで旧約聖書のギリシヤ語聖書70人訳が作られました。ここの出身であるアポロたちの姿から、信仰によって整えられる聖徒としての姿を学びます。
T−アレキサンドリア生まれ−24〜25
パウロがいなくなったエペソにエジプトのアレキサンドリア生まれで、アポロという名の雄弁で、旧約聖書に精通したユダヤ人が来ました。24節。その昔マケドニヤのアレキサンダー大王によって建設され、プトレマイオス朝の首都として栄えた都市です。大図書館があり、大勢の学者たちが活躍していました。市民たちも、自分たちの高い学問を誇りとしていました。この繁栄した都市の住民の4分の1がユダヤ人だったそうです。
ですから、アレキサンドリア生まれと紹介されているのは、アポロも高い学識の中で育ったということを伝えています。確かに、旧約聖書に精通していたユダヤ人でした。24節。聖書学者であるばかりか、雄弁家でもありました。25節。学識はあっても、伝えることは不得手というのではなく、学識もあり、弁舌も爽やかという能力の持ち主でした。情緒もよく、人に好かれたようです。
こんなアポロにも、足りないところがありました。学識もあり、弁舌も爽やかだったが、ヨハネのバプテスマしか知らなかったというのです。どういうことなのでしょうか。主の道とは、預言者イザヤが用いた言葉で、バビロン捕囚にされるけれども、やがてメシヤが来て解放されるという希望を預言したものでした。バプテスマのヨハネは、その預言のように、主の道を用意せよと荒野で叫ぶ声でした。悔い改めに基づくバプテスマを説いた人でした。ルカ3:3〜4。
そして、イエス様の活動のはじめも「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。バプテスマのヨハネの死後、弟子たちが悔い改めを説き、その関連でイエス様を伝えました。このヨハネの弟子たちは、はじめのイエス様しか知りません。イエス様の十字架と復活は知らなかったです。ですから、ヨハネの弟子たちから教えを受けたアポロは、ヨハネのような人としてイエス様を伝えていたのです。アポロは、ヨハネの悔い改めだけでイエス様の十字架の意味を知らず、福音を語っていなかったのです。
現代で言えば、イエス様のなさったことを語っているとしても、生き方のお手本として伝え、道徳のように教えている人々のようだったのです。聖書を学んだ。病人を癒し、貧しい人や阻害されている人々の友となられた人としてイエス様を知っている。イエス様に好感を持っている。しかし、イエス様を救い主とは信じない。自分のために十字架にかかってくださったことを受け入れない。そういう人がいます。残念なことです。
このままだったら、アポロも残念です。聖書に精通しながら、イエス様のことを知って、好感をもっていながら、イエス様が十字架にかかられた救い主だという確信がないままだなんて、残念です。私たちは、どうでしょうか。イエス様のことを学びながら、個人的な救いの体験をしているでしょうか。イエス様は、私の救い主だという確信があるでしょうか。アポロは、そういう体験がない、確信がない人でした。
U−わきに呼んで、神の道を−26
アポロがエペソのユダヤ人の会堂で堂々と聖書を教えていました。聖書に精通しているプライドをもって語っていました。しかし、そこにあのプリスキラとアキラ夫婦がいました。26節。コリントでパウロを助け、パウロと一緒にエペソに来ていました。パウロから後を託されていました。二人は、アポロのすばらしい学識と弁舌に感嘆しながら、話を聞いていました。しかし、聞いて行くうちに何か違和感を覚えました。何か変なのです。旧約聖書の知識の深さに驚きながらも、何か足りないのです。
イエス様の活動は話していましたが、バプテスマのヨハネのような悔い改めを勧めることだけでした。イエス様の十字架と復活がなかったのです。イエス様が救い主、キリストであることを説いていなかったのです。28節。アポロが意図的にそうしているのではないことは分かります。単に知らないだけであるようです。一方二人は、パウロからイエス様の十字架が私たちの罪の身代わりであり、信じる者の罪が赦され、天国への命をいただけるという福音を聞いていました。
そこで、二人は、アポロにそのことを教えてあげなければと思いました。注目すべきは、この時の二人の行動です。26節。二人は、人々の前で「アポロ先生は肝心な所が抜けていますよ、大事なことを知らないのですか」などと言ってはいません。そうではなくて、「彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した」のです。二人は、とても謙虚です。「わきに呼んで」というのは、アポロの心情に配慮して、人々の前ではなくそっと人目をさけて、アポロに教えてあげたということです。心遣いができる人こそ、成熟した聖徒の姿です。
もし人が人々の面前で、自分の足りないところ、間違ったことを指摘されたなら、どうでしょうか。プライドがズタズタになるでしょう。怒りすら生じるかもしれません。むしろ自分を守ろうと攻撃することもあるでしょう。私たちは、そんな時、どうですか。アポロのように人々の賞賛を得ている人なら、指摘されるショックはそれだけ大きいでしょう。この時の二人の慎重な姿勢がいいですね。この気遣いに目がとまります。
肉のプライドは、自分が受けるべき対応を受けることができない時、敏感に反応します。過ちや足りなさを指摘されれば、なおさら反応します。癒されていない過去の傷があれば、大きく反応します。相手にも、心の傷を与えようと攻撃的になりさえします。プリスキラとアキラ夫婦は、人のそのような姿を知っているからこそ、慎重にアポロの心を気遣ったのです。人を助けよう、人に仕えようとするならば、二人のような人の心を大事にしようとする気遣いが必要です。
二人が慎重にアポロに説明した神の道とは、イエス様の十字架の苦しみと傷を通して与えられる、罪の赦しと心の傷の癒しです。なぜ、神の御子が十字架にかかられたのですか。イエス様の十字架は、人々の罪と肉の思い、苦しみと悲しみを負われたものです。Tペテロ2:24, ヘブル4:15。イエス様の十字架の救いは、二人が気遣ったような人の挫折感や羞恥心、劣等感や自己嫌悪からその人を解放し、憂いや心の傷を癒して、新しい命に生きるようにさせてくださいます。
V−イエスがキリストであることを−
アポロは、どのように反応したのでしょうか。この後の様子を見ると、二人の配慮を素直に受け取り、その教えてくれたことを謙遜に受け入れたことが分かります。27〜28節。エペソの聖徒たちが、コリントで奉仕しようとするアポロのために推薦文を書き、アポロはコリントでイエス様が救い主キリストであると語るようになるからです。
アポロは、学者であり知識人です。雄弁家です。人々の評判も得ています。プリスキラとアキラ夫婦は、テント作りの職人です。しかし、アポロは、二人の心遣いに感謝して、二人のアドバイスを素直に受け入れたのです。霊的には、二人が優っていると認めたのです。アポロのすばらしさは、このような謙虚さ、素直さにこそあります。成熟した信仰者の姿です。この姿に私たちの心が惹かれます。
人は誰でも、間違いをし、失敗もし、足らないところがあります。それを指摘されたら、それを知らされたら、どうでしょう。その対応、反応が重要です。間違いも失敗もしない人がすばらしいのではなく、失敗や間違いを認め、謝り、直すことができる人こそすばらしいのです。それを妨げるものが肉のプライドであり、癒されていない心の傷です。ですから、福音が必要です。イエス様の十字架によって傷が癒され、神に愛されている者となることが必要なのです。
プリスキラとアキラ夫婦に助けられて、霊的にも整えられたアポロに対して、コリントに来て、助けてくださいと要請が来たようです。アポロも、要請に応えてアカイヤへ渡りたいと思っていたので、コリントの聖徒たちがアポロを歓迎してくれるように手紙を書いたのは、当然コリントから来たプリスキラとアキラ夫婦でしょう。このように伝道者を支え、霊的にも助けてくれる聖徒がいてこそ、伝道者として立っていけるのです。
その結果、聖徒たちを大いに助けることができました。27節。しっかり、福音の核心を伝えました。聖書学者で雄弁家ですから、頑ななユダヤ人を論破することもできました。27節。大きく用いられたのです。二人のお陰ではありますが、アポロ自身の素直さ謙虚さのゆえです。
人は、中々素直になれない、過ちや失敗を指摘されたらとても受け入れられない、謙虚になるよりも肉のプライドで立とうとします。私たちのためにイエス様はどのようになられましたか。ピリピ2:6〜8。ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われました。私たちは、このイエス様に救われたのですから、互いに自己中心や虚栄心からすることなく、他の人のことも顧みて、気遣い、受け入れ、仕える者となりたく願います。ピリピ2:3〜5。
使徒18:24 さて、アレキサンドリア生まれで、アポロという名の雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。
18:25 この人は、主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったりまた教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
18:26 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわき呼んで、神の道をもっと正確に説明した。
18:27 アポロは、アカイヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるように弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。
18:28 彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。
ルカ3:3 ヨハネは、ヨルダン川周辺の地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めバプテスマを宣べ伝えた。
3:4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
ピリピ2:1こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
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